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めぇでるコラム : 2016保護者: 2015年7月

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第10章 終戦記念日、このことです 葉月(2)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第37号-
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第10章  終戦記念日、このことです   葉 月(2)
 
★★なぜ、鳩は平和のシンボルなのでしょうか★★
神社、仏閣、さらに大きな公園には、なぜか鳩がいます。
いないと何か物足りない気がする不思議な存在でしたが、最近では、糞害など
で問題になり、駅などでは「餌を与えないで!」といった看板が目立ちます。
しかし、オリーブの枝をくわえた鳩は、依然として、平和のシンボルとなって
います。なぜ、鳩なのでしょうか。事の起こりは、聖書物語でおなじみの「ノ
アの方舟」なのですから驚きです。
 
「人間の邪悪さにあきれた神エホバは、大洪水を起こしてすべてを一掃しよう
と考えました。しかし、正しい人「ノア」だけは救おうと、神は彼に方舟をつ
くるように命じました。
ノアは人々に馬鹿にされながら巨大な方舟を作り、そこに家族と動物のつがい
を乗せました。やがて神が予告したとおり大雨が降りはじめ、陸地はすべて海
に沈みました。
数日後、水が引いたことを確かめるため、ノアはまずカラスを放ちました。し
かし、カラスはどこにも羽を休める場所を見つけることができないまま戻って
きました。
それから一週間後、ノアは鳩を放ちました。やがて鳩はオリーブの小枝をくわ
えて戻ってきました。そこでノアは洪水が引いたことを知りました」
 
この物語から、「鳩+オリーブの小枝=平和」という図式ができあがったので
ある。そして、「オリーブの小枝をくわえた鳩」が平和の象徴として世界中に
広まったきっかけは、1949年にパリで開催された「国際平和擁護会議」に、
パブロ・ピカソが鳩のポスターを描いたからだといわれている。
(「今さら誰にも聞けない555の疑問」
 平川 陽一 編 株式会社 廣済堂出版 刊 P348)
 
映画「天地創造」を思い出します。
歴史に「イフ」はありませんが、しかし、あえて「もしも」です、最初に栄誉
ある偵察の任務を与えられたカラスが、オリーブの小枝をくわえて帰還してい
れば、カラスが平和の使者として、君臨していたことになります。
でも、悪食のカラスには、オリーブの小枝は似合いませんし、イベントなどで
鳩のかわりに真っ黒なカラスが一斉に飛び立つのでは、黒い稲妻のようで、何
やら不吉なムードに包まれそうです。
煙草のピースのデザインも変わっていたでしょうし、イトーヨーカ堂のロゴマ
ークにもなれなかったに違いありません。
煙草のピースですが、ヘビースモーカーであった私は、両切りにフィルターの
付いていないピースの愛好家の一人で、今でもそばでピースを吸われると、あ
の何とも言えない上品な香りに、クラクラとします。他の煙草の煙は単なる嫌
な煙で、吸わない人には限りなく迷惑な煙害であることを、愛煙者は十分に承
知して吸ってほしいですね。禁煙してわかったのですが(笑)。
 
しかし、鳩は、一時、情報を伝える貴重な鳥として、脚光を浴びた時代があり
ました。伝書鳩です。
足に情報を括り、さっそうと目的地へ向かった、貴重な鳥でもあったのですが、
電信技術の進歩にはかなわず、いまでは引退し、伝書鳩レースとして、昔の面
影を残すだけになりました。帰巣本能を利用したものといわれていますが、そ
のメカニズムは、解明されていないそうです。 
でも、まだ、主役として活躍している鳩もいます。手品で使われている、あの
鳩です。マジシャンの使う白い小型の鳩は銀鳩と呼ばれ、観賞用としても人気
があるそうです。しかし、都会では、鳩とカラスが厄介者になりつつあるのも、
不思議な縁ですね。
 
ところで、最近、知ったことですが、五輪憲章にある開会式の項で「聖火への
点火に続いて、平和を象徴する鳩が解き放たれる」と明記されていた文言も消
えてしまったそうです。ロンドン・オリンピックで確かめたかったのですが、
すっかり忘れてしまい、リオデジャネイロまで待つことになりました(笑)。
 
★なぜ、海の水は塩辛いのでしょう★★
平和のシンボルの話から一転して、自然の摂理についてお話しましょう、など
と気取ることはないのですが。
夏といえば、海水浴。海水パンツではなく、赤い褌(ふんどし)をしめて泳い
でいました。初めて海で泳いだとき、不覚にも海水を飲んでしまい、その辛い
こと、喉をゼイゼイならしながら鼻水を出した顔はゆがみ、こりているはずな
のに、またしても海水を目に入れたときの、あの痛さに泣いた記憶があります。
当然です。海水約4リットルには、およそ100グラムの塩が含まれています
から、塩辛いわけですし、目に入れば痛いわけです。
 
では、なぜ、塩辛くなるのでしょうか。
有史以前の地球は、火山が爆発し続ける、灼熱地獄でした。やがて火山活動も
沈静化し、豊富な水から植物が生え、動物が生息し、人間も地球の住民として
存在するようになったのです。火山活動により、いろいろな物質や鉱物が、地
上にばらまかれましたが、塩分もその一つで、地表からしみ込んだ塩分や岩石
に含まれている塩分が、雨に流され、河川の水に溶け込み、海に流れ着いたた
めに塩辛くなったのです。
     
海水ができたのは、今から38億年前、地球上に生物(バクテリア)が生まれ
たころで、地球誕生から約7億年たっていました。
当時の海水は、塩酸を含む酸性で、岩石に含まれるカルシウムやナトリウムを
溶かし、ナトリウムは海水中の塩素と一緒になって食塩になりました。
海水の成分はその頃から現在までほとんど変わっていません。
(「雑学特ダネ新聞 読売新聞大阪編集局 著
 PHP研究所 刊 P283)
 
この海水ですが、どこから出てきたのでしょうか。
最近の説では、溶岩は地球の内部にあるマグマがかたまったもので、その内部
には10%ほどの水が含まれており、それが火山活動の時に地表や海に吹き出
し、38億年かけてしみ出した結果、今の海になったそうです。
 
そして、当時から成分は変わらないそうですから、驚かされますね。
人間は、生物の生態系や地形などを、地球に相談することなしに変えています
が、しっぺ返しを食うことはないでしょうか。
 
ところで、海水が太陽に温められ、蒸発して雲となり、それが雨となって地上
に戻ってくる原理を知ったとき、
「なぜ、雨は塩辛くないのかなぁ?」
と母に尋ねたところ、塩水を入れた鍋を七輪(土製のこんろ)に乗せて沸騰さ
せ、その蒸気を割り箸にあて、ついた水滴をなめさせてもらったことを覚えて
います。まったく辛くはないのですが、その割り箸で鍋の中の湯につけて口へ
運ぶと辛いのです。塩分は海に残り、水だけが蒸発することがわかりました。
でも、酸性雨は別物で、これは恐ろしい。もっと「地球にやさしい暮らしをし
てほしい」と、地球自身が警告を発している気がしてなりません。
 
また、初めて地球儀を見たとき、余りにも海が広いことにびっくりし、真水の
ある河や湖が、こんなに少なくて、水不足にならないものかと、恐怖さえ感じ
ましたが、
「海が広いから、蒸発する水分も多くなるわけだ」
と何だか訳のわからない納得の仕方をして済ませていました。
 
★★海水浴は治療の一種だった!★★
昔から、夏になれば、川や海で泳ぐものだと思っていましたら、これは、とん
でもない間違いだそうです、ご存知でしたか。そういわれてみれば、時代劇で、
子どもたちが泳ぐ姿を見たことがありません。「水練」といって武芸の一つでし
た。こういうことだそうです。
 
海水浴は、病気を治す方法の一つとして始まりました。はじめは海に入っても
泳がずに、波打ちぎわで遊ぶだけでした。海水の塩分が体を刺激し、食欲が出
て体重が増えるので、健康にいいといわれていたのです。1885年に神奈川
県の大磯に、日本で最初の海水浴場が作られて、次第に泳いで遊ぶ海水浴とな
りました。
(心をそだてる 子ども歳時記12か月 監修 橋本 裕之
 講談社 刊 P64)
 
小学生の頃から、川や海で泳いでいましたから、夏になれば真っ黒に日焼けし
たものです。瀬戸内海の底まで澄んで見えるきれいな海に育った私は、東京に
出てきて、波がドーンと砕ける江ノ島の海岸に立ったとき、これが海かと信じら
れないほど汚く見えました。当時 (昭和25年頃)は、打ち寄せる波が砂を掘
り返すので汚れていたように見えたのですが、そこで大勢の人が泳いでいるの
ですから、びっくりしたものです。
 
高度成長時代に入り、河川や海洋汚染がすすみ、公害をもたらし、日本の至る
所で自然は壊され、無残な姿をさらけだしていました。自然と無邪気に遊べる
のは、子ども時代だけです。川や海で泳げないなど、私には想像できないこと
でした。10数年前になりますが、日本はおろか世界中の川や湖沼をカヌーで
旅をするリバー・ツーリングのスペシャリスト、野田知佑氏の本を読むたびに
憤慨していたものですが、憤慨しても何も始まらないだけに、虚しくなるだけ
でした。
 
ところが、最近、多摩川は地域の人々などの努力により、鮎が遡上するほど清
流が戻り、「江戸前の鮎」を食べられるようになりましたが、少し気になるこ
とがあります。平成24年は1194万尾、25年は645万尾、26年は
541万尾、そして今年は435万尾とその数が減少していることで、何が原
因なのでしょうか。「乱獲」というほど鮎にはお目にかかりませんが。自然を
壊すのは簡単ですが、もとに戻すには、大変な資金と労力と時間がかかります。
地道な努力を続けることで、日本の自然は息を吹き返し、子ども達に自然を返
してあげることができるのではと大いに期待をしていますが、何とか原因を究
明し頑張ってもらいたいものです。
 
今、心配なのは、福島原発事故による土壌や海水汚染ではないでしょうか。海
水注入を続け、被害の拡大を防いだ吉田昌郎、元東電原発所長は、25年7月
9日に亡くなりました。現場で陣頭指揮を執った貴重な経験を、十分に生かせ
なかったことは、痛恨の極みであり、吉田氏自身も悔しかったに違いありませ
ん。
ノンフィクション物語、「死の淵を見た男」を書いた門田隆将氏は、「もし、
海水の注入が遅れていれば、日本は北海道、人の住めない東北、関東、そして
西日本と3分割されたかもしれなかったといった話を、当時の原子力安全委員
会の斑目(まだらめ)委員長から聞いたことがある」と言っていましたが、東
京に住めない事態になる可能性もあったのです。
それにしても、すでに4年4ヶ月も経っているにもかかわらず、こうも事後対
策が後手に回るのは、どういうことなのでしょうか。何とかならないのかと、
腹立たしい限りです。東電は汚染された水が湾に流れ出たことを認めましたが、
これは誰もが懸念していたことではないでしょうか。
鯨、イルカに続き、シー・シェパードが「海水汚染」をターゲットに抗議する
のではとの憶測が流れていますが、世界中の注目度は、イルカどころではない
でしょう。
 
閑話休題。
暗い話しはそこまでにして、野田知佑氏のエッセーは、どれを読んでもわくわ
くさせられます。
特に、カヌー犬、ガクとの生活は、痛快そのものです。ガクの親は、野田知佑
氏と椎名誠氏ですが、ガクは、人間だと思い込んでいるところがおもしろいの
です。
ちなみに、「岳物語」の主人公は、椎名誠氏の長男で、岳とガクが親友(?)
であるところが、また、おかしい。「岳物語」は、私にとっては、父親とは何
であるかを考えさせられた本でした。
また、母親である渡辺一枝さんのエッセー「時計のない保育園」も、育児の心
構えを教えてくれた本でした。目下、孫たちとの楽しい奮戦記が、笑わせてく
れます。
 
ところで、「海水が、どうして辛いのか」と、その経緯を語るおもしろい民話
が残されています。図書館の紙芝居で見たのですが、廃館されてしまい、著者
と出版社がわかりません。確か、青森から沖縄まで、広い範囲で残っている民
話ではなかったかと思います。四国の場合は、阿波の鳴門となって、今も回り
続けているとなっていたような記憶があるからです。
 
◆塩ひき臼◆
金持ちで欲張りの兄と、貧乏で正直な弟がいました。
ある年越しの晩、弟が兄のところへ米を借りにきますが、断られます。
家に帰ろうと山道を歩いていると、白いひげを生やしたじいさんに会
い、尋ねられます。
「この夜ふけに何をしているのだ」
「年神様に備える米がない」
といったところ、小さなきび饅頭をくれ、こういったのです。
「そこの森の神様のお堂の裏にいくがよい。そこに穴があり、住んでい
る小人が饅頭を欲しがるから、石の引き臼となら交換してもよいといい
なさい。必ず、欲しがるから」
そこで、弟は出かけていくと、小人はしきりに饅頭を欲しがり、二つとな
い宝物だが仕方がないといって、交換したのです。
もと来た道へ引き返してみると、まだ、じいさんはいて、こういったので
す。
「その引き臼を右に回せば欲しいものが限りなく出てきて、左に回すと
止まるものだ」
家に帰って、むしろの上に臼を置き、
「お米よ、出ろ! お米よ、出ろ!」
といいながら右に回すと、米が出てくるではありませんか。
そこで、餅や塩鮭などを出し、よい年越しをしたのです。
翌日には、屋敷や土蔵、お祝いの料理やら酒を出し、親戚や知り合いを
招き、盛大な祝い事をしたのでした。
驚いた兄は、これには何か訳在りと探りを入れ、石臼の秘密を見つけ、
盗み出したのです。
兄は、遠くで長者になろうと船で逃げ出します。
途中で腹が減り、臼と一緒に盗んできた菓子や餅を食べたのですが、
甘いものばかりなので、塩気が欲しくなりました。
そこで、
「塩、出ろ!」
といって臼を右に回すと、塩があふれ出てきました。
これで十分だと思い、止めようとしましたが、その方法がわかりません。
臼は、勝手に回り続け、塩でいっぱいになってしまった船は、兄を乗せ
たまま、海の底へ沈んでいったのでした。
臼は、今も続けて塩を出しているので、海の水は辛いのです。
 
こういった話であったと思います。
金持ちだが欲張りの兄、貧乏だが正直な弟も、むかし話の約束事ですね。
よく似ている話が、グリム作の「うまい粥」です。
塩の代わりに出すものはお粥で、止め方がわからず困り果てて、持ち主に返す
結末が異なっています。
 
ところで、先日、テレビで「花火のできない子どもが増えている」と報じてい
ました。マンションではやる場所がない、近所の公園は花火禁止、花火を楽し
む空間がないということでしたが、夏の夕涼みの楽しみの一つであり、日本の
夏の風物詩でもある花火。手持ち花火は、狭い場所でも、バケツに水をくみ、
その上で楽しんだものですが、皆さんはどうしていますか。
 
今年の芥川賞は「火花」。芥川賞を貰えなかった太宰治は、泉下で、どう思っ
ているでしょうか。線香花火で終わるか、豪快な打ち上げ花火になるか、真価
を問われるのは第2作から。自称、元作家志望の後期高齢者から一言、「頑張
れ!」。とにかく受賞は、大変なことなのですから。(称賛、少し羨望)
(次回は、「日本に富士山はいくつぐらいあるでしょうか」などについてお話
しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第10章 終戦記念日、このことです 葉月(1)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第36号-
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第10章  終戦記念日、このことです   葉 月(1)
 
物の本によれば、葉月のいわれは、季節は秋になり、木の葉が落ちる「葉落月」
の略されたものが親しみやすいですね。この他に、稲穂の「発月」、雁が渡っ
てくるので「初来月(はっきづき)」、南から台風の風が吹きはじめるので
「南風月(はえつき)」などの説があるそうです。
 
★★終戦記念日★★
8月といえば、終戦記念日です。8月15日、忘れてはならない日です。これ
は、季節の行事と違いますから、おかしな話と思うかもしれません。しかし、
私たち日本人は、この日を忘れてはならないのです。とにかく、大勢の人が死
にました。戦場で230万人、原爆、空襲で70万人、およそ300万人の命
が奪われたといわれています。この中には、戦場となったアジアをはじめ他国
の人々は含まれていませんから、犠牲者はさらに増すはずです。この事実だけ
でも、戦争は、絶対に許せません。
 
最近、「なぜ、日本は世界を相手に戦争をしなければならなかったのか」、そ
の真相を明らかにする書物も多く出版され、知らなかった経緯を知る機会も増
えてきました。その最たるものは、「あの戦争は、日本の自衛戦争であった」
といった、日本と戦った連合国最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥の言
葉でしょう。
 
私は、長い間、宣戦布告もせず、真珠湾を奇襲攻撃し、戦争を始めたのは日本
であると思っていました。ところが、上智大学名誉教授である渡部昇一先生の
数々の著書や文芸春秋の名編集長であった堤堯氏の「ある編集者のオデッセイ」、
西尾幹二氏の「日米百年戦争」(徳間書房 刊)、山崎豊子さんの「二つの祖
国」(上下 新潮社 刊)などには、マッカーサー元帥の言葉を裏づける事実
が証明されているではありませんか。さらに、疑問に答えてくれたのは、テレ
ビでも放映された浅田次郎氏の「蒼穹の昴」(4巻 講談社 刊)に書かれて
いた、「欧米人は肌の色の違う人種を決して認めない人種差別」と「宗教の違
い」、そして「石油」が、戦争の大きな原因ではなかったでしょうか。
 
とは言え、戦争は、人間の引き起こす最も愚劣な罪悪です。しかし、戦時中は、
全国民が真剣に戦争をしていたのも事実です。国家権力は絶対で、国民は逆ら
えません。これが恐い。たとえば、赤紙1枚で、たった1つの生命を交換させ
られたのです。その赤紙は、わずか1銭5厘(当時の葉書の値段)、1銭5厘
です……。
※赤紙 兵を集める召集令状のこと、淡赤色の紙を用いたもので、俗に赤紙と
いう。(広辞苑)
 
「戦争反対」の四文字は、禁句の時代でした。叫ぶのも命がけです。非国民と
弾劾されながら、特高(特別高等警察の略。戦前の警察制度で政治思想関係を
担当した課の警察官のこと)の監視を逃れ、どれだけの人が戦えたか。このこ
とです……。その記録さえ、わずかしか残っていないのではないでしょうか。
戦時体制になれば、国を挙げて戦争に協力しなければなりません。しかも、そ
れが正義、正論として、まかり通ります。協力しなければ非国民となり、生活
できなくなるのですから。
 
若いお父さんやお母さん方は、知らないかもしれませんが、日本の軍隊が他国
でやってきたことを、その国の人々は、絶対に忘れません。日本人なら、広島
と長崎を忘れられないのと同じです。
昭和20年8月6日、午前8時15分、B29 爆撃機 エノラ・ゲイ号、原
爆の名前はリトルボーイ、死者約14万人。
同年8月9日、午前11時2分、B29 爆撃機 ボックス・カー号、原爆の
名前はファットマン(太った男)、死者約7万人。リトルボーイとファットマ
ンで死者約21万人、ふざけた名前に腹立たしくなります。いまだに後遺症で
苦しんでいる日本人がいることを、アメリカの人々は、知っているのでしょう
か。
 
いや、同年3月の東京大空襲も同じです。東京だけではありません。長い歴史
と文化遺産のある奈良、京都の一部を除き、多くの都市で大勢の人々が殺され
ました。日本の木造家屋を燃やしやすいように、B29という爆撃機からガソリ
ンをまき、焼夷弾(建造物を焼き払う目的で使う、燃やす薬剤を入れた投下爆
弾や砲弾)を落としていったのです。しかも、命を奪われたほとんどの人が、
武器をもたない非戦闘員、ごく普通の市民です。
 
「永遠の0」でデビューした百田尚樹氏の作品に「海賊とよばれた男」があり
ます。第二次世界大戦から1970年代まで、石油の生産を独占していた7社、
国際石油資本「セブンシスターズ(7人の魔女)」と出光興産の創業者、出光
佐三(いでみつ さぞう)の戦いは、アメリカの戦略で石油を断たれ、南方に
侵出しなければならなかった、戦争を始めなければならなかった恨みを晴らす
かのような凄まじい闘魂には、涙なくして読めませんでしたが、それ以上にシ
ョックを受けたのは、この数字でした。
 
驚くべきデータがある。財団法人「日本殉職船員顕彰会」の調べによれば、大
東亜戦争で失った徴用船は、商船3,575隻、機帆船2,070隻、漁船
1,595隻の計7,240隻。そして戦没した船員、漁民は60,000人
以上に上る。彼らの戦死率は約43パーセントと推察され、これは陸軍軍人の
約20パーセント、海軍軍人の約16パーセントをはるかに上回る数字である。
自ら身を守る手段を持たない船乗りたちは、命懸けで貴重な物資を日本に運び
続けたが、それでも国内の需要を満たすことができず、国民は慢性的な物質不
足に苦しんでいた。
(「海賊とよばれた男」 上巻 P373 講談社 刊) 
 
銃器や魚雷など武器を何も持たない船が、重装備をした軍艦に沈められたのは、
先にもお話しした日本の各都市をじゅうたん爆撃で徹底的に焼き尽くしたのと
同じではないですか。戦争で犠牲になるのは、国の根底を支える名も無き普通
の人々、つまり、私達です。平和ぼけしている日本人は、この事実を忘れかけ
ていないでしょうか。(合掌)
 
ですから、子どもに戦争の悲惨なこと、二度と繰り返してはならないことを、
しっかりと伝えておきたいのです。何とか主義や何とかという思想のもとで、
戦争反対を叫ぶのとは違います。平和運動さえ派閥ができ亀裂が生じます。こ
れも、争いを生むもとですから、用心しなくてはいけません。戦争は、ゲーム
と違います。リセット、やり直しはできません。ゲーム・オーバーで、本当に
「ゲーム・セット」ですから。現代っ子は、いとも簡単に人を殺めます、殺し
ます。人間は、お互いに、労わりあう心がなければ生きていけません。人間と
して、生きとし生ける者の掟、それは「共生」「ともいき」ではないでしょう
か。これを、責任をもって教えるのは、ご両親の大切な仕事です。
 
しつこく繰り返しますが、幼児期に必要なのは、知識を詰め込むのではなく、
情操豊かな子に育つ環境を作ることです。そこから、自分自身で考え、行動す
る力が身につくからです。価値観が多様化し、「何でも在りの人生観」をもつ
のも自由ですが、「共に生きる」意識がぜい弱では、やはり、偏った考えしか
身につきません。などと年がいもなく青いことをほざいていますが、恥をかく
ついでにもう一言、「共生の反対は自己中心、自己中」です。自己中は、恥じ
ることを知らない人のことです。ハードボイルドの作品は、刺激が強すぎてあ
まり読まないのですが、レイモンド・チャンドラーの作品「プレイバック」に
は、「タフでなくては生きていけない。やさしくなければ生きる権利はない」
という忘れられない言葉があります。あまりにも強烈で座右の銘にできません
が、心だけはタフでありたいと念じています。
 
ところで、1982年6月の国連軍縮特別総会で、ケロイドが広がる自身の写
真を振りかざしながら、「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えた日本原水爆被害者
団体協議会の代表委員、山口仙二さんが平成25年昨年7月6日に亡くなりま
した。核兵器の犠牲者の存在を世界に知らしめた、鬼気迫る歴史的な瞬間でし
たが、どれだけの人がその業績をたたえ、冥福を祈ったでしょうか。
戦後、70年を迎え、戦争も原爆も、何やら遠い昔の出来事として、風化され
ているのではないでしょうか。しかし、忘れてはならないことです。事実は事
実として、きちんと語りつがれなければ、戦争のために死んでいった人たちは
浮ばれませんし、申し訳ないではありませんか。これこそ、「現代の民話では
ないだろうか」と、今月に紹介する本の解説者、米屋陽一氏はおっしゃってい
ます。
 
浅はかにも、万物の霊長などと威張っていますが、人間だけではないでしょう
か、殺し合うのは。
それも、憎しみをこめて、徹底的に……。他の動物も同じ仲間同士、争います
が、負けのサインを出すと、攻撃しないものです。満腹のライオンは、しま馬
がそばを通っても襲いません。本当に、人間って、不思議な動物です。極限状
態になると、何をしでかすかわからないのですから。宗教と民族の問題がから
むと、必ず、泥沼に落ち込みます。           
 
ニューヨークにある世界でも有数なブロンクス動物園には、鉄格子をはめ込ん
だ檻、「鏡の間」があり、その前に立つと、人間の上半身が鏡に映り、その鏡
の上には、こう書かれてあるそうです。
THE MOST DANGEROUS ANIMAL IN THE WORLD
(世界で最も危険な動物)
 
さらに、おかしな言葉があります。「終戦記念日」です。これで、親父と大げ
んかになったことがありました。
「敗戦記念日ではないのですか」
「ばか者! わが日本は、神州不滅の国や。日本は敗けん。天皇陛下様におか
れては、人民の犠牲をすくのうするために、戦いをお止めになさったのや!」
アジアの国々を戦火に巻き込んだモンスターの正体を確認しなければ、「戦争
を起こした東洋の鬼畜」と非難だけされ、やがてこの国は、元気のない国に成
り下がってしまうのではないでしょうか。
 
国際化などといわれていますが、自国が起こした戦争だからと、むやみに平身
低頭して謝るだけでは、他国から馬鹿にされるだけです。きちんとした見識を
もっていなければ、国際人として通用しないことを、もっと真剣に考えるべき
ではないでしょうか。特に、これからの日本を背負ってたつ若い人達は、自虐
史観ではなく、自身の歴史観を身につける必要があります。「なぜ、日本は戦
争を起こしたか」、書店をのぞけば情報は山ほどあります。自分自身のためで
す、わが子のためです。お読みになって、自身の考えを持ち、お子さんに伝え
るべきではないでしょうか。「水に流す」は、日本民族独特の解決の仕方で、
外国では絶対に通用しません。
自虐史観 第二次世界大戦後の日本の歴史界において主流であった歴
史観を「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴
史観」であるとの評価を持たせて表現する場合に用いられる呼称。
  (ウィキペディア フリー百科事典より)
 
ところで、童謡に反戦歌があるのをご存知ですか。
「里の秋」です。
 
里の秋
作詞 斉藤 信夫   作曲 海沼 実 
 
一 静かな静かな 里の秋
  お背戸に木の実の落ちる夜は
  ああ、母さんと ただ二人
  栗の実煮てます 囲炉裏端
 
二 明るい明るい 星の空
  鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は
  ああ、父さんの あの笑顔
  栗の実食べては 思い出す
 
三 さよならさよなら 椰子の島
  お船に揺られて 帰られる
  ああ、父さんよ ご無事でと
  今夜も母さんと 祈ります
*お背戸(裏口のこと)
 
終戦の年(1945年 昭和20年)の12月に、NHKの「外地引き上げ同
胞激励の午後」という番組で発表された曲で、兵隊になって戦地に行ったお父
さんが、引き上げ船に乗って帰ってくる、その日を待っている親子の気持ちを
歌ったものです。確か、古賀さと子さんという、可愛い童謡歌手が歌っていた
と記憶しています。しかし、当時は、こういった歌であるとは知りませんでし
た。
 
戦後、外地で苦労された人々の話はたくさん残されていますが、山崎豊子さん
の「不毛地帯」も忘れられない小説の一つです。海上自衛隊の潜水艦と釣り船
が衝突、若き士官を待ち受ける苛烈な日々。その父は昭和16年、真珠湾攻撃
で捕虜となり生き残った特攻隊員、「この日本の海を二度と戦場にしてはなら
ぬ!」、これがキャッチフレーズの「約束の海」、残念ながら山崎さん亡くな
り、未完の大作となってしまいました。残された構想を読むと、最後まで読み
たくなりますね。
森村誠一氏が、故笹沢佐保氏の絶筆となった未完の「海賊船幽霊丸」を完成さ
せた例もあります。百田尚樹氏に完成させてほしいと思っていたのですが、
「純愛」を読み、少し違ったかなと残念に思っています。
(次回は、「なぜ、鳩は平和のシンボルなのでしょうか」などについてお話し
ましょう)
 
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第9章(4)七夕祭りでしょう

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第35号-
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第9章 (4) 七夕祭りでしょう   文 月
 
なでしこジャパン、残念でしたが、あの敢闘精神には脱帽しました。体力の差、
私も経験があります。80歳になったアメリカのトランペット奏者と共演した
ことがありますが、レコードで聴いていた、その通りの音が出て来るので、愕
然としました。80歳ですよ。シカゴのギャングの親分、アル・カポネの経営するバーで演奏していた、もう
歴史上の人物ですが、私の憧れのジャズプレイヤーで、その時録音したテープ
を時々聴いていますが、私の唯一のお宝です(笑)。
 
【七月に読んであげたい本】  
七夕とお盆です。どちらも、その縁起話があるので、紹介しましょう。
 
◆天女のよめさま◆   常光 徹 著
むかし、ある村の若い猟師が、沼のほとりで昼寝から目を覚すと天女が三人、
泳いでいました。若者は、木にかけてあったとび衣(羽衣)を一枚隠したので
す。水浴びが終わると、天女はとび衣を着て、天へ舞い上がって行きましたが、
隠された天女は天上に帰れません。若者は、泣いていても仕方がないと慰め、
家に連れて帰ったのです。
やがて、天女は若者の嫁になり、三人の子どもが生まれました。ある時、上の
子が、むずかる下の子をあやす歌を聞き、その歌詞をヒントにとび衣を見つけ、
子どもを連れて、天上へ帰ったのです。家に帰った若者は、「会いたければ、
一番鶏が鳴く前に、わらじ百足分を肥やしにし、夕顔の種を植えてください」
との置き手紙を読み、わらじを作ったのですが、あと一足で夜が明けたので、
わらじを埋め、夕顔の種を植え、眠ってしまいました。目覚めた若者が見たの
は、空に伸びた、夕顔のつるでした。これで、嫁や子どもに会えると、犬を抱
えて登ったのですが、もう少しの所で、つるは止まっていました。若者は、犬
を天上に放り上げ、しっぽにつかまり、天の庭に跳ね上り、家族と再会できた
のです。
ところが、天上のじいさまは、若者を快く思わず、「四町歩の畑を一日で耕せ!」
などと難癖をつけるのです。その度に、嫁さまの助けで解決しますが、最後は、
うまくいきませんでした。うりの収穫が終わると、じいさまは、縦に切れ(本
当は横に切る)というので切ると、積んであるうりが、音をたてて裂け、水が
あふれ出して大水となり、若者をのみこみ、流れていくのです。嫁さまは、毎
月、七日に会いましょうと呼びましたが、若者は、七月七日と聞いてしまい、
それ以来、年に一度、七月七日に、二人は会うことになったのです。
うりからあふれ出た大水が、夏の夜空に見える天の川になったのでした。 
 
七月のおはなし 「かっぱのおくりもの」 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
日本民話の会・編 国土社 刊
  
鈴木三重吉氏の「星の女」は、確か、舞台はヨーロッパだと記憶していますが、
「羽衣伝説」は、日本の他にもあるものだと感動したものです。何しろ、天女
さんには、三保の松原が、最もお似合いの場所だと信じていましたから。
この話から、「ジャックと豆の木」を思い出しませんか。何回もいいますが、
人間、どこに住んでいても考えることは同じなのです。そう思うと、何やらう
れしくなります。本当は、心のやさしい生きものなのです、人間は。ところで、
「ジャックと豆の木」に出てくるのは「鬼」でしょうか、それとも「大男」で
しょうか。
世界文化遺産に登録された富士山、三保の松原から見た富士の姿は、見た人で
なければわからないのではと心配していましたが、わかっていた方が大勢いら
っしゃったということですね。約7kmに渡る海岸線に、およそ5万4千本の
松が茂る、国指定の名勝、絶景です。
 
◆お盆のはじまり◆
七月十五日は、祖先や亡くなった人たちの霊をなぐさめるお盆の日です。お盆
の縁起を伝える話が残されています。
お釈迦さまに、目蓮上人という神通力にたけたお弟子がいて、修行中に息を引
きとり、あの世へ旅立ちました。死んだお母さんに会いたいと思い、三途の川
を渡り、閻魔大王のいる関所に着き、母に会わせてくれるよう、願い出たので
す。大王は、上人を、湯が煮えたぎる大きな釜の所へ連れていきました。釜の
中では、釜茹の刑を受ける人達がうめき、叫び声を上げていたのです。上人が、
母の名前を呼んでいると、釜の中から一匹のカメがはい上がり、「私がお前の
母だ」というのです。その訳を尋ねると、お前が可愛くて、賢いことを自慢し、
お前さえ長生きすればよいと罪深いことばかり考えていたからだというのです。
上人は、お母さんを助ける方法はないかと尋ねると、毎日、石に一字ずつお経
を書き、それからお経を読んでと言いかけたとき、番人の鬼がきて、カメを湯
の中へ投げ込んでしまい、二度と姿を見せません。そこで上人は、大王にお礼
を言うと、不思議なことに、再びこの世に戻ってきたのです。
次の日、上人は神通力で、八千人もの羅漢(悟りに達した仏教の修行者)を集
め、一つ一の石に、一字ずつお経を書き、お母さんのために、盛大な供養を行
ったのです。すると、紫雲たなびく天上遥かから、「お前のおかげで極楽浄土
へ行けるようになったよ」というお母さんの声が聞こえてきたのでした。上人
は、その後、毎年、七月十五日になると、お灯明をあげ、祭壇に新鮮な野菜を
備え、お母さんや祖先の供養をしたそうです。
これが、お盆の始まりだそうです。
 
日づけのあるお話 365日 七月のむかし話 谷 真介 編・著
金の星社 刊
 
この話を聞くたびに、私は「子煩悩」という言葉を思い出します。この言葉か
ら、子どもをかわいがる親のイメージを持ちがちですが、本当はそうではあり
ません。煩悩とは、「心身にまといつき心をかき乱す、一切の妄念・欲望」
(岩波国語辞典)のことです。「子煩悩」は、「子は煩悩のもと」と考えるべ
きなのです。すると、目蓮上人のお母さんが、なぜ地獄へ落ちたかわかります。
「お前のことが可愛くて、可愛くてね。お前が賢いことを人に自慢ばかりして
いたのじゃ。他の人は早く死んで、おまえだけ長生きしてくれればいいと、罪
深いことばかり考えていたからだよ」。
少子化時代のお母さん、過保護な育児をしていると、「子煩悩地獄」に落ちま
す。被害者は、お子さん自身であることに、早く気づいてほしいものです。
 
また、「子ゆえの闇」という言葉があります。
 
「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」 
  藤原 兼輔 
 
親の心は普段は正しいが、子どものことを思うときだけは、迷いが生じてしま
う、という意味の歌である。ここから「子ゆえの闇」という言い方が生まれた。
どんなに理性的な人でも、ことわが子が置かれた環境や将来の話になると思慮
分別をなくしてしまう……子を持つ親なら、そういう気持ちはよく理解できる
はずである。早い話が親ばかだが……。
(知らない日本語 教養が試される341語  谷沢永一 著 幻冬社 刊 P57)
 
「早い話が親ばかだが……。」わかっていますが、つける薬はないということ
ですね。目下、孫バカにはまりそうで、自戒しています(笑)。
 
話に出てきた「羅漢」、小江戸と呼ばれる川越市の喜多院の境内にも、五百の
羅漢さんがいらっしゃいますが、同じ顔は一つもないそうです。喜多院には、
家光誕生の間や春日局が使っていた化粧の間があり、時の鐘、蔵造などと共に
欠かせない観光スポット。なぜ、春日局が家光の乳母になれたのか不思議に思
っていたのですが、驚いたことに本能寺の変は、信長が光秀に命じて家康を討
つ手はずが狂い起きたもので、「なぬ!」と目をむきたくなる事実を、光秀の
子孫にあたる明智憲三郎氏が「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫
 刊)で解き明かしています。
なぜ、あの用心深い信長や家康が、わずかな手兵で本能寺へやってきたのか、
(家康を油断させて光秀に討たせるため)。なぜ、秀吉があれほど速く戦場か
ら引き返し光秀を討つことが出来たのか、(事前に計画を知っていた)。そし
て光秀が本能寺の変の前に詠んだ連歌の発句、「時は今雨がしたなる五月かな」
の「時」は「土岐一族」であり、「目下雨が滴る苦境の時だが、六月には晴れ
る」という意味であるとすると、光秀の謀反は土岐氏にとっては再興の戦いで、
「三日天下」の悪評も吹っ飛ぶものに。事前に察知した家康は逃げ、謀反を起
こした光秀は秀吉に討ち取られる。謀反に加担した家康のことを知っていたが、
口を割らずに処刑されたのが光秀の重臣であった斉藤利三、その娘がお福で後
の春日局。感謝の意味で乳母にしたとのことで、単細胞の私は、納得してしま
いました(笑)。
不思議な存在が細川幽斎(藤孝)。長子、忠興の正室は、光秀の妹、珠子、か
の細川ガラシャ。再三の出陣の要請に応えなかった幽斎。本能寺の変は、秀吉、
家康、幽斎の3人がかかわったことだが、光秀一人に責任を負わされたと結ぶ。
膨大な資料と子孫の意地が、ここまで切り込むことを可能にしたのでしょう。
何が起きてもおかしくない戦国時代、まだ新たな事実を知る機会は残されてい
ると思いました。(感謝)
ちなみに、16万部売れているそうですが、「絶歌」は15万部印刷されたと
か。パソコンで検索し、「神戸連続児童殺傷事件」(ウィキペディア)を読む
と吐き気をもよおすほど気分が悪くなり、自称、活字中毒気味の私ですが、読
む気になれません。(激憤)
 
次に紹介する話は、「ナヌ?」となるはずです。そうです、芥川龍之介の世界
です。こういった作品に出会うと、「やってくれるではないですか」とうれし
くなりますね。
 
◆にんじんのしっぽ◆   水谷章三 著
むかし、けちなばあさんが、じいさんと隣同士に住んでいました。じいさんが
風邪を引き、薬にんじんを分けてくれと頼むと、一本あげるのを惜しみ、細い
にんじんを半分に折り、曲がったしっぽのところを、あげたのです。じいさん
の風邪は治りました。その後しばらくして、ばあさんが死にました。行き先は、
地獄です。
釜に投げこまれ、首だけ出して苦しみ、もがいていた時、天の神さまが、雲に
乗り通りかかったので、助けてくれと大騒ぎをしたのです。その声が神さまの
耳に届き、何か方法はないかと、使いの者を閻魔大王のもとへ走らせたのでし
た。困ったのは、大王です。ばあさんは、何も善いことをしていないからです。
閻魔台帳を見ていると、やっと見つかったのは、隣のじいさんに、薬にんじん
をあげたことでした。大王は鬼に言いつけ、薬にんじんのしっぽを、使いの者
に渡しました。
神さまは、「お前が人助けをした、にんじんのしっぽだ。これにつかまって上
がれ」と釜の上に降ろしたのです。それにつかまったばあさんを、神さまが引
き上げはじめました。釜から二本の足が出ると、右足に一人、左足に一人、亡者が飛びついたのです。
すると、四本の足に一人ずつ飛びつき、八本の足となり、十六人、三十二人と
亡者が飛びつきます。ばあさんは、かなり上まで来たと思い下を見ると、足の
下に亡者がつながっているではありませんか。にんじんが切れてしまうと、ば
あさんが足をこねまわしたからたまりません。取りついていた亡者どもは、地
獄の釜に落ちてしまいました。ばあさん一人になり、天国に上れると思ったの
ですが、あと一息のところで、しっぽは切れ、ばあさんも地獄に戻ってしまっ
たのです。そして、「人のこと、降り落とさねばよかったってか、どうかな」
と、つぶやいたのでした。
 
九月のはなし   きのこばけもの 松谷みよ子/吉沢和生・監修
日本民話の会・編 国土社 刊
 
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と違うのは、ばあさんの最後の一言でしょう。お釈
迦さまが、犍陀多(カンダタ)の無慈悲な心を哀れんだのに対して、このばあ
さんの一声は、「人のこと、降り落とさねばよかったのではないのかだって、
どうかな。そんなことはわからないよ」と、ばあさん本人にいわせているとこ
ろがいいですね。後悔しないで開き直っています。昔話は、その時代に生きた
庶民の息吹を感じることが出来ます。この話も意味深長ではないでしょうか。
人生を達観している気がします。こんなことをいうと、芥川龍之介のファンか
ら「生意気いうな!」とお叱りを受けそうですが、気の小さな私は、蜘蛛を踏み潰さなかった犍陀多の気持ちがよくわかりますし、このけちなばあさんのふ
てぶてしい言葉には、「さすが女性だな」と思うのですが、女性の方からブー
イングがあるかも知れません(笑)。こういった話に出会うと民話にも説得力
があり、読んでいて楽しくなります。
 
最後に、うなぎに関した面白い話があるのですが、パソコンで検索しても見つ
かりません。寺村輝夫氏の「とんち話・むかし話シリーズ」の「わらいばなし編」
(あかね書房 刊)ではないかと思います。題もうろ覚えで間違っているかも
しれませんが、こういった話です。
 
においの値段
うなぎ屋さんの店の前に、舌を出すのもいやな、けちべえさんが住んでいまし
た。昼時になると、けちべえさんは、お茶碗にご飯をいっぱいつめ、家の窓を
あけ、うなぎの焼ける匂いをかぎながら、美味そうにご飯を食べるのでした。
うなぎ屋さんはこれがしゃくで、何とかお金を取れないものかと考えていたの
です。
ある日のこと、請求書を持って、けちべえさんの家に行ったのでした。
「けちべえさん、あなたは、毎日、お昼になると、うなぎの匂いをかいで、ご
飯を食べていますが、うなぎはただではありません。匂い代を払ってくれませ
んか」
「ああ、いいですよ。毎日、ご馳走になっていますから」
といって、けちべえさんは、奥にいって、何と財布を持って出てきたではあり
ませんか。
「いくらですかな?」
驚いたのはうなぎ屋さんです。 けちべえさんが、お金を払ってくれるなど、
信じられなかったからです。
「1月分ですから、ちょうど○○です」
「おや、安いものですな。じゃ、払いますよ」
といって、お金を床に投げ出したのでした。チャリン、チャリンと音を立てた
のを聞いたけちべえさんは、
「私は、匂いだけをかぎましたから、お前さんにもお金の音だけで払ってあげ
ましょう」
といって、お金を拾い、さっさと奥に入ってしまったのでした。
 
落語にも同じ話があったと記憶しています。これは、とんち話ですから、子ど
も達の方が知っているかもしれません。私たちの世代にとってとんち話は、エ
スプリを磨くといってはオーバーですが、子ども達には人気がありました。し
かし、本は手に入らず、ほとんど祖父母や両親から聞いたものでした。今は、
あふれるほど本は出版されていますから、読まなければもったいないですね。
この「もったいない」という言葉、粗末に扱われているのではないでしょうか。
子ども達に、きちんと教えたい言葉です。
 
環境保護と民主化に情熱を注ぎ続けたケニアのワンガリ・マータイさんは、
2011年10月25日に亡くなりましたが、2005年に来日、「もったい
ない」という言葉に感銘を受け、「MOTTAINAI キャンペーン」を世
界中に広めました。本家が無駄遣いをしているようでは、マータイさんも浮か
ばれません。
「節電」を徹底し、無駄な電力は使わず、原子力発電だけに頼らなくても生活
できることを、実証すべきで、絵に描いた餅のようでは、いざという時に役立
ちません。計画停電や食料品、飲料水が、店頭から姿を消してしまった日のあ
ったことを忘れては、また自然災害が起きた時、後手に回り、塗炭の苦しみを
味わうだけではないでしょうか。
マータイさんは、私と同じ1940年生まれで、他人事とは思えず、私なりに
「もったいないキャンペーン」を心がけています。
「人の心に火をともす」、キャンペーンは、かくありたいものです。
(次回は「終戦記念日、このことです」についてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第9章(3)七夕祭りでしょう

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第34号-
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第9章(3)  七夕祭りでしょう   文 月
 
★★お盆って何の日、ご冗談を★★
人間は死ぬと仏様になり、その仏様をお迎えする行事をお盆だと思っていまし
たが、少し違うようでした。「盆と正月が一緒に来たような忙しさ」といいま
すが、これは1年を半期ずつに分けた前期の始まりが正月で、後期の始まりが
お盆だから、こういう使い方をするのです。
 
正月に、日頃お世話になった人々のところへ感謝と新たな年を迎えるにあたっ
ての抱負を胸に、年始まわりするのと同じように、盆には健在な親、仲人、師
などの親方筋を訪問し、心のこもった贈り物をする、盆礼という習慣があった。
(中略)盆は満月の日、7月15日である。それが仏教の説く盂蘭盆会(うらぼ
んえ)と一致し、仏教国家として次第に民衆の間に浸透していった。(中略)さ
らに道教の三元思想の影響を受け、盆は7月15日に吸収され、「盆と正月」
は「盆暮」と姿を変えたのである。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P149)
 
日本に伝えられた盂蘭盆会は、推古天皇14年 (606)に初めて催され、聖武天
皇天平5年 (733)より、年中行事になったそうです。「盆と正月」が「盆暮」
と言葉を変えたのは、1年を半期ずつに分けた前期の終わりを盆、後期の終わ
りを暮というようになったからです。それで盆は中元を、暮は歳末を意味する
ようになり、盆にはお中元を、暮にはお歳暮を、お世話になっている人に感謝
の気持ちをこめて、贈り物をするようになったのです。
 
★★お盆の風物詩★★
お盆には、7月15日を中心に祖先の霊を迎えて送る行事、精霊祭(しょうり
ょうまつり)があります。 
13日に迎え火をたきますが、これは仏様が、おがら(あさの皮をはぎ取った
茎のこと)を折って、たいた煙に乗り、盆灯篭(ぼんどうろう)の明かりを頼り
に家に帰ってくるからだそうです。おがらの足をつけたきゅうりの馬となすの
牛を内向きに並べて飾るのは、仏様は、馬に乗り、荷物を牛に背負わせて帰っ
てくるといわれているからです。迷子にならないように、きちんとお迎えをす
る意味でしょう。私のように、そそっかしい仏様もいるはずですから。
仏様を祭る棚を盆棚(精霊棚)といって、そこに真菰(まこも)を敷き、ほお
ずき、ききょう、おみなえし、はぎ、山ゆりなどの秋の花を飾ります。こうし
て久しぶりに帰ってきた仏様は、真菰にお座りになり、それを家族みんなで慰
めるということでしょう。お供えは、畑でとれたものや、仏様が生きていたと
きに好きだった食べ物も供えます。私でしたら「越乃寒梅」(幻の銘酒といわ
れた新潟の酒)を1合だけ、お願いしたいものです。
 
そして、懐かしい自分の家で過ごした仏様は、7月16日には、お帰りになり
ます。これが送り火で、きゅうりの馬となすの牛は、今度は外向きに並べて、
送り出すことになりますが、これも間違いなく彼岸の方へ帰ってもらうためで
しょう。広島の灯篭流しのように、送り火を小さな船に乗せて、お供え物と一
緒に、川へ流すこともあります。また、地方によっては、美しく飾られた精霊
船に、仏様に供えたものを乗せて、灯火をつけ、経文や屋号を書いたのぼりを
立てるところもあります。
 
送り火で有名なのが、京都の「大文字焼き」です。しかし、これは、8月16
日に行われています。
それは、8月15日を旧盆として祭る風習が、残っているからです。7月の京
都は、まだ梅雨明け前です。しとしと降る梅雨空に、大文字焼きは、にあいま
せん。やはり、しっかりと暑い8月だからこそ、風情があります。何やら風鈴
の涼しげな音と蚊取り線香の匂いがしてくるような気がしませんか。
 
ところで、澤田ふじ子さんの「公事宿事件書留帳シリーズ」は19巻になりま
したが、その3巻目に、なぜ、大文字焼きは、大、左大文字、妙、法、舟形、
鳥居からなっているか、その理由について、わかりやすい話が載っていました
ので紹介しましょう。
 
大文字と左大文字は、大乗仏教と小乗仏教をかたどり、妙と法は法華経信仰に
基づくもの、船形は七福神が船に乗って表されることから七福神、または異国
から到来した雑信仰を意味し、鳥居は申すまでもなく神道をかたどったと考え
たらいかがでござろう。足利将軍義政公の頃、わが国は応仁の乱によって多く
の人命が失われ申した。京は死の町となった中から復興をとげました。それぞ
れ違った信仰を持つ人々が集い、合議の末、かような行事を興したのではない
かと、私は考えております。
(公事宿事件書留帳 三 拷問蔵  澤田ふじ子 著   幻冬舎 刊 P300)
 
平岩弓枝さんは江戸の「御宿かわせみ」(34巻 新シリーズ“5巻”)で、
澤田さんは京都の公事宿「鯉宿」で、悪を懲らす時代小説を書かれていますが、
内容はいずれも、現代社会の悪行を暴いたものです。「罪を犯した厚顔無恥な
為政者は、さらし者にすべきだ」という澤田さんの憤りは、庶民の怒りであり、
読み始めると止まらなくなる事件書留帳です。茶道、立花、陶器、謡曲、日本
画、作庭など、京都文化に興味のある方必読の作品が、たくさん出版されてい
ます。蛇足ながら、11巻から始まった文芸評論家、縄田一男氏の解説が何と
も素晴らしく、毎回楽しみにしています。
 
本題に戻りまして、まだ、あります。盆踊りです。
これも、仏様を迎え、慰め、そして来年も間違いなく来てくださいと、送るた
めに捧げられたもので、中央のやぐらのまわりを輪になり、鉦(しょう)と太
鼓と笛に合わせて踊ったのです。今では、地域のコミュニケーションの場とな
り、夏に欠かせないイベントの1つになっていますが、親子で「ドラえもん音
頭」に合わせて踊られてはいかがでしょうか。
 
「やっとせ、もっとせ!」の掛け声も楽しい徳島の阿波踊りは、ものすごい迫
力で、夏の風物詩に欠かせません。東京の山の手、高円寺の阿波踊り、今では
すっかり定着して名物になっていますが、何だかおかしな気がしないでもあり
ません。しかし、下町の浅草では、ブラジル生まれのサンバ大会をやっていま
すから、おかしくないのでしょう。このサンバですが、みなさん上手です。
「タンタンターン、タタンタターン♪」いうリズムを完全にこなし、お見事の
一言です。それも、かなりの年配の方が、きちんとリズムをこなしています。
しかも、実に楽しそうです。年配の方は、頭に手拍子、アクセントのある民謡
でなければ、踊れないと思っていましたが、認識を改めなくては怒られますね。
本場のブラジルから応援にきている女性軍団の踊り、リオのカーニバルのもの
すごさを想像させてくれます。
 
雷門から見つめる風神と雷神、仲見世を約300メートルいったところにある
宝蔵門にどっしりと構えた仁王の目には、どのように映っているでしょうか。
仁王のお守りする御本尊は、宝蔵門の手前の浅草寺幼稚園の側にある「浅草寺
縁起」の絵で見ただけですが、小さな、小さな、何とも美しい観音様だからで
す。この観音様は、信仰上の理由から普段、人には見せない秘仏ですが、長い
間、「実際に見た人はいないのではないか」といった話を小林秀雄と松本清張の
対談で読んだものと思っていました。ところが、今読んでいる梅原猛氏の影響
を受け、日本の神道と仏教の関係を調べようと、五木寛之氏の「百寺巡礼」
(全10巻 講談社 刊)を読み直していたところ、何と5巻目の「関東・信
州編」の「41番 浅草寺」に、この観音様の話が出ているではありませんか。
明治に入り廃仏毀釈の機運が高まった明治2年、役人が天皇の命令、勅命によ
り厨子を強引に開けさせたそうです。
 
すると、予想に反して、そこには確かにご本尊が祀られていたのでおそれいっ
た役人は、大切にせよと命じて、あわてて立ち去ったそうだ。これは松本清張
と樋口清之の共著「東京の旅」に書かれた一節だが、この話には続きがある。
その時、手早い役人のひとりが、秘かに本尊をスケッチしてしまったのである。
このスケッチは昭和に入ってから遺族の手で寺に返され、今は浅草寺が所蔵し
ているらしい。そのスケッチを見た人の話、というのが記されていた。焼けた
跡がうかがえる高さ20センチほどの観音像で、両手が失われていた。しかし、
その意匠から、奈良時代頃の像であることは違いないという。
(百寺巡礼 第5巻 関東・信州編 P20 五木寛之 著 講談社 刊)
 
五木氏も「秘仏が実在した記事を読み、ホッとしたような、がっかりしたよう
な、妙な気持ちだった」と書かれていますが、両手足が失われていたと知り、
おいたわしい気持ちに落ち込み、「浅草寺縁起」で見たお姿を思い浮かべ、世
の中、知らずに済めば、それに越したことはないものがあることを体験してし
まいました。10月の神無月に紹介しますが、自説の誤りを気づき出雲大社に
出かけ、大国主命(おおくにぬしのみこと)に詫びた梅原猛氏の謙虚な姿勢に
は頭が下がりました。スケールは大違いで恥ずかしいのですが、私も真似て
「小林秀雄と松本清張」ではなく、「松本清張と樋口清之」の間違いであった
ことをお詫びいたします(笑)。
 
浅草寺には2つの大きな提灯があり、浅草のシンボルとして親しまれています。
入口の雷門には、「雷門」と書かれた提灯があり、高さ3.9メートル、直径
3.3メートル、重さ約700キロもあるもので、1865年に火災で焼失し
たものを、1960年に松下電器創業者の故松下幸之助の寄贈で95年ぶりに
再現されたものです。現在の提灯は6代目で、約10年ごとに新調されている
そうです。宝蔵門には「小舟町」と書かれ提灯があり、約4メートル、重さ
260キロで、今から300年ほど前に、日本橋の小舟町魚問屋の信徒が、江
戸っ子の心意気を示そうと、日本一大きな提灯を寄進したことから始まり、浅
草寺の伝統として受け継がれています。
ちなみに、浅草寺は正式には金龍山浅草寺といい、都内最古の寺院で、年間約
3千万人の参詣者が訪れる、民間信仰の中心地としてにぎわい、最近は、外国
人の姿も多くなっているようです。
 
ところで、観音様は、あのお顔といい、なまめかしいお姿といい、仏様に性別
があると申し上げるのも不謹慎なことですが、恥ずかしながら女性の仏様だと
思っていたのです。先日、千葉県市川市にある国府台女子学院に安置されてい
る慈母観音様を見る機会があったのですが、何とも素晴らしく、後期高齢者の
私は、はしなくも、しばらく見とれてしまいました(笑)。
 
本学院の「慈母観音」は女子校に飾られるということで、ご尊顔も一見笑みを
浮かべた女性のようで、おからだも柔らかく表現されているが、芳崖の「悲母
観音」のお顔に顎鬚が描かれているように、観音様は基本的には男性(正確に
は性別を超越した存在)である。本学院の慈母観音像も胸元のあらわな装束を
お召しだが、これもこの理由だからである。誤解無きように。(笑)
  学院長 平田 史朗 (「国府台女子学院 広報 第157号」より)
筆者注 顎鬚(あごひげ)
芳崖 狩野芳崖のことで、幕末から明治期に活躍した日本画家で近代日本画の父。
 
慈母観音の作者、横江嘉純は、重要文化財に指定されている芳崖の「悲母観音」
を手本にしたそうですが、片手に水瓶(みずがめ)を提げ童子を慈しむお姿は、
女子校にぴったりの雰囲気をかもし出していました。氏は、アガベの像(東京
駅前)、愛の像(青山学院大学間島記念館)、祈りの像(広島平和記念公園)
などの作品で著名な彫刻家です。女子校の、しかも中高の校舎の正面玄関から
入った右側にある図書室の前に安置されていますから、残念ながら、いつでも、
気軽に、ご尊顔を拝することはできません(笑)。ところが、新装なった学園
の講堂、寿光殿は、中高の校舎内にあり、説明会はここで行われていますから、
参加するとお会い出来ることになりました。「彦星と織姫と同じではないです
か!」と不謹慎にも希望を抱いてしまいました。(感謝)
 
★★お神輿と山車の違い★★
浅草といえば「三社祭」、浅草寺の境内は、神輿(みこし)を担ぐ人で、ごっ
た返します。威勢よく担ぐ神輿は、上下左右に激しくゆれ、よくぞ怪我人が出
ないものだと心配になるほど殺気だち、恐いほどです。この神輿のいわれです
が、時代劇でよく見かけるように、昔、身分の高い人は、輿(こし)といわれ
た台に乗り出かけていました。神輿は、つまり、「神の輿」であって、神様の
乗り物なのです。そして、お乗りになっている神様は、激しくゆさぶられるの
が大好きで、激しければ激しいほどご機嫌になるといわれ、そのために、元気
よく担ぐのだそうです。
山車は、祇園祭などでお馴染みですが、四月の桜の時に紹介しましたように、
神様は、冬になると山に帰り、春になると下りてくると信じられていました。
お祭りには、神様が必要ですから、来ていただくために、お迎えするための乗
り物が必要だったわけです。
そのため、祭りには移動式の山が作られたのです。これさえあれば、祭りに神
さまを招くことができると考えられていました。その後、形が変わり「山車
(だし)」になっても、山の字が残ったのです。
(心を育てる 子ども歳時記 12か月  監修 橋本裕之 講談社 刊 P66)
 
ところで、神様にも悪い神様がいたそうです。
夏祭りの神様は悪い神様で、病気や飢饉などを起こさないように、神輿を激し
く揺さぶり、ご機嫌を取って、山に帰ってもらい、災いを未然に防ぐ、昔の人
の知恵だったのです。日本の三大祭といえば、東京の神田祭、大阪の天神祭、
コンチキチンコンチキチンお囃子でおなじみの京都の祇園祭ですが、祇園祭の
主役で地獄にいるという牛頭人身の獄卒、牛頭(ごず)大王は、有名な悪い神
様だそうです。
 
★★なぜ、土用の丑の日に、うなぎを食べるのですか★★
「土用」というのは、何も夏だけではありません。「節分」と一緒で年に4回
あります。前にもお話ししましたが、立春、立夏、立秋、立冬は、それぞれの
季節の始まりです。そして、それぞれの前の18日間を「土用」といい、その最
初の日を「土用の入り」といいます。土用は、四季、それぞれにあるのですが、
なぜか夏の土用だけが有名です。しかし、なぜ「丑の日」というのでしょうか。
それは、それぞれの日にちには、正月で取り上げた「十二支」の動物の名前が
ついているからです。それで、夏の土用の内にやってくる丑の日のことを「土
用の丑の日」といいます。
 
ご存知のように、この日は夏ばてしないように、良質のたんぱく質、脂肪、ビ
タミン、カルシュウム、鉄、亜鉛、DHA、ミネラル類などを含む、栄養のバ
ランスのすぐれたうなぎを食べる習慣がありますが、何とその歴史は古く、何
しろ「万葉集」の大伴家持の歌に、「夏バテに効果がある」と詠われています。
読んでいると、思わず食べたくなる池波正太郎の食べ物に関するエッセーに、
こういった話があります。
 
…石麻呂にわれ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻(むなぎ)捕り食(め)せ…
という一首がある。
大伴家持の歌だ。
そのころから、すでに、うなぎの豊かな滋養が知られていたことになる。
この歌でうなぎのことをムナギといっているのは、うなぎの胸のあたりの淡黄
色からついた名で、それが転じてうなぎとよばれるようになったのだそうな。
 
奈良時代から、この日は、うなぎにとって、まさに受難の日であったわけです。
しかし、なぜ「土用の丑の日」に、うなぎなのでしょうか。丑の日ですから、
ステーキとか焼肉という感じがしますが、江戸時代ですから、まだ、牛肉は無
理でしょう。事の起こりは、江戸時代の学者、平賀源内が、うなぎ屋の宣伝を
したのが始まりといわれ、そのコピーは、「土用の丑の日はうなぎの日」だっ
たそうです。非常に、多才な方だったのですね。
源内は、起電気であるエレキテルを完成させたことで知られていますが、その
他、本草学者(薬用に重点をおいて、植物や自然物を研究した中国古来の学問)、
劇作家、発明家、科学者、陶芸家、画家、工学者として一流でしたから驚きで
す。まさに、江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ的な存在であったわけです。  
源内のパトロンが、時の老中、田沼意次です。私事で何ですが、池波正太郎の
愛読者の一人で、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人梅安」 など、何回読
み返しても飽きません。この「剣客商売」の主人公、秋山小兵衛の息、大治郎
のお嫁さんが、田沼意次の実の娘、佐々木三冬です。正妻の子でなかったため
に、佐々木家の養女となって登場しますが、女剣士、妻、母親と変貌していく
中で、物語に欠くことのできない重要な役目を果たしています。意次は世評と
は逆に、まつりごとに忙殺される政治家として描かれています。秋山小兵衛は、
藤田まことの当たり役で、明治座で見たことがあり、歌がうまいのにはびっく
りしましたが、冥界に旅立ち、二度と見ることができなくなりました。
 
ところで、江戸時代は4本足の獣を食べなかったのですが、「うさぎは、ぴょ
ん、ぴょん飛ぶから、あれは鳥だ!」といって食べていたのです。ですから、
うさぎは1羽、2羽と数え、それが今も残っているのですが、子どもたちには、
よく理解できない数え方になっています。哺乳類を食べることを禁じていた仏
教の影響でしょうが、とんだところで、子どもたちを悩ましているようです。
この数詞ですが、日本語は難しいですね。1本、2本、3本、1匹、2匹、3
匹とふえるに従い読み方が違い、4本、4匹以下が、また違いますし、花にし
ても、1本、1輪、1束、1鉢、1株などと分けて使っていますから、外国の
方には、魔法のように思えるようです。それだけ、物に関する感性が、繊細だ
ということですね。 
 
7月は、紀貫之の三十一文字で始まりましたから、最後は、俵万智さんの作品
から一首。
 
「この味がいいね」と君がいったから七月六日はサラダ記念日
 
7月6日は七夕の前日、この日だからいいのですね。バレンタインデーやクリ
スマスイブでは、サラダ記念日は訴える力に欠けます。「わたくし流」ですか
ら正しい解釈かどうかわかりません。五七五七七に、こだわってみました。
      この味が いいねと君が いったから 
      七月六日は サラダ記念日
 
ところで、昨年まで同じような感覚として、歌人で国文学の巨匠、土岐善麿 
(1885ー1980)作の「あなたは勝つものと……」を紹介していたのですが、とん
でもない誤解をしていたことを思い知らされました。「終戦の日を迎えて」と
題したコラムに、終戦後に詠んだ歌との解説があったのです。
 
あなたは勝つものとおもってゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
 
「短歌研究 昭和21年3月号に掲載された「会話」という連作の冒頭の歌で、
次に、「子らみたり召されて征(ゆ)きしたたかひ敗れよとしおもいのべるべ
かりしか」という歌が続いていることはあまり知られていない。戦争に負ける
ことは、味方の犠牲が大きいということだから、戦争に行っている3人の子ど
もが死ぬことにつながる。親として子の死につながる敗戦を願うわけにはいか
ない、というわけである。
(コラム[紙つぶて] 筒井清忠 帝京大教授 東京新聞夕刊
 平成25年8月15日)
 
「老いたる妻のさびしげにいふ」理由が、敗戦だけではないことがわかり、昨
年までは、「万智さん以上に新鮮な感覚ですね、などとほざいては、どやされ
かねません。読み流してください」などと、したり顔で紹介していたことが恥
ずかしくなりました。(懺悔)
 
今年の土用の丑の日は、7月24日と8月5日ですが、我が家の食卓には、今
年も姿を見せないようです、高いですね(笑)。
(次回は「7月に読んであげたい本」についてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第9章(2)七夕祭りでしょう

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第33号-
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第9章(2)  七夕祭りでしょう   文 月
 
★★なぜ、仙台の七夕は、8月なのですか★★
復興が、いまだに進まない被災地の皆様方には、七夕どころではないでしょう
が、子ども達には、待ちかねている夏祭りではないでしょうか。自宅に帰り、
昔のように祭りを楽しむ日が一日でも早く戻ることを祈ってやみません。ゼウ
スがパンドラに持たせた、あらゆる災いが詰まった箱(壺)を開けてしまい、
中から様々な災いが飛び出し世界中に散っていき、急いでふたをしたので希望
だけが箱に残り、それから人間は酷いことにあっても希望を持つようになった
というギリシャの昔話「パンドラの箱」ではありませんが、希望の杖が、次第
に弱くなっているような気がしますが、何とかならないものでしょうか。
 
仙台の七夕は、8月に行われています。竿燈とねぶたを合わせて、東北の三大
夏祭りですから、華やかです。何しろ街中が、七夕の飾りで埋まっている感じ
がします。しかし、素朴な疑問ですが、何だかおかしくありませんか。七夕は、
五節句の一つ「七夕」(しちせき)ですから、七月七日と、七が二つ重なると
ころに意味があるのではなかったでしょうか。
 
七夕を「たなばた」と読むのはなぜだろう。「たな」は棚で、「はた」は機で
ある。7月7日の夜、遠来のまれびと・神を迎えるために水上に棚作りして、
聖なる乙女が機を織る行事があり、その乙女を棚機女(たなばたつめ)、また
は乙棚機(おとたなばた)といった。「七月七日の夕べの行事」であったため
に「たなばた」に「七夕」の字を当てたのである。萬葉集には七夕は織女と書
かれているが、新古今和歌集では七夕となっている。「七夕」の字は平安時代に
当てられたものであることがわかる。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P121-122)
 
だとすれば、仙台の七夕は「八夕」になります、何と読むのでしょうか。冗談
はさておき、これも訳ありなのです。         
 
年中行事は、日本で最後に使われた太陰太陽暦である天保暦で行われています。
現在、使われている暦は、明治6年から採用された太陽暦、グレゴリオ暦です。
この天保暦とグレゴリオ暦との日付の差が、最小21日から最大50日あって、
平均すると35日、グレゴリオ暦の方が進んでいます。
ですから、天保暦による旧7月7日は、現在の8月12日前後になるわけです。
そうすると、七夕は真夏の行事になります。ところが、天保暦によると、暦の
上では7月から秋、立秋です。七夕が過ぎると、秋風の吹く処暑です。
太陰太陽暦では、暦の上の月日と季節感と食い違いを起こすので、暦の月日と
は別に、農作業に必要な季節の標準を示したのが、二十四節気だったことを思
い出してください。仙台の七夕は、旧七夕に近い8月7日に行われ、盛夏の行
事になっていますが、天保暦に従った「ひと月遅れの七夕」で、旧七夕という
ことではありません。
 
たとえば8月12日に旧七夕だとして、8月12日に七夕の行事を行うのは、
どうもしっくり来ない。七夕は七月七日という「七」に意味があるのであって、
8月7日ならば一ヶ月延ばして行うという感覚が働いて、何となく旧暦という
言葉のなかに埋め込んでしまえばわからぬながら納得しようというものであろ
う。(中略)平均35日進んでいる現行暦を30日戻すことになるから、季節
感としての行事は5日進んでいると考えればよいわけである。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P134)
 
しかし、正月と盆の帰省ラッシュ、故郷にあるご先祖のお墓参り、何となく旧
盆という感覚がありませんか。東北の三大祭りとして親しまれている行事です
から、それで不都合はないのでしょう。
子ども達も、夏休みです。お父さんも、お母さんも休みをとって、お子さんと
一緒にリフレッシュする、もう夏の風物詩になっています。
 
ところで、この七夕のときに、雲一つない空を見上げて、天の川に感激した記
憶が、ほとんどありません。日本列島は、梅雨の真最中です。天保暦を使って
いた時代の人々は、大気汚染もなく、電気もありませんから、それこそ夜は、
漆黒の闇です。澄み切った夜空に浮かぶ天の川をはさんだ2つの星を、見てい
たのでしょう。プラネタリウムで、完璧に再現された人工の天の川を見るのと、
どちらに夢があるでしょうか。
 
★★そうめんと冷麦はどこが違うの★★
夏の風物詩の流しそうめん、何と、そうめんの1本1本が、機をおる織糸で、
流れる様子は天の川を表しているそうです。江戸時代の「日本歳時記」には、
七夕に索麺(そうめん)を食べる習慣があり、その由来は、中国の伝説による
と記されています。何事も、訳ありなのですね。年越しそばのところで触れま
したが、そばと薬味のねぎは、因果関係がありました。淡泊な口触りのそうめ
んには、生姜(しょうが)や茗荷(みょうが)の芳香が涼を誘い、食欲がます
ような気がします。
 
昨年の暮れに亡くなられた宮尾登美子さんは、何を隠そうと言うほどではあり
ませんが、「そうめん大好き人間」です。
 
そうめんは姿かたちも、のどごしのよさも、いまだに昔ながらのものだが、食
べ方や製法についてはかなりいまふうになって来ているらしい。ただ私はガン
コな保守派で、つけめんなんてとんでもない、茹でた三年そうめんを、昆布と
カツブシのダシ汁のなかに泳がせ、上にちょっぴり柚子をすりおろすだけの食
べかた。これを毎年五月から九月まで皆勤賞をもらえるほど、もう五十年以上
毎昼食食べつづけている。
(生きてゆく力 宮尾登美子 著 新潮文庫 P133)
 
但し、ご主人は、おろし生姜のみで、柚子は邪道といって、ゆずらないそうで
す(笑)。かくいう私は、つけめん派で、茗荷と生姜の二本立て、ぬる燗の日
本酒と相性がよく、夏には欠かせない酒の肴の一つです。
この後に、「満州の難民収容所の前後だが、餓死一歩手前で、毎晩の夢に必ず
そうめんを見たものだ」と続くのですが、こういった過酷な戦争の体験が、宮
尾さんの作家魂を支えていたのではないかと勝手に思い込みながら、平和な時
代に生きていることを感謝しています。自叙伝的小説の主人公、綾子に5度目
の再会ができると期待していましたが、ついに世に出ることなく宮尾さんは逝
ってしまいました。彼岸の地でそうめんを食べているでしょうか。
 
ところで、この茗荷には、おもしろい話が残っています。
 
茗荷という名前の漢字をよく見てください。この名前については次のような逸
話があります。釈迦の弟子の周梨般特(スリバンドク)は熱心に修行をする好
ましい人物でしたが、物忘れがひどく自分の名前すらすぐに忘れてしまったそ
うです。そこで釈迦が首から名札を下げさせました。彼の死後、墓から見慣れ
ぬ草が生えてきました。生前自分の名を荷物のように下げていたことにちなん
で、村人がこの草を「茗荷」と名づけたという説があります。この話から、茗
荷を食べると物忘れがひどくなるという俗説が生まれました。
    (http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/Myouga.htm より)
 
物忘れが激しくなることはありません、俗説です。この俗説を利用して、泊ま
っている金持ちから預かったお金を忘れさせようと、茗荷をたくさん食べさせ
るのですが、その効果がまったくなかったという落語のような、むかし話があ
ります。そういえば、東京メトロ丸ノ内線に「茗荷谷駅」がありますが、江戸
時代には、たくさんの茗荷畑があったそうです。
 
ところで、そうめんといえば冷麦を連想しますが、どこが違うのでしょうか。
太さの違いと思っていましたら、そんな単純なことではありませんでした。困
ったときの広辞苑によると、
「冷麦は、細打ちにしたうどんを茹でて冷水でひやし、汁を付けて食べるもの」
「素麺は、小麦粉に食塩水を加えてこね、これに植物油を塗り細く引き伸ばし、
日光にさらして乾した食品。茹でまたは煮込んで食する」
と製法の違いがありますが、うどんの仲間なのですね。うどんの乾麺には、そ
うめんと同じように植物油が塗られています。            
 
でも、太さにこだわりますが、「なぜ、素麺は細いのかを正したい!」などと
意気込むほどのことではないでしょうが、JAS(日本農林規格)には、きち
んと、その違いがでているのには驚きました。
「切り口の直径が1・3ミリメートルより太いものが冷麦、それ未満の物が素
麺」となっています。切り口は、そうめんは丸く、冷麦は角っぽく見えます。
もう一つの疑問、冷麦には、なぜ、色のついた麺が入っているのでしょうか。
そうめんにはありませんが……。
 
★★七夕は、お盆の始まりの日です★★
七夕というと、何やら願い事をし、豪華な飾りものを楽しむ観光イベントとい
う感じになっているようですが、本来は、7月は、正月と同じで、ご先祖様が
帰ってくるお盆の月なのです。
7月7日を「七日盆」といって、お盆の始まりの日です。
 
七夕は盆の行事の一環として、先祖の霊を祭る前の禊(みそぎ)の行事であっ
た。人里離れた水辺の機屋に神の嫁となる乙女が神を祭って一夜を過ごし、翌
日に七夕送りをして、穢れを神に託して持ち去ってもらうための祓えの行事で
あった。盆に先立つ、物忌みのための祓えであった。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P122)
 
それと同時に、七夕は、畑作物の収穫祭のイベントでもあったのです。何とい
っても日本は、自然まかせの農耕民族で、いたる所に神様がいます。収穫祭は、
神様への感謝のお祭りでした。まだ、麦を中心としてあわ、ひえ、芋、豆が主
食の時代ですから、麦の実りを祝って、きゅうり、なす、みょうがなどの成熟
を神様に感謝したのです。この時に人々は、神様の乗り物として、きゅうりで
作った馬、なすで作った牛をお供えしました。それがお盆の行事の盆飾りとし
て、ご先祖様の乗るきゅうりの馬と、なすの牛に引き継がれているのです。
 
これは、私にも飾った記憶があります。こういった収穫祭とお盆を迎える「は
らえ」の信仰が、中国の星の伝説や「乞巧奠」の風習と混ざり合って、今の七
夕の行事ができたのです。しかし、先程もいいましたが、お盆は、8月の民族
大移動の15日前後、というイメージが強いのではないでしょうか。
 
今回、「みそぎ(禊)」と「はらえ(祓え)」が出てきましたが、「みそぎ」
とは、 「身滌(禊)」の略されたものといわれ、身に罪や穢(けが)れがあ
るときや、神様にお祈りするときに、川や海で身を洗い清め取り除くことで、
「はらえ」は、神様に祈って罪や穢れ、災いなどを除き去ることで、神社で行
われ「おはらい」です。本質的には同じことで、「みそぎはらえ」ともいわれ
ているようです。
ところで、「お払い箱にする」という言葉がありますが、そのいわれはこれで、
伊勢神宮が全国の信者に配っていた厄除けのお札を入れた箱を「御祓箱」とい
って、毎年、お札を新しく替えることから、「祓い」と「払い」をかけ、古い
ものを捨てることを「お払い箱にする」といったそうです。何事も訳ありなの
ですね。
 
最近、梅原猛氏の本を読みあさっていますが、この「みそぎはらえ」は、もっ
と血なまぐさい政治上の儀式でもあったようで、何とか10月の神無月までに
結論を出したいとは思っています。哲学者の解き明かす歴史上の事件は、何と
も凄まじく、のめりこむ一方で、藤原鎌足の子、藤原不比等は天智天皇のご落
胤であるとか、「竹取物語」でかぐや姫に求婚する倉持皇子のモデルであると
か、不比等が何やら大きなカギを握っているよう思われ、「古事記」と「日本
書紀」を本棚から引っ張り出し、読むはめになってしまいました(笑)。
「記紀」は読むのに根気がいりますが、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」
(梅原 猛 著 新潮社 刊)と「楽しい古事記」(阿刀田 高 著 角川文
庫 刊)は、古事記に出てくる現地を探るルポルタージュで楽しく読ませてく
れる優れものです。
(次回は「お盆って何の日ですか、ご冗談を」などについてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第9章(1)七夕祭りでしょう 文月

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第32号-
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第9章(1)  七夕祭りでしょう   文 月
 
物の本によると、文月(ふみづき)のいわれは、七夕の短冊に、字がうまくな
るようにと書いてお願いをすることから文月になった、といわれているようで
すが、七夕は、日本で始まったものではなく、中国から伝わってきた行事です
から、これはおかしいとして、稲の「穂含月(ほふみづき)」「含月」からと
する説もあるそうです。
 
★★何といっても七夕祭り★★
7月といえば、何といっても七夕祭りでしょう。
 
 たなばたさま
 作詞 林 柳波   作曲 下総 皖一
  
一、 笹の葉さらさら   二、 五色の短冊
   軒端にゆれる       私が書いた
   お星さまきらきら      お星さまきらきら
   金銀砂子         空から見てる
 
何とものどかで、暑さもふきとぶ、夜空が浮かんできますね。
しかし、今はどうでしょうか。都会では、天の川も、逢瀬を楽しむ彦星も織女
星も、よく見えません。
明かりのせいでしょう。プラネタリウムで見ると、あまりに鮮やかすぎて、イ
メージが壊れそうですね。七夕は、古来、多くの人々に夢を与え続けた祭りの
一つです。万葉集の中にも、星祭りとして七夕を詠んだ歌が残されています。
かの、紀貫之も一首、『新古今和歌集』に詠んでいます。
 
七夕は 今や別るる 天の川 川霧立ちて 千鳥鳴くなり
 
「川霧立ちて 千鳥鳴くなり」、千鳥が鳴くのを、別れを惜しむ織姫の忍び泣
きと詠ったものでしょう。しかし、紀貫之が生きていた時代の田園風景を再現
するのは無理でしょうが、残された和歌の世界で味わえるのは、やはりすばら
しいことで、大切な文化遺産です。
「幾星霜」とはいささかオーバーですが、年月を刻んで受け継がれてきた文化
は、遺伝子として心の中に組み込まれているようで、日本人には和歌や俳句を
作ることではないでしょうか。小学生になると、特に教えなくても、「五七五」
の俳句を作るのですから。
 
さて、その七夕ですが、ご家庭で、短冊に願いごとを書いて、笹に飾り、お祝
いをしているでしょうか。幼稚園や保育園での夏のイベントになっているので
はありませんか。七夕祭りの事の起こりは、中国の星の伝説でおなじみの「織
姫と彦星」の話です。   
 
★★七夕のルーツ★★
中国の歳時記に、こういう話が残されているそうです。
 
天の川の東に織女が住んでいた。天帝の子である。いつも機織りをして、鮮や
かな天衣を織りなした。天帝が独身であるのをかわいそうに思って、天の川の
西に住んでいる彦星と結婚することを許した。しかし結婚した後は、機織りを
しないので、天帝は怒って二人を別れさせ、天の川の西と東に帰らせた。ただ
7月7日の夜だけ、川を渡って逢うことを許したのである。日本で最もよく知
られた七夕の星の物語である。おりひめとひこぼしが愛し合っていながら一年
に一度しか会えないという物語が日本人の共感を呼んで、万葉集の時代から
「星祭」として、七夕にさまざまな思いを馳せたのである。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P134-124)
 
天衣は、“あまごろも”、羽衣(はごろも)のことで、日本でもおなじみの天
女の証です。
「天衣無縫」という四字熟語がありますが、これは、「物事に技巧などの形跡
がなく自然なさまをいい、天人・天女の衣には縫い目がまったくないことから、
文章や詩歌がわざとらしくなく、自然に作られていて巧みなこと。また、人柄
に飾り気がなく、純真で無邪気なさまをいう」(goo辞書より)意味に用い
られていますが、語源は「天衣」なんですね。例によって類似語は、今でもよ
く使われている「天真爛漫」です。
 
ところで、七夕の2つの星、彦星と織女は、どんな星でしょうか。
彦星、牽牛星は、鷲座の1等星アルタイルのことで、地球から16光年の彼方
にあり、太陽の8倍の明るさがあります。
1光年は、9兆4605億キロで、その16倍です。
本当にはるか、はるか、かなたです。
アルタイル星の両側にある2つの星を牛に見立てて「牽牛」と名付けたのです。
面白いことに、あの清少納言も「枕草子」に書いています。 
  
「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばいぼし、すこしおかし。おだになか
らましかば、まいて」
(第二百五十四段 新潮日本古典集 下巻)
 
すばるは、牡牛座にある星団プレアデスの和名、ひこぼしは、牽牛です。ゆふ
づつは、日没後、すぐに西の空に輝く、宵の明星、金星で、よばいぼしは、流
れ星のことです。「尾がなければよいのですが」ということでしょうが、尾は
流れ星が大気圏に突入して、燃えつきる現象です。さすがの才媛も、まだ、ご
存知なかったことでしょうね。
 
織女は、琴座の1等星ヴェガのことで、地球から26光年離れ、明るさも太陽
の48倍もある北天第一の星ですが、もう想像外の明るさと距離です。ヴェガ
と天の川をはさんだアルタイル星が、天の川の中にある白鳥座のデネブ星とで
作るのが、夏の大三角形です。小学校時代に、理科で習ったのでしょうけれど
も、記憶のかけらもありません。
 
この2つの星が、7月7日に際立って、美しく輝きます。それを見た昔の人が、
天の川にさえぎられているために、1年に1回しか会えない、恋人の話に仕立
てたのでしょう。
作者は、何ともロマンチストではありませんか。中国生まれの伝説らしく、ス
ケールが大きいですね。
 
ところで、天の川は、中国や日本の専売特許ではありません。昔から世界中の
人々の注目を集めていました。
 
エジプトでは天のナイル川、インドでは天のガンジス川、中国では銀色の川で
銀河と呼びます。ところが、ヨーロッパでは川ではなく道にたとえられ「乳の
道(ミルキーウェイ)」と呼ばれています。 これはギリシャ神話で、力持ち
のヘラクルスが赤ちゃんのとき、お母さんのおっぱいを力強く吸ったため、こ
ぼれてできたといわれているからです。
(心を育てる 子ども歳時記 12か月 監修 橋本裕之 講談社 刊 P65)
 
★★なぜ、短冊にお願いごとを書くのでしょう★★
こういうことらしいのです。
中国には「乞巧奠」(きこうでん)といって、星祭りの他に、七夕には、大変、
重要な行事があり、こう書いてあるそうです。
 
「7月7日は牽牛と織女が相会する夜だ。夫人たちは7本の針に5色の糸を通
し、庭にむしろをしいて机を出し、酒、肴、果物、菓子を並べて織物が上手に
なることを祈った」 
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P132)
 
これが、そもそもの始まりらしいのです。
牽牛は、牛飼いで畑仕事をし、織女は、機織りです。そこで、男の人は畑仕事
が、女の人は機織りや縫い物が上手にできますようにと、お祈りをするように
なったのでしょう。それが、時とともに、織物の切れ端を、短冊のように切っ
て、笹の葉につけ、歌にあるように「軒端」に出すようになり、それが、今の
ように布から紙に変わり、笹竹は長い竹となり、お願いごとも、裁縫や字が上
手になることよりも、ピアノが上手く弾けるようにとか何とか、何やら、椎名
 誠氏風の表現で恐縮ですが、願望成就希望達成型に変身したようです。
 
しかし、無理もない話です。
お母さん方、針を持って縫えますか。いや、その前に、裁縫箱を持っています
か。裁縫が上手になりたいと思っているお母さん方、いらっしゃるでしょうか。
何ですか、「……ますか、……ますか、……でしょうか」で、頼りのない話で
す。
「良妻賢母」が「料裁健母」と置き換えられた時代がありました。今は、「料
裁健夫」でなければ、お嫁さんにきてもらえないのでしょうか。独身男性が、
増えるわけです。いや、嫁にきてもらうなどと消極的な考えでは、女性に敬遠
されるのではないでしょうか。嫁さんは、自分で探すものです。
 
ところで、なぜ、笹竹なのでしょうか。
 
笹竹は、日本独自の祭り方で、竹は1日に1メートル伸びるといわれるほど成
長が早く、人々は、その秘められたすばらしいエネルギーに願いを托し、天に
届くようにと気持ちをこめたのです。
(絵本百科 ぎょうじのゆらい 講談社 刊 P21)
 
祈るだけではなく、強烈なエネルギーまで取り込んでいるんですね、恐れ入り
ました。
 
余談になりますが、12月に紹介しました妙心寺の沙羅双樹の花、「沙羅の花
をめでる会」が始まりました。会は30日までですが、You Tubeでも楽しめま
す。
(次回は「なぜ、仙台の七夕は、8月なのですか他」についてお話ししましょう)
 

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