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めぇでるコラム : 2016保護者: 2015年3月

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第5章(2) 雛祭りとお彼岸ですね

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第17号-
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第5章 雛祭りですね(2)
      
★★なぜ、桃の花を飾るのですか★★
雛祭りを楽しんでいる雰囲気の伝わってくる、懐かしい唱歌があります。私に
は姉と妹がいましたから、この気持ちはよくわかります。箱の中から紙に包ま
れた人形を取出し、それを雛壇に飾りつける母やお手伝いさん(当時は女中さ
んといっていましたが)の姿が思い出されます。
作詞家のサトウ ハチローは、この詩の誤りを悔い印税をつぎ込み、買い戻し、
破棄したいと思っていたそうです。その誤りとは、二番の「お内裏様とおひな
様」で、お内裏様は天皇、皇后の姿をかたどって作った一対の人形、おひな様
は雛人形のことですからおかしな表現になり、三番の「あかいお顔の右大臣」
ではなく翁(おきな)の「左大臣」の方だからだそうです。誤ったまま伝えられ
るものは数多くあるようですから、これでいいのではないでしょうか。「男雛
様と女雛様」では、詩人の感性として許せないでしょう。
 
 うれしいひなまつり
  作詞 サトウ ハチロー  作曲 河村 光陽
 
    一 あかりをつけましょ ぼんぼりに
      お花をあげましょ  桃の花
      五人ばやしの    笛太鼓(たいこ)
      今日はたのしい  ひなまつり
 
    二 お内裏様と  おひな様
      二人ならんで  すまし顔
      お嫁にいらした 姉さまに 
      よく似た官女の  白い顔 
 
    三 金のびょうぶに  うつる灯(ひ)を
      かすかにゆする  春の風 
      すこし白酒    めされたか
      あかいお顔の   右大臣
 
    四 着物をきかえて  帯しめて
      今日はわたしも  はれ姿
      春のやよいの   このよき日
      なによりうれしい ひなまつり
 
なぜ、桃の花なのでしょうか。
 
「桃は五行の精なり」といい、桃には古来より邪気を払い百鬼を制すという魔
除けの信仰があった。(中略)中国で殷(いん)の時代に狩猟民族が天意を占
うときに、亀の甲や獣骨に占い字(ト辞・ぼくじ)を刻んでそれを火にあぶる
と、甲羅や骨にひび割れができる。
そのひびの入り方によって古代人は神意を判断して吉凶を占った。そのひび割
れをかたどったのが「兆」という象形文字である。「兆候(きざし)」「前兆
(しるし)」「兆占(うらない)」「兆見(まえぶれ)」などのことばからも
わかるように、兆は未来を予知するかたちを表している。「桃」は兆しを持つ
木とされ(中略)、未来を予知し、魔を防ぐという信仰が生まれたのである。
したがって鬼退治物語の主人公は、柿太郎でもなく梨太郎でもなく、桃太郎で
なければならないのである。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P79) 
 
桃の木には、たくさんの実がなり、魔を防ぐと信じられていましたから、桃の
花を供え、子宝に恵まれる女の子の幸せを祈ったのです。
 
さらに訳ありなのは、桃太郎の家来が、猿と雉と犬であることです。「犬猿の
仲」といわれるほど仲の悪い犬と猿が家来となって、うまくいくはずはないの
ですが、間に鳥がいるから大丈夫なのです。十二支にも「申(さる)・酉(と
り)・戌(いぬ)」と間に酉が入って、けんかをしないように配慮されていま
す。「和をもって貴しとなし」ではありませんが、「聖徳太子の教えが、ここ
にも生きているぞ!」と一人で悦に入っています(笑)。
〔注〕 十七条の憲法 
一曰 以和為貴 無忤為宗
「一に曰く 和を以って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗
(むね)とせよ」  
(和を何よりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい)
    (フリー百科事典〔ウィキベディアWikipedia〕より)
 
ところで、斑鳩の里にある法隆寺といえば、仏教を広めた聖徳太子の業績をた
たえるために建立された寺院であると思っていたのですが、哲学者、梅原猛氏
の「隠された十字架=法隆寺論」(新潮文庫 刊)には、一族を皆殺しにされ
た太子の怨霊を鎮めるために建てられた寺であることが明らかにされています。
夢殿にあった白い布で包まれた秘仏を、フェロノサ(明治時代に来日したアメ
リカの日本美術研究者)などの要請で開扉したところ、光背が頭の後に釘で打
ちつけられ、胴体が空洞でつり下げられている救世(ぐぜ)観音像が出てきた
そうで、ここから氏の怨霊説が生まれたのでした。読んで驚くことばかりです
が、哲学者の妥協を許さない鋭い明察は、歴史学者にはない魅力にあふれてお
り、すっかりはまりこみ、読みあさっています(笑)。
(注 光背 仏像の背後につける光明を表す装飾で、どのような仏像も、足元
の台座から支えを伸ばし、仏像の頭部まで持ち上げられている)
 
★★左近の桜、右近の橘って?★★
なぜ、雛壇に桃だけではなく、桜と橘を飾るのでしょうか。雛壇に向かって右
に桜、左に橘を飾りますが、これは京都御所にある「左近の桜」(御所に向か
って右側)「右近の橘」(向かって左側)を表しているそうです。京都の冬は、
昔から雪こそあまり積もりませんが、底冷えをする寒さは厳しく、禁中に仕え
る者は、古くから左近の桜のつぼみのふくらむ様子を眺めながら、春を待って
いました。
 
京都御所の紫宸殿の東側に桜、西側に橘が植えてあり、左近衛府の官人は桜の
木から、右近衛府の官人は橘の木からそれぞれ南側に整列して宮廷の警護にあ
たった。桜と橘はいわば、宮廷の門と同じ役割を果たしているのである。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P85)
 
官人とは天皇を守る近衛兵のことですが、お雛さまを飾るモデルは、京都御所
なんですね。
五段目には、おかしな顔をした傘と笠と沓を持った三仕丁を飾りますが、その
左右には、宮廷の門と同じように桜と橘を飾ります。その上の四段目には、向
かって右に左大臣(老人)、左に右大臣(若者)を飾りますが、唐の文化の影
響が、そのまま身分の上下となって表れているわけです。  
 
橘は、みかんの古称で、日本では万葉の時代から和歌に多くうたわれている馴
染み深い木の一つで、黄色い実が魔除けになるともいわれています。大昔より
日本に自生している常緑樹で、冬でも緑を失わないその姿と、見栄えのある美
しい果実、そしてかぐわしい香が、古くから尊ばれてきたのでした。また、神
の化身とされる蝶の幼虫が育つことで、神代と世俗を結ぶ神の依代(よりしろ・
心霊が招き寄せられて乗り移るもの)と考えられていました。
(http://www.e87.com/selection/sp_hina/colum_04.htmlより)
 
橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の樹
         万葉集 6(1009)
(注 枝“え” 常葉“とこは”)
 
「橘の木は、実も花も、その葉も、そして、その枝までも、霜が降ってもびく
ともしない。いつまでも葉の落ちない木だこと」と、万葉集にも歌われていま
すが、常葉の樹(常緑樹)の中でも、生命力の豊かな木であることがわかりま
す。何事も訳ありですね。
 
ところで、中宮和子が帝と初めて花見をしたのは、この左近の桜です。その折、
帝に献上したのが、在原業平をモデルとした押絵でした。見事なできに感激し
た帝が色紙に書いた和歌は、在原業平の世の中に
 たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
でしたが、その後、様々な事件が起き、帝も退位し、女帝興子の誕生となりま
す。帝の心中を推し量れば、「世の中にたえて徳川のなかりせば……」ではな
かったでしょうか。
 
若い皆さん方には馴染みのない作家かもしれませんが、文芸評論家、小林秀雄
の弟子で、60歳過ぎてから小説を書いた偉才、隆慶一郎の絶筆となった未完
の作品に「花と火の帝 上・下」(日経文芸文庫 刊)があり、25年の暮れ
再版され読むことができ感慨無量でした。家康、秀忠の横暴に毅然と立ち向か
った後水尾天皇とそれを支えた和子の様子が、猿飛佐助、霧隠才蔵などで組織
された「天皇の隠密」という奇想天外な応援を得て、徹底抗戦する展開になっ
ていましたが、完結することなく世を去ってしまいました。奇想天外というと
荒唐無稽と誤解されそうですが、昨年の正月に放映された「影武者徳川家康」
と同様、史実に基づいた着想からなり、一気呵成に読まされてしまう傑作で、
最後がどうなるかまるで想像もつかないだけに残念でなりません。宮尾登美子
さんと違った帝と中宮を知り、梅原猛氏と同様、歴史の謎を究明する鋭い洞察
力に脱帽するばかりで、1989年没、享年66歳、隆慶一郎のあまりにも早
い旅立ちに、無念の思いを禁じえませんでした。
 
血圧が上がるといけないので心を静めるとして、桃も桜も橘も、日本の春を静
かに語っているように思え、心は落ち着き、いつまで見ていてもあきませんね。
桜については、4月に詳しくお話しする予定です。
 
★★なぜ、菱餅は、赤、白、緑なのですか★★
菱餅を見ていると、積もっていた雪も少しずつとけはじめ、雪の下で寒さに耐
えながら、春を待っていた木の葉や草の緑色が、ほんのわずかながら姿を見せ、
早春の息吹を感じることのできる、そんな情景が浮かんできます。咲き始めた
桃の花に、春の淡雪がうっすらと積もる初春の雪景色、その白と緑と赤の鮮や
かなコントラストに、「日本って、いいなぁ!」と日本人であることにしみじ
みと感謝したくなります。菱餅は、初春を待つ人々の心を見事に表していると
思いませんか。本当のところはどうなのでしょうか。
 
菱餅の赤、白、緑の三色は、赤は桃や紅花で色づけしたもので魔除けを、白は
清浄を、緑は独特の香りのある蓬(よもぎ)で、体に悪いものを外に出す働き
があり、薬として使われていたので健康を表しているのだそうです。雛壇の敷
物が赤いのも、意味ありなんですね。
アカデミー賞の華、レッドカーペットは、関係ないでしょうね(笑)。
また、どうして形が「菱形」かですが、餅に入っている菱の実の葉が、菱形を
しているからではないかと思うのですが、これは私の独断ですから間違ってい
るかもしれません。
菱餅を飾る理由は、インドの仏典の説話に、竜に菱の実を捧げたところ娘の命
を救った話
があり、そこから「菱の実は子どもを守る」という言い伝えが生まれたからだ
そうです。
この菱を、茹でて食べたことがあります。戦後の食糧事情は最悪で、食べ物が
なく、さつま芋のつるまで食べました。レストランなどで豪快に残しているの
を見ると腹立たしくなるのは、幼児期に飢餓の経験があるからです。今でもア
フリカなどでは、飢えで死んでいく子ども達がたくさんいて、写真で見た子ど
もたちの目を忘れることはできません。食べ物がないのは、空腹感を満たすた
めに心が卑しくなり、辛くて、悲しいものです。「衣食足りて礼節を知る」は、
昔々の話になったようです。
 
★★ひな祭りのごちそう★★
女のお子さんがいる家庭では、必ず頂く蛤(はまぐり)のお吸い物とお寿司で
す。蛤の貝殻は、他の貝とは合わないことから女性の貞節を教え、夫婦の相性
が良いことを願ったものです。女の子のお祝いらしく、彩(いろどり)が華や
かなちらしや五目寿司などに、菜の花やぜんまいのおひたし、たらの芽のてん
ぷらなど、春の旬の食材が花を添えます。先に紹介した菱餅の他に、干した米
を煎った雛あられ、元は桃の花を酒に浸した桃花酒でしたが江戸時代頃から飲
まれるようになった甘い白酒、塩漬けの桜の葉で巻いた上品な香りが何ともい
えない桜餅などが、雛祭りのごちそうの定番でしょう。この桜餅ですが、甘い
物が苦手な私でも長命寺餅は頂きます、絶品ですね。ちなみに関西では道明寺
餅が有名です。
 
★★桃源郷は、どこにあるのでしょうか★★
桃といえば、この話を忘れることはできないでしょう、桃源郷です。陶淵明の
書いた「桃花源記」にある理想郷は、桃の花が咲き乱れる桃源郷として描かれ
ています。魔除けの力を秘めた霊木であり、不老長寿の仙薬(飲むと仙人にな
るという薬から転じて効き目が著しい霊薬のこと)と信じられていた桃の花ゆ
えに、納得できますね。「桃花源記」の原文は手に負えませんが、こういった
古典文学には、小学生の高学年用に書かれたものがあり、時々、図書館の子ど
も部屋におじゃまして、「変なおじさん!」といった目を気にしながら読んで
います(笑)。
 
【桃花源記(作:陶淵明)の話の概略】(抄訳)
 中国太元の時代、武陵に一人の漁師がいました。
 ある日、小舟をあやつり漁に出たのですが、見覚えのない所に来てしまい、
あたり一面に桃の花しか咲いていない林を見つけたのです。甘美な香りを漂わ
せ、美しい花びらが舞っているではありませんか。見とれていた漁師は、林の
先を突き止めたくなり奥まで船を進めました。林は水源のあたりで山につきあ
たったのです。そこに小さな穴があり、中へ入っていくと、突然、景色が開け、
土地は四方に広がり、立派な建物や滋味豊かな田畑が見渡せました。鶏や犬の
鳴き声が聞こえ、そこにいる人々は、異国人のような装いをし、
みんな楽しそうでした。
 ぼんやりと立っている漁師に気づいた人々は驚き、どこから来たのか尋ね、
ありのままに答えると、一軒の家に案内され、お酒やご馳走でもてなされたの
です。人々が言うには、
「私どもの祖先が、妻子ともども一村の者たちと秦の世の戦乱を逃れ、この絶
境に来てから、一度も外に出たことがないので、よその人とまったく関わりを
持たなくなってしまったのです。ところで、今は一体、どういう時世なのです
か」
と、漢はもちろん、魏、晋のこともわからないのです。漁師が詳しく説明する
と、みな感に堪えないように聞き、家から家へ連れていかれ、どこでも歓待さ
れるので、4、5日滞在したのでした。
 やっと村を去る日が来たとき、「私どものことは言うほどのこともありませ
んから、よそ様にはお話にならないでください」と懇願するのです。しかし、
途中に目印を残しながら帰ってきた漁師は、家に着くと、さっそく郡の太子の
もとへ行き、この話をしました。興味を覚えた太子は、案内をさせましたが、
目印はおろか、前に行った道さえ見つかりません。この伝えを聞いたある君子
が、その仙境へ行こうとしましたが、その志を果たさぬ内に病で世を去り、こ
の後、再び訪ねようとする者はいなかったということです。
この話から「武陵桃源」「桃源郷」は仙境の意に使われ、転じて理想郷の意となっ
たのでした。
   生きる心の糧 中国故事物語 Ⅳ  駒田 信二・寺尾 善雄 編
                           河出書房新社 刊
 
人はだれしも秘密を持つと黙っていられなくなるようです。浦島太郎も乙姫さ
まとの約束を守れず、おじいさんになってしまいました。これも人間の性(さ
が)でしょう。
 
山の奥深くに、海の底に、理想郷を夢見るのは子どもではなく、いい年をした
大人、しかも男性に多いともいわれていますが、かくいう私もその一人です
(笑)。分別のある女性はばからしくて興味がないようですが、それだけ現実
的なのでしょうね。桃源郷は、誰しもが心の隅に描きたくなる「かくありたい、
ささやかな願い」ではないでしょうか。残念ながら実生活でも、ささやかな願
いは、かない難くなっているようです。
(次回は、「お彼岸」などについてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第5章(1) 雛祭りとお彼岸ですね  弥 生

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第16号-
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第5章(1) 雛祭りとお彼岸ですね  弥 生
                   
暦の上での春は、三月からです。
物の本によると、「春」の読み方は、万物が「発(は)る」(発する)からと
いう説が有力ですが、草木の芽が「張る」、天候の「晴る」、田畑を「墾
(は)る」などの説もあるそうです。
弥生(やよい)のいわれは、この頃になると、草木がいよいよ生い茂ることか
ら、「草木がいやおい茂る月」が詰まり、「弥生」になったといわれています。
 
★★五節句のおもしろい特徴★★
三月といえば、何といっても雛祭りです。雛祭りは、言うまでもなく女の子の
節句です。        
節句は一年間に五つあるので五節句と呼ばれ、正しくは「神と一緒にあること
を表す節供」だそうですが、ここでは使い慣れている節句としました。
 
五節句を決めたのは江戸幕府で、古来、宮中で行われてきた年中行事から5つ
選んだものです。
一月七日は人日(じんじつ)、陰暦の正月七日のことで、七草粥を食べる日か
ら別名「七草の節句」。
三月三日は上巳(じょうし)、お雛さまを飾る日から別名「桃の節句」。
五月五日は端午(たんご)、鯉のぼりや兜を飾り立身出世を願う尚武が添加し
て別名「菖蒲の節句」。
七月七日は七夕(しちせき)、夏の風物詩、七夕飾りをする「七夕の節句」、
別名「笹の節句」。
九月九日は重陽(ちょうよう)、陰暦九月九日の節句で、九は陰陽道では陽の
数とされ、これを二つ重ねた日にあたるので「重陽」といい、別名「菊の節句」
ともいわれています。
五節句は奇数日で、人日を除くと同じ数字が重なっていますが、これも何か意
味がありそうです。
 
 暦の中で奇数の重ねる日を取り出し、奇数(陽)が重なると陰になるとして、
それを避けるための避邪(ひじゃ)の行事が行われ、季節の旬の食物から生命
力をもらい、邪気を払うという目的から始まりました。
(http://iroha-japan 「日本文化いろは事典」より)
        
七草粥には、ご馳走を食べ過ぎた胃を調整する薬草が入っています。      
桃の葉は、薬草です。                      
菖蒲の根を細かく刻んで造った酒は、邪気を払い万病に効くといわれています。
淡竹(はちく)、真竹(まだけ)は竹葉(ちくよう)という生薬で解熱、利尿作用
があります。
菊は、長生きの薬といわれています。
五節句に登場する植物は、すべて薬用で、当然のことですが、やはり意味あり
でした。      
 
「私達の先祖は、薬品を食品化することで、まず日常の食事療法をやり、さら
に労働スケジュールに合わせて、その時期にいちばん必要な薬物を年中行事化
することで、魔除けや信仰として摂取し、健康体を維持できるように、実に巧
妙といっていい、健康管理を行っていたのである。」
(「梅干と日本刀」 日本人の知恵と独創の歴史
 樋口清之 著 祥伝社 刊 P131)
 
五節句は農業スケジュールに合わせて作られ、その時の飲食物は全て薬品なの
です。昔は病気になってから治療するのは大変でしたから、病気を予防するた
めの知恵でもあったのです。当時の農作業、米作りは人海戦術でした。病気を
すると労働力が減り、お百姓さんにとっては一大事でしたから納得できました。
ところで、「怠け者の節句働き」といい、怠け者をあざける言葉があります。
節句の日には仕事を休み、神さまにお願いをする慣わしがありましたが、普段、
怠けていると、この時も田畑で仕事をしなくてはならないことから生まれた言
葉です。農作業は、一日も手抜きが出来ない厳しい作業環境でもあったわけで
す。
 
★★雛祭り★★
昔のお雛さまは、今のように立派な飾りものではありませんでした。子どもが
病気にかかると、新しい雛人形を川へ流して、病気が体の外へ逃げていくよう
に、悪いことが起きないようにと、お祈りをしました。流し雛です。
 
室町時代、紙で作った人形(ひとがた)で体をなでて穢れを移し、川や海に流
すことで無病息災を祈った「流し雛」という風習と、ひいな遊び(人形遊び)と
が結びつき、貴族の間で人形を飾り、祀(まつ)るようになったと考えられて
います。
       (http://iroha-japan 「日本文化いろは事典」より)
 
子どもの頃に見た覚えがあります。米俵の両端にあるわらで編んだ丸いふた
「さんだわら」の上に、紙と土で作った雛人形を、あられや菱餅、桃の花と一
緒にのせて川へ流したもので、東京では「さんだらぼっち」といいます。今の
ように部屋に飾って、お祝いをするようになったのは、徳川家康の孫の東福門
院が、子どものために作った座り雛が、その始まりといわれています。
                                    
東福門院は、名を和子―彼女は徳川二代将軍秀忠の娘として生まれた。徳川幕
府の婚姻による朝廷懐柔策のため、元和6年(1619)に、14歳で後水尾
天皇の中宮として入内し、3年後に皇女興子(おきこ)が生まれた。(中略)
寛永6年、幕府と朝廷が反目するなかで起こった紫衣事件および春日局事件の
ため、後水尾天皇は、譲位を決意(中略)、6歳の興子内親王(明正天皇)に
譲位され(中略)、平安時代以来絶えてなかった女帝の出現である。中宮和子
は興子が健やかに育ち、美しい花嫁になって嫁ぐ日を夢見ていたのだが、天皇
になってはもはや結婚できないであろうと、興子の幸せを夢に描いた押絵の掛
軸を作った。モデルは美女の代表・小野小町と美男として名高い在原業平とい
う夫婦の座り雛である。(中略)それが現在の雛のはじめといわれている。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P72-73)
 
少し解説を加えますと、秀忠の妻、江(ごう)は、織田信長の妹、お市の方の三
女、長女、茶々は秀頼の母淀君、次女の初は京極高次の妻。
入内とは、中宮、皇后などが正式に内裏へ参内すること。
紫衣(しえ)事件とは、僧侶が勅許により着ることを許される紫衣を幕府が授受
を規制する制度を設け、後水尾天皇が許可した大徳寺の沢庵和尚などの紫衣の
着用を無効にした事件。
春日局事件とは、家光の乳母お福は、天皇や皇后に謁見できない身分にもかか
わらず、中宮和子に会うため強引に参内、中宮から「春日局」という局号を授か
った事件。
押絵とは、羽子板にみられるように、花鳥、人物などを厚紙でかたどり、きれ
いな布でくるみ、中に綿を詰めて高低をつけ、板などに貼り付けたもの、掛軸
の雛は、向かって左に業平、右に小町が描かれています。
  
雛人形の始まりが、美男、美女の代表であるとは、いかにもお雛さまらしいで
すね。雛人形が飾られるようになったのは、文化文政時代を経て天保
(1830)の頃からで、宮中から武家社会、裕福な商家や名主の家庭、そし
て町人社会へ広まり、現在のような豪華な雛壇が作られるようになったのです。
 
平成21年のNHK大河ドラマは「天璋院篤姫」の原作者、宮尾登美子さんの
作品に、お雛さまの始まりとなった中宮和子(まさこ)を描いた「東福門院和
子の涙」がありますが、
紫衣事件や春日局事件の経緯、内裏と大奥の習慣の違い、京都と江戸の文化の
違いに苦労された和子の姿が、侍女の目を通して冷静に描かれています。
「天璋院篤姫」では、その苦労を皇女和宮が味わうことになり、従来、天璋院
は和宮の姑の立場から意地悪姑と捉えられがちでしたが、女性の眼から見た徳
川幕府の崩壊していく様子を描く優れた歴史小説で、二つの作品を読むと、朝
廷と幕府の関係、やがて迎える明治維新の火種が、徳川幕府初期の頃から、随
所にまかれていることもわかります。この年から、なぜか、大河ドラマを見る
ことになってしまいました(笑)。
 
22年の「龍馬伝」は、「天璋院篤姫」の後半の世界と重なり、「篤姫」と同様、
最後まで見ましたが、関が原の一戦で敗れた島津、毛利の両家の祖先の怨念が、
勝者の徳川家を倒した戦いで、「国を変える」と叫び走り続けた竜馬が、歴史の
波に押し流され舞台から消えた後に明治維新がなり、再び天皇家が政治の表に
登場し、損をしたのは会津藩の松平家であったわけです。
 
23年は、秀頼に嫁いだ千姫、三大将軍家光、次男の忠長、女帝興子の母であ
る和子の母君を主人公にした「江」でした。姉の茶々、淀君は豊臣家に、妹の
江は徳川家に嫁ぎ、姉妹の母親であるお市の方が前田家に殉じたように、淀君
は秀頼と共に世を去りますが、江は三度も結婚し、女帝の祖母にもなる波乱万
丈の生涯を送ります。天下布武を旗印に基礎を作ったのは信長、統一したのは
秀吉、磐石の体制を作り治めたのは家康ですが、織田家の血が脈々と流れてい
るのには驚かされますね。原作、脚本は「天璋院篤姫」を手がけた田淵久美子
さんで、史実と違った解釈が、なぜか新鮮な感じがして、これまた最後まで見
るぞと意気込んでいましたが、江も秀忠も立派過ぎて、途中でリタイアしまし
た。諸田玲子さんの「美女いくさ」(中央公論社 刊)と同様、江のキャラク
ターを変え、信長、秀吉、家康、秀忠の果たした歴史的役割も、簡潔に整理さ
れていましたが、永井路子さんの「乱紋」(文春文庫 刊)、澤田ふじ子さんの
「無明記」(「寂野」に収録 徳間文庫 刊)、テレビでも放映されましたが
大胆な発想に度肝を抜かれた隆慶一郎の「影武者徳川家康」(上中下 新潮文
庫 刊)などの作品に感化され、なじめなかったためでした。
 
余談になりますが、江の長女、秀頼の正室である千姫を主人公にした澤田さん
の「千姫絵姿」(新潮文庫 刊)は、女性でなくては書けない傑作で、「吉田
御殿の魔女」などおもしろ、おかしく伝わる話と違い、納得できる人物として
描かれた傑作です。その千姫の墓は、左甚五郎が魔除けのために置いた「忘れ
傘」でも知られる、知恩院にあります。
 
ここまで篤姫から始まった大河ドラマは、何らかの関係があったのですが、
24年は趣向が変わり「平清盛」、久しぶりに骨太の歴史物語を楽しみました
が、視聴率はあまり芳しくなかったようです。
そのためかどうかわかりませんが、25年は「八重の桜」で、再び篤姫の時代
に戻り、会津藩が登場しました、松平容保です。澤田ふじ子さんの作品に、薩
摩藩と会津藩の怨恨、うらみつらみの凄まじさを書いた「葉菊の露」(上下 
中央文庫 刊)があり、どうしても悲劇的な物語になりがちですがさらりとか
わし、「幕末のジャンヌ・ダルク」の時期はテンポもよく面白かったのですが、
新島襄と出会い同志社大学設立の頃からまどろっこしくなり、美形の八重さん
では無理でしょうが「天下の悪妻」といわれたイメージもなく、「日本のナイ
チンゲール」まで印象付けることはできなかったようです。
 
昨年は「軍師官兵衛」、信長、秀吉、家康の時代へ逆戻り。官兵衛がみた3人
の英雄を、それぞれの役者が見事に演じ見応えがありました。「織田がつき 
羽柴がこねた天下餅 座りしままに食うは徳川」といった狂歌がありますが、
まさにその通りの展開でした。寺尾聰の扮した家康、父親の名優、宇野重吉に
似てきましたね。イスラム国のテロ事件、宗教が争いの元だけに悲惨ですが、
日本でこの種の争いが起きにくいのも、誤解を恐れずに言えば、3人の合作し
た天下餅によるところが多く、政教分離の発端となったのが信長の比叡山の焼
き討ち、後を継いだ秀吉が検地と刀狩で武士と農民を分け米による国家経済の
基礎を固め、家康が士農工商の階級を作り、禁中並公家諸法度などで天皇と公
家を政治から切り離し、武士が天下を支配する徳川幕府が誕生、まさに信長の
構想であった「天下布武」が実現したわけです。
今年は、再度「篤姫」の時代に戻り、徳川体制が崩れ大政奉還に至る過程を描
く「花燃ゆ」ですが、吉田松陰は絵になりにくく、かったるい気持ちで見てい
ます。「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」、
高杉晋作の作と言われていますが、晋作に何とかしてもらいたいものです(笑)。
 
ところで、徳川家の家紋は、水戸黄門の印籠でおなじみの葵ですが、三代将軍
家光の乳母、春日局の生涯を描いた澤田さんの小説「江戸の鼓」の中で、その由
来が明かされています。
 
 葵紋は京都、賀茂神社の神紋。同社は遷都以来、天皇に敬われ、伊勢大社を
もしのぐ大社になり、その神文は尊く、天皇家すらはばかりを持つようになっ
た。徳川家康がこの葵紋を家紋に決めるについては、かなりの政治性がうかが
われる。単に徳川家の遠祖松平氏が、賀茂神社の氏子で、賀茂信仰によるもの
だとはとても考えられない。天皇家をもはばからせる政治的権威の必要からだ
ろう。
  (江戸の鼓 春日局の生涯 澤田ふじ子 著 徳間書店 刊 P102)
 
「天皇家をもはばからせる(遠慮させる)」のが、家康の野望であることがわかり
ます。歴史に「イフ」はありませんが、もし、中宮和子に授かった高仁親王が
順調に育っていれば、公武合体は成立し、畏れ多くも天皇家に織田家と徳川家
の血が流れ、明治維新は違った形で回天したのではなかったでしょうか。
そして驚いたのは、現在の雙葉学園の前身である「雙葉会話女学校」は、学校が
創設された赤坂葵町の葵にヒントを得て校名とし、一本の茎の先に二枚のハー
ト型の葉をつける「ふたば葵」の図案を校紋としたことでした。キリシタンを
禁止し迫害した徳川家と同じ紋であるとは、何とも不思議に思いませんか。
 
宮尾さんと澤田さんの著作には、いつも頭の下がる思いで読んでいますが、十
二代市川團十郎が亡くなった時、父である十一代團十郎をえがいた「きのね」
を再読しましたが、奥方の壮絶な生きざまを、ここまで赤裸々に描いた宮尾さ
んの作家魂には、寒気を覚えるほどでした。作家、檀一雄の娘である檀ふみさ
んの解説もすばらしく、一読をお勧めしたい一冊です。なお、十二代市川團十
郎が亡くなったのは、平成25年2月3日でした。
 
話を本題に戻して、雛壇には、お内裏さま、三人官女、五人囃子、右大臣、左
大臣、おかしな顔をしている三人仕丁(じちょう―雑役係)、菱餅、あられ、白
酒、桃と橘の花に、いろいろな生活用品が飾られています。女の子が、やさし
いよい子に育って、幸せになるようにとお願いする日ですから、飾りものも女
性ムードいっぱいで、夢があります。人形が主役ですが、下の方に飾ってある、
あのゴタゴタとした所帯道具も、いいではありませんか。タンス、鏡台、長持
ちから牛車、駕籠(かご)までそろえているのもあります。新婚さんの望まし
い嫁入り道具一式で、昔の女の子が描く幸せな青写真を、雛壇で表しているよ
うな気がして、ほほえましくなります。
                   
★★男雛と女雛、右ですか、左ですか?★★   
女の子がいない家庭では見られませんが、デパートに行くと、豪勢なものが飾
ってありますから見てほしいのです。地方によって、男雛と女雛の位置が違い
ます。東京など関東地方では、男雛が右側(向かって左)に、女雛は左(向か
って右側)に飾りますが、京都や奈良の関西地方では、男雛が左で女雛は右と、
逆に飾ってあります。
関東方式は、昔中国では、「右がすぐれている」という考えがあったからです。
右には「貴い」、「尊敬すべき」、「大切な」など、左には「卑しい」、
「低い」、「正しくない」などの意味があり、「右腕」や「右に出る」、
「左遷」や「左前」は今でも使っています。ところが、唐の時代に左右が逆転
し、左上位になったのです。
 
日本の文化は唐の影響を受け、平安時代に確立した日本の制度は左優先となっ
た。左大臣は右大臣より上席であり、左近衛大将は右近衛大将より上級である。
(中略)左上位は唐から宋へ受け継がれたが、元の時代に逆転し、明清の時代
に再々逆転し、左上位の順位が引き継がれている。
(年中行事を「科学」する  日本経済新聞社 刊 P75)
 
もっとわかりやすいものがあります、結婚式の披露宴を思い出してください。
新郎は向かって左側に、新婦は向かって右側に座っていますが、これにも確か
な意味があります。日本の結婚式は、昔から男子が家を守っていく、男子優先
で行われてきたからです。関西方式は、天皇家と関係があります。
 
 天皇は、『天子南面』という言葉が示すように、紫宸殿の玉座に北を背にし、
常に南の方をむいて座られた。すると、天皇の左手が東、右手が西にあたる。
昔は日の出る東が月の沈む西より上と考えられていたから、内裏様を左に飾っ
た。したがって、大臣も左大臣が上席となっている。
(日本の年中行事百科 2 春 民具で見る日本人の暮らしQ/A P25
     監修 石井 宏實 河出書房新社 刊)
(注 内裏様は男女一対の人形のことですから、文中の「内裏様を左に飾った」
は間違いで、正確には男雛です)
 
面白い話があります。太平洋戦争終了後、日本を占領した国際連合軍の中で、
いちばん偉かったダグラス・マッカーサー元帥が、「男雛は向かって右、女雛
は向かって左にしなさい!」と命令したそうです。アメリカやヨーロッパでは、
レディー・ファーストの考えがあるからだと思っていたのですが、ことの起こ
りはヨーロッパで、騎士が戦うときには右手に剣を持ち、左手で婦人を抱える
ことから、左優先になったそうです。
 
ところで、今はどうかわかりませんが、歴史の教科書に、昭和天皇がマッカー
サー元帥を訪問したときに撮った写真がありました。その位置ですが、元帥は
向かって左にいて、「わしの方が偉いのだ」という印象を与えています。この
写真を見て、明治生まれの父は、怒りをあらわにしたものですが、昭和15年
生まれの私は、かなわないなと思いました。
日本のことをよく研究していたからで、奈良や京都の日本の誇る文化遺産を、
戦火から守ったのは、マッカーサー元帥の配慮があったそうです。アメリカは
建国して、わずか二百年有余です。元帥自身が認めたように、極東国際軍事裁
判(東京裁判)は、大きな汚点となりましたが、私達は、敵国の武将が高く評
価した日本の文化、脈々と続いてきた日本の歴史を知り、子ども達に誇りをも
って伝えるべきではないでしょうか。「建国記念の日」でも紹介しましたが、
西暦2015年は、皇紀では二千六百七十五年になります。
(次回は「ひな祭りの 2と桃源郷」についてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第4章 二月に読んであげたい本(2)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第15号-
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第4章 二月に読んであげたい本 2
 
今朝(16日)の新聞に、文部科学省は五輪でメダル獲得が有望な競技を支援するマルチサポート事業で、女子のフィギュアスケーをAランクから最低のCランクに下げたとありましたが、去年の今頃、真央ちゃんが素晴らしい演技を見せてくれ盛り上がっていたのですが。うろ覚えで間違っているかもしれませんが、亡くなったお母さんは「フィギュアスケートは、勝った、負けたではないと思うのです。その人の生きざまをどう氷の上で見せるか、それがフィギュアスケートではないですか」とおっしゃっていましたが、まさにその通りの4分間でした。もう二度と見ることはできないのでしょうか。
 
また目玉ですが、これも面白い話です。
 
◆鬼の目玉◆   松谷 みよ子 著
娘が旅の途中で泊めてもらった家には、若者が一人で住んでいました。毎朝、若者は奥の部屋に出かけ、夜になると疲れはてて戻ってきます。若者のお父さんが豪傑で、悪さをする鬼の目玉をくりぬき取り上げたのです。お父さんが亡くなると鬼が目玉を取り返しにきて、毎日、責め立てていたのでした。
ある日、娘は若者の後をつけ、拷問の場面を見たのです。鬼の大将らしき者が、わめく顔を見ると目がありません。娘が酷い仕打ちを受ける理由を聞いても若者は答えず、退屈だろうから、十三ある部屋で遊びなさいという。ただし「最後の部屋へは入ってはいけない」といわれたのでした。  
娘が最初の部屋を開けると、門松や鏡もちが飾ってある正月の部屋で、小人さんたちが、羽根つきやカルタをして遊んでいるのです。娘も中に入ってみると、小人さんと同じように小さくなり一緒に遊べるのでした。次の部屋は梅が咲きうぐいすが鳴き、次の部屋はおひなさまが飾ってあるというように、一月から十二月までの部屋があったのです。楽しかったので、最後の部屋にも入ると、真っ暗な部屋に桶があり、何かが浮かんでいました。
鬼の目玉だとわかった娘は懐に入れ、帰る途中、小川の側で蛇と出会い、びっくりして、1個、落としてしまうのです。残った1個を持って、お仕置き部屋に飛び込むと、大将の片目に、眼が入っているではありませんか。恐る恐る目を差し出すと、「眼がそろったから、褒美として娘に金の鶏をやれ」と、いったかと思うと、鬼も若者も、部屋も家も、あっという間に消えてしまい、娘は、がい骨がゴロゴロと転がっている山の中に、一人残されていたのでした。        
日本むかしばなし 7 
      おにとやまんば 民話の研究会 編 松本 修一 絵  ポプラ社 刊
 
この十三番目というのがすごいと思いませんか。この作者は、十三日の金曜日が、何の日か知らなかったでしょうね。キリストが、十三番目の弟子であったユダに裏切られ、磔の刑を受けたのが金曜日。アダムとイブが楽園から追放されたのも金曜日。ノアが方舟に乗ることになった大洪水も、降りはじめたのが金曜日。絞首刑の階段が十三段ということも……、これも不思議です。
 
次は笑わせられる話です。
 
◆節分の鬼◆   小沢 重雄 著 
変わったじいさまがいて、節分の日に、女房も子どももいないから、鬼が来ても平気だと、「鬼は内! 福は外!」とやってみたのです。すると、豆をぶつけられて往生しているのに、奇特な方がいるものだと、2匹の鬼がやってきたではありませんか。酒の好きなじいさまは、鬼達にもすすめ、宴会が始まります。ご馳走になった鬼達は、礼をしたいといいます。じいさまは、丁半ばくちが大好きなので、さいころに化けてくれと頼みます。さっそく鬼は化けます。それで、ばくちをするのですから、じいさまのいうとおりの目が出て大もうけをしました。再び宴会に、今度は泡銭をたくさん持っていますから、豪勢なものです。これに味をしめたじいさまは、来年も来てくれと約束をします。しかし、次の年も、その次の年も、鬼は現れません。その内、じいさまは、酒を飲みすぎて死んでしまいました。
 ばくち好きでしたから地獄行きです。そこで、あの鬼達と再会します。鬼達は娑婆(しゃば)のお礼にと、いろいろと手抜きをします。釜ゆで地獄のときは、湯かげんに手心を加え、熱かんまでつけるサービスをするのです。怒った閻魔大王が、「じじいを喰っちまえ!」と鬼達に命じますが、これも手抜きをしてもらい、娑婆に舞い戻り、長生きをしたのでした。
  日本むかしばなし 7
       おにとやまんば 民話の研究会 編 松本修一 絵  ポプラ社 刊
 
どうしたら、こういう発想ができるのでしょうか。
この2匹の鬼には人情があって、それだけにおかしいのです。針の山に登るときは鉄の下駄を用意するなど、地獄の責め苦を、鬼が手抜きする場面は、本当に笑わされます。
しかし、鬼に人情って変ですね。「鬼の目にも涙」といいますから、涙腺を緩めるセンサーが付いているのでしょう。鬼の情けで「鬼情」では、何やら不気味な感じがしますね。
 
この話もおかしいのです。今度は鬼が、博打(ばくち)をする話です。
 
      ◆地蔵浄土◆   おざわ としお 再話
 ある日、おじいさんが、食べようとしただんごを落とし、ネズミの穴に入ってしま
いました。おじいさんが、穴に入っていくと、お地蔵さまがいたので尋ねたところ、
「あっちの方に転がって行ったぞ」
というその口元には、黄粉がついています。おかしいなと思いながらも、探しに行こうとすると、お地蔵さまが、大儲けをさせてあげるから、天井裏に隠れなさいというのでした。
鬼達が来てかけ事をするから、その金をいただくのだという。しかし、天井に上るはしごがありません。すると、お地蔵さまは、私の手に乗り、肩に足をかけ、届かなければ、頭にのって天井裏に隠れなさいというのです。罰が当たると尻込みしますが、鬼達が来ると驚かされ、渋々、隠れます。そして、「私が合図をしたら、鶏の鳴声をまねしなさい」といったのです。
 やがて、鬼達が来て、かけ事を始め、お金がたくさん出たところで、お地蔵さまから合図があり、「コケコッコー」と鳴きまねをすると、鬼どもは一番鶏が鳴いたと勘違いして、夜明けが近いぞとあせってばくちをし、2回目には二番鶏が、3回目には、「三番鶏が鳴いた。夜明けじゃ、帰るぞ!」といい、お金を残したまま消えてしまいました。おじいさんは、鬼達が残していったお金をいただいて大金持ちになったのです。    
 それを聞いた隣の欲の深いじいさん、一儲けしようと出かけ、遠慮しないで、お地蔵さまの体に足をかけて天井に上がってしまいます。ところがです。三番鳥まで鳴くようにといわれましたが、何を勘違いしたのか、お地蔵さまの合図に、「コケコッコー」と鳴きまねをせずに、
「はぁ、一番鳥!」
「はぁ、二番鳥!」
と言ってしまうのです。「この間、おれたちをだました奴だな!」という訳で、鬼たちから散々、痛めつけられ、血だらけになって帰っていったのでした。        
  日本の昔話 ②
    したきりすずめ おざわ としお 再話 音羽 末吉 画 講談社 刊 
 
天井裏に上がるときの、お地蔵さまと正直なじいさまとのやり取りが、おかしいのです。欲深じいさんが、天井に上がるときも、仏さまを仏さまと思わないふてぶてしさが、これまた愉快で、日本人の信仰心をあからさまにしているような気さえします。
お地蔵さまは、本当はお釈迦さまがいなくなった後、弥勒仏が出現するまでの間をつなぐ役をする偉い菩薩さまですが、いつも庶民の身近にいる仏さまです。粋なのです、このお地蔵さまは。
こういう話を作った人って、尊敬できますね。生きることを楽しんでいるではありませんか。お地蔵さままで、舞台に上げるのですから大胆なものです。しかもです、お地蔵さまに、うそをつかせるのですから、傑作ではありませんか。まねをした欲の深いじいさんが、こらしめられるのも、むかし話の定石です。
 
最後は鬼をたぶらかす話で、恐かった鬼ですから勇気がいります。
                                          
◆じいさまとおに◆   水谷 章三 著
 ある秋のことです。
 おじいさんのところへ鬼が来て、畑にできているものを半分よこせという。そこでおじいさんは、「畑の上のものだけもらうから、鬼さんには土の中のものをあげましょう」といって、麦畑の麦を全部、刈り取って株だけ残します。計られたと知った鬼は、次の年の秋には「土の上にできているものを、わしがもらうぞ」というので、おじいさんは「下の半分で結構です」と承知し、鬼が葉っぱを刈り取った後で、大根や芋をごっそりと掘り出したという話です。        
 五月のはなし
  ももたろう 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修 日本民話の会 編 国土社 刊 
 
大らかな話ではありませんか、鬼を手玉に取り、恐い鬼も形なしです。鬼は悪魔と考えられ、病気や災いを起こす疫病神のような存在でしたから、人々の「恨み、つらみ」は相当なものであったと思われます。おじいさんの気持ちが、手に取るようにわかります。           
 
鬼が主人公の話ではありませんが、芥川龍之介の「杜子春」に出てくる地獄の話も忘れられません。仙人になる修行中に、口をきいてはならぬと約束した杜子春が、閻魔大王の前でも話さないものですから、怒った大王は杜子春の両親を連れ出し、鬼どもに散々、むちで打たせるのですが、口をきこうとしません。畜生道に落ちて馬になっているお母さんが、あえぎながらも、「心配をおしでないよ。私たちはどうなっても、お前さえ幸せになれるなら、それより結構なことはないのだからね。大王が、何といってもいいたくないことは黙っておいで」、こう言うのでした。この場面にくると、決まったように涙が出たことを覚えています。子を思うお母さんは、こんなにもやさしいものなのだなと……。
              
幼い子をいじめたり、折かんをしたり、果ては殺してしまう親のいる時代です。地獄に落ちて、同じ責め苦を受けなければ、殺された子は浮かばれません。子どもに罪はないのですから。子どもを育てる心構えは、自分自身でするもので、その人の人生観ではありませんか。わが子のあどけない寝顔を、かわいいと思ったことはないのでしょうか。何ら疑うことなく、安心して眠っている子を手にかけるのは、人として許されない大罪です。
「子は、かすがい」ということわざ、死んでいます。もっとも「鎹(かすがい)」も意味不明の言葉となっているでしょうね。鎹は、二つの材木をつなぎ止めるために打ち込む「コの字型のくぎ」で、そこから「子は夫婦のあいだをつなぎ止める働きをする」という意味です。「豆腐にかすがい」(まったく効果のない、手ごたえのなきことのたとえ)とならないように、親子の絆は、しっかりと結びたいものです。   
 
ここでは取り上げませんでしたが、鬼を人間らしく扱った浜田廣介の「泣いた赤鬼」は、童話とはいえ日本以外に、こういった作品はあるのでしょか。最後の青鬼くんの置手紙には、不覚にも涙がこぼれてきます。お子さんはどのような反応を示すでしょうか。
 
  赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、僕が、この
まま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、
ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事
にしてください。僕はどこまでも君の友だちです。
(「泣いた赤鬼」浜田康介 著 小学館文庫 小学館 刊)
 
百田尚樹氏の「影法師」を読んだ後、頭に浮かんだのは「泣いた赤鬼」の青鬼くんでした。
自己中が多い現代気質では、友達のために自分を犠牲にする気持ちは古臭いと、馬鹿にされるかもしれませんが、読むたびに、わかっていても目頭が熱くなる童話の一つです。
この他に、「ある島のきつね」「よぶこどり」「むくどりの夢」「りゅうの目の涙」などは、学生時代に出会った童話ですが、年を取って読み返しても新鮮な刺激を与えてくれることに驚かされます。こういう時ですね、活字中毒に育ててくれた親父やおふくろを思い出すのは。(感謝)
 
ところで、百田氏の短編集「幸福な生活」は、めくった最後の1ページのわずか1行で、全てがわかるしゃれた構成で楽しませてくれましたが、一つだけ、コロッと騙される作品があり、まるで書評を担当した評論家のごとく、丁寧に読み返し、やっとわかりました(笑)。
また、私も熱狂的なファンであったファイティング原田を主人公にした「『黄金のバンタム』を破った男」、月並みの表現で情けないのですが、またしても感激! 世界最強のバンタム級チャンピオンであったエデル・ジョフレ(ブラジル)の戦績は、78戦、KO勝ち50で、負けたのは2回だけ。この2敗の対戦相手は、いずれもファイティング原田。1960年代の話ですが、今であれば国民栄誉賞でしょう。世界バンタム級チャンピオン、ファイティング原田は、日本人の誇りでした。リングネーム「ファイティング」は、野球の背番号の欠番と同じ欠名扱いで、現役選手が名乗ることはできません。その他に、身長以外は何でも整形できる世界を描いた「モンスター」(仰天!)、この作品と対になっている多重人格者を扱った「プリズム」、悪名高いオオスズメバチの生態を描いた「あらしの中のマリア」、映画化されテレビでも放映されましたからご覧になった方もいらっしゃると思いますが「永遠のゼロ」、出光興産の創業者をモデルにした「海賊とよばれた男」は8月にお話しします。百田氏の肩のこらない話の展開は、若い皆さん方にはわからないかと思いますが、私が学生の頃、面白がって読んでいた「宮本武蔵」や「忠臣蔵」などの講談本と同じで、まっすぐ一本道で気軽に読み切れ、理屈っぽくないのが有難いですね。
 
最後に「春一番」は立春後に初めて吹く南風のことですが、待ち遠しいですね。
 
1959年に民俗学者の宮本常一が「春一番」という言葉で、気象現象を解説したことから、新聞などで使われるようになったそうです。その後、広く一般でも使用されるようになり、今では気象用語になりました。
         (「昭和のこころ」日本の年中行事 So-net ブログより)
 
昨年は3月14日、一昨年は3月1日でしたが、今年はどうでしょうか。
 
  (次回は、「第五章 ひな祭りでしょう 弥生」についてお話しましょう)                                    
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第4章 建国記念日と二月に読んであげたい本(1)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第14号-
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第4章 建国記念日と二月に読んであげたい本(1)
 
★★建国記念の日★★
2月11日は、建国記念の日です。昭和24年(1967)2月11日から、
「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として祝日に定められたものです。
しかし、建国記念日は昭和生まれではなく、明治6年に紀元節として誕生しま
した。紀元節は、日本書紀に記されている、神武天皇が即位され、日本の国が
始まった日と定めた祝日でした。その根拠は、日本書紀第三巻・神武天皇の項
に、以下のようにあります。
 
「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮、是歳為天皇元年」
辛酉(かのとり)の年の庚辰(かのえたつ)朔(ついたち)、一月一日、天皇
は橿原宮にご即位になった。この日を天皇の元年とする。
 
これを根拠として、紀元節は誕生しました。しかし、昭和23年に、紀元節が
戦争の原因になった国家主義や軍国主義を象徴する祝日であったことや、日本
の誕生した日はいつであるか、歴史的な根拠が明白でないことなどから廃止さ
れ、その後、様々な論争が続き,紆余曲折を経て、やっと「の」の一字を入れ
ることで」建国記念の日」ができたわけです。
 
紀元節の根拠は日本書紀にあるとお話ししましたが、果たして正しいのでしょ
うか。暦のことなど研究したことのない私でも、秘密を解くポイントは、「辛
酉(年春正月)・庚辰・朔」にあるのではと推察しますが、暦学的に検証する
と、その根拠は立証されているのですから驚きです。「年中行事を科学する」
(永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P54~65)には、「辛酉・庚辰・
朔」について、西暦紀元前660年は辛酉年、2月11日の干支は庚辰、月齢
はゼロであり、現在、建国記念の日となっている2月11日は、「日本国は神
武天皇の即位をもって建国とする」との日本書紀の記述と一致することが証明
されています。西暦紀元前660年といってもピンと来ないかもしれませんが、
縄文時代です。この歳時記は、筆者の不見識から驚くことばかり出てきますが、
これもまさしく驚きです。計算の方法は難しくて私の手には負えませんが、興
味のある方は、ぜひお読みになって下さい。
 
西暦は、キリスト誕生の年(実は生後4年目)を元年として数える年代ですが、
日本には、先に実証されたと紹介しました日本の紀元を、神武天皇即位の年を
元年とした皇紀があり、平成27年は皇紀、紀元2675年になります。私は
紀元2600年、西暦1940年、昭和15年2月11日生まれですから、自
分の年齢75を下二桁に入れると、今年は紀元2675年であり、西暦では下
二桁に75を足すと、2015年とわかるという便利な年回りになっています。
 
ところで、ご存知のように、日本に残る最古の書物は「古事記」で、第40代、
天武天皇が、わが国に言い伝えられてきた事柄を整理し、語部(かたりべ)で
ある稗田阿礼(ひえだのあれ)に覚えさせ、第43代、元明天皇が太安万侶
(おおのやすまろ)に文字に書かせ、西暦712年に完成したものです。その
8年後の720年に、第44代、元正天皇が年代も入れ詳しく編集したものを
残そうと、舎人(とねり)親王に書かせたのが日本書紀です。ですから、記紀
に書かれている話は、古代の人々が語り伝えてきた話を文字に書き留めた神話
(天地の創造を擬人的に説明し、森羅万象に宿る霊の存在や、民族の祖先の活
動を述べる物語 新明解国語辞典 三省堂)で、一人の人が作った話ではあり
ません。本当かなと思う話もありますが、宇宙の始まりはどうだったか、国は
どのようにして作られたか、人間はどのように生まれたか、そして生きてきた
かを物語るものです。地球という星が、陸と空に分かれて出来ていく様子を描
いた、巻一の「天地開闢(かいびゃく)と神々」は、どうしてこういったこと
がわかっていたのか、不思議に思えるほど科学的で、またしても驚かざるを得
ません。
 
世界の文明が発祥した各地にも、ギリシャ神話、ユダヤ神話、インド神話や数
々の民話などが残されており、民族やその地域の特徴が伝えられていますが、
共通する話の展開に、思わず膝を叩き、考えていることは同じなのだと思うと、
年甲斐もない話でなんですが嬉しくなります。そこに住んでいる人々が作った
神話であるからこそ、価値があるのではないでしょうか。それが民族の持つ固
有の歴史であり文化だと思います。私が心酔してやまない哲学者、梅原猛氏の
「神々の流竄(るざん)」、「葬られた王朝」、「天皇家のふるさと日向へゆ
く」、阿刀田高氏の「古事記を知っていますか」、そして井沢元彦氏の「言霊
(ことだま)・怨霊信仰」「聖徳太子の和の精神」を解説している「逆説の日
本史」など読まなくてはならない本ばかりで、うれしい悲鳴を上げています。
「10月の神無月」で詳しくお話しする予定です、無理かもしれませんが(笑)。
 
今上陛下は、神武天皇から数えると百二十五代目にあたるそうです。先にもお
話ししましたが、今年は皇紀、紀元2675年になります。世界で最も古い歴
史を持つ国であり、古来の文化を単なる歴史の遺産としてではなく、現在まで
生活の中に生かし続けている国はあるのでしょうか。
天照大神を祀る伊勢神宮では、平成25年に20年ごとの式年遷宮が執り行わ
れましたが、持統天皇4年(690)以降、1300年以上、続けられています。
建築方式は弥生建築といわれ、聖徳太子が活躍した飛鳥時代以前のもので、脈
々と受け継がれているのは、「世界広し」といえども日本だけです。
注 式年遷宮 伊勢神宮の内宮と外宮の二つ正宮の正殿などを作り替え神座を
移すこと。
 
日本は、もっとも短く見積もっても二千年ぐらいまで遡ることができます。世
界で二番目に長い国はデンマークで一千数十年、次がイギリスで九百四十年余
り、アメリカ、フランスは二百年そこそこ、中国はたった六十四年。「四千年
の歴史」なんて大嘘ですからね(笑)。
(著者インタビュー 武田恒泰 著 「日本人はいつ日本か好きになったのか」
月刊雑誌 WiLL 12月号(2013年) P144 ワックス出版社 刊)
 
日本人が大切に守ってきた様々な文化を、親が子ども達にきちんと伝えるべき
だと思います。国旗を掲揚し、国家を歌うのも、法律で決められたからではな
く、親が子ども達に、「なぜ、国旗があり、国歌を歌うのか」、きちんと答え
を出してあげたいものです。国のために家庭があるわけではなく、家庭がある
からこそ国が成り立つのではないでしょうか。「個々のアイデンティティは、
家庭で育てるもの」などと何も意気がることではありませんが、幼児期の教育
の原点は、家庭にあるからです。家庭教育の低下を防ぐのは、私たち親、保護
者であることを肝に銘じておきたいものです。世界的な不況や政治の混迷、東
日本大震災や原発問題など、ここ数年元気がありませんでしたが、やっと立ち
上がる兆しが見えてきた今だからこそ、日本に生まれた幸せを、もっともっと
噛みしめ、感謝しなければいけないのではないでしょうか。
 
★★2月に読んであげたい本1 ★★
鬼に関する話はたくさんあります。代表作は「桃太郎」「こぶとり爺さん」で
すが、これはお染みの話ですから紹介するのは遠慮しておきましょう。子ども
に聞かせる話ですから、恐怖感をあおるようなものはあまりありません。節分
ですから、やはり豆まきの話からにしましょう。
 
◆豆をいるわけ◆   谷 真介 著
むかし、まだ鬼があちこちの山奥に住んでいた頃の話です。その年は、春から
日照り続きで、稲は枯れだしました。心配した庄屋さんが、「雨を降らしてく
れたら、一人娘のお福を嫁にやってもよい」と言ったその声を山奥の鬼が聞き、
大雨を降らせたのです。約束を迫られ嫁がせますが、その時、お母さんが知恵
を働かせます。「道に落としながら行きなさい」
と菜の花の種を渡しました。それを足元に落としながら、鬼に連れられて行く
のでした。
翌年の春、菜の花は咲き、それを道しるべに娘は家に帰れたのです。取り返し
にきた鬼にお母さんは、「酒ばかり飲んでいる者にお福はやれぬ!」と迫り、
「もう、飲まん!」と約束をした鬼に、戸のすき間からいった豆を投げ、「そ
の豆を植えて花を咲かせてみろ。その花を持ってきたら、お福をやる!」と言
ったのです。何年も続けましたが、咲くわけがありません。鬼も次第に豆を見
るのが嫌になり、お福の家にも来なくなりました。この話を聞いた村の人達は
鬼が来ないように、いった豆を家の周りにまくようになったのです。
これが二月三日、節分の豆まきの始まりだそうです。
 日づけのあるお話 365日
    二月のむかし話 谷 真介 編著 金の星 刊
 
節分の豆まきは、「いった豆」がキーワードのようです。童話の名作「ヘンゼ
ルとグレーテル」の著者はグリム兄弟ですが、ドイツ人です。菜の花の種をま
く作戦と小石とパンのかけらを目印にした共通の作戦は、面白いではありませ
んか。世界中の童話や昔話を読んでいて、話の筋や仕掛け、舞台装置が、そっ
くりなものに出会うとうれしくなります。その話がほほ笑ましいとなおさらで
す。
 
イギリスの民話にも日本の昔話とそっくりなものがあります。「トム・テイッ
ト・トット」の翻訳ともいわれているそうです。日本の題名は「鬼六」といい
ますが、文句なく面白い話です。
 
◆鬼 六◆
むかし、ある所に、大きくて流れの速い河がありました。その河へ橋を架けて
ほしいと頼まれ、やってきた名人は、一目で難しい仕事とわかり頭を抱えます。
すると、河の中から大きな鬼の首だけが現われ、「橋を架けてあげるから、お
礼にあなたの目玉をくれないか!」
と言ったのです。困りはてていた大工さんは、約束をします。橋は出来てほし
いが、出来れば目玉をあげなくてはと、大工さんは一晩中、眠れません。    
翌朝、行ってみると、何と立派な橋が架かっているではありませんか。喜んだ
大工さんですが、鬼との約束を思い出し、肩を落とします。そこへ鬼が顔を出
し「目玉をよこせ」と言う。どうしたものかと考えていると、「明日の朝まで
に私の名前を当てたら、目玉はい
らないよ!」と言って、また沈んでしまったのでした。大工さんに鬼の名前が
わかるはずもありません。途方に暮れて歩いていると、山奥に入いりこんでし
まい、引き返そうとしたその時に歌が聞こえてきたのです。木陰からのぞくと、
鬼の子ども達が歌っていました。
♪オニロク オニロク オニロクさん
 早く目玉をもってこい
 大工の目玉をもってこい
 橋のお礼をもってこい
 オニロク オニロク オニロクさん♪
大工さんは、それを聞いてほっとし、笑みを浮かべるのでした。   
翌朝、大工さんが河に行くと、顔を出した鬼は、名前のわかるはずがないと自
信満々です。
そこで大工さんは自信なさそうに、「河鬼!」、「橋鬼!」などといって、鬼
を得意にさせておき、最後に大声で、「オニロクー!」と叫ぶと、鬼はブクブ
クと泡だけ残して消えてしまい、二度と姿を現しませんでした。
  子どものための世界のお話
 福光 えみ子 福知 トシ 福井 研介 大江 多慈子 編 新福音社 刊     
 
この話を研究されて、一冊の本にまとめた方がいるほど知られているそうです。
幼児教室でこの話をしたところ、「ドイツで聞いたことがある!」とお父さん
の仕事でドイツに住んでいた子が言ったので、調べてみると本当の話でした。
鬼といえば、てっきり東洋生まれだと思っていましたから驚きました。
 
世界中の民話や童話、昔話を読んでいると同じような話がたくさんあります。
ドイツには、この他に「こぶとりじいさん」とそっくりな話もあります。ノッ
クグラフトンの伝説「こぶとり」です。背中にこぶのあるラズモアという帽子
屋さんが、歌と踊りがたいへん上手だったので、また一緒に遊ぼうと、約束の
証拠に背中のこぶを預かるといって取られてしまいます。 日本では相手は鬼
でしたが、ドイツでは小人さんです。この話を聞いた歌も踊りも下手な、こぶ
のある青年が行くと、あまりにも下手なので、預かっていたこぶをもらってし
まうというところもそっくりです。グリムの作品にも「小人の贈り物」と題し
た同じ話があります。肌の色が、言葉が、生活習慣が、宗教が違っても、人間、
 
考えることは皆、同じなのだと思うとうれしくなりますね。
 
ある年のことですが、教室の人気者であった物知り博士のケンちゃんが、「ど
うして、鬼が人間の目玉を欲しがるのですか」と質問をしたものです。素朴な
疑問ですが鋭い質問です。眼は音読みだと「ガン」です。「鬼六サンのお身内
か友達に、ガンにかかった人がいてね。目のお医者さんを眼科のお医者さんと
いうでしょう。そのガンによく効く薬は人間の眼、つまりガンだから欲しかっ
たのでしょうね」とだじゃれのように説明しましたが、ケンちゃんは「信じら
れない!」といった顔をし、子ども達にも、全然、受けませんでした。子ども
は、こういった疑問には納得しないと絶対に妥協しません。ですから子どもの
前で、いい加減なことを言うと信用をなくします。子どもの疑問にあいまいな
答えは通じません。それだけ純真なのです。純真ということは、探求心が旺盛
ですから遠慮がなく、追求の手をゆるめません。それだけ残酷でもあるのです。
お母さん方が「カッ!」となるのも、こんな時ではないでしょうか。悪気はな
いのです。率直なだけなのです。もっと言えば、その言葉で相手がどう思うか
など考えていないからです。まだそんな時期なのです。大らかに応対してあげ
ましょう。でも、こういった大人が増えていますね。いわゆる「自己中心・ジ
コチュウ」で、相手を思いやる気持ちは爪の垢(あか)程もありません。これ
は率直ではなく、精神年齢は子ども以下ということです。相手を思いやる気持
ちを育むのは、ご両親の育児の姿勢にあるのも間違いありません。子は間違い
なく親の背を見て育つのですから,しっかりと観察されていることを肝に銘じ
ておきましょう。
 
で、結末はどうなったか。「本当は、先生もわからないのよ!」と言ったとこ
ろ、「先生でもわからないことがあるの?」と不満そうでしたが、ケンちゃん
は矛を収めてくれました。(猛省)
 
 (次回は、「第三章 2月に読んであげたい本2」についてお話しましょう)
 

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