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めぇでるコラム : 2016保護者 4ページ目

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第5章 雛祭りですね(3)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第18号-
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第5章 雛祭りですね(3)
 
★★早春賦、いいですね★★
この頃になると思い出すのが「早春賦」です。賦は「詩、歌」のことですが、
なぜか私は、この歌を含めて「春のうららの隅田川」の「花」、「菜の花畑に
入日薄れ」の「朧月夜」、「兎追いしかの山」の「ふるさと」などは、お姉さ
ん達の歌でなくては承知できないと、かたくなに思いこんでいました。小学校
で習った唱歌、どのくらい歌えますか。
                              
 早春賦                    
作詞 吉丸 一昌  作曲 中田 章     
      
 一 春は名のみの 風の寒さや
   谷の鴬 歌は思えど
   時にあらずと 声もたてず
   時にあらずと 声もたてず
 
 二 氷解け去り 葦は角ぐむ
   さては時ぞと 思うあやにく
   今日もきのうも 雪の空
   今日もきのうも 雪の空
 
 三 春と聞かねば 知らでありしを
   聞けば急かるる 胸の思を 
   いかにせよと この頃か
   いかにせよと この頃か
 
格調高い文語体の詩を、現代風に訳した歌詞をブログで見つけました。少し長
くなりますが、紹介しましょう。早春にふさわしい、しゃれた、さわやかな口
調がいいですね。
 
作詞された吉丸さんが立春を過ぎた安曇野の地を歩きながら、遅い春を
待ちわびる思いを詩にしたといいますから、そういう意味では、ちょう
ど今ぐらいの時期を歌ったものだといえます。〔中略〕文語体で書かれた
歌詞を現代風に訳すとこんな感じでしょうか。
題して〔春の誘い〕「いざない」と読んでいただければ……。
 
  一 春というには名前ばかりの風の寒さだね
    谷のウグイスもさえずろうとしているけれど
    まださえずるときではないと声も立てないんだから
    まださえずるときではないと声も立てないんだから
 
  二 氷はとけて消えたし 葦は芽をふくらませる
    さあ春は今だと思ったけれど あいにく
    今日も昨日も雪模様の空なんだ
    今日も昨日も雪模様の空なんだ
  
  三 暦の上で春と聞かなければ知らなかったのに
    聞いてしまうと急がされる気になってしまう この胸の思いを
    どうしろというのかな この頃の季節の進みのじれったさは 
    どうしろというのかな この頃の季節の進みのじれったさは   
  (http://xmas-count-down.com/c01/c4/index.htm) 
 
ウェブで検索した「hideのお茶飲み話」を読んでいると、エロル・ガーナー
の作曲した「ミスティ(Misty)」をイントロに使った、この詩の解説に出
会いました。エロル・ガーナーは、左手のタッチがなんとも強烈で、独特のフィ
ーリングを持つ素晴らしいジャズピアニストです。ジャズのスタンダードナンバ
ーでもある「ミスティ」は、情けない表現で恥ずかしいのですが、本当に美しい
メロディーで、一度聴けば忘れられない名曲です。こういったブログに出会うと、
本当にうれしくなりますね。バックに流れていた、一世を風靡したモダンジャズ
の巨匠、マイルス・デイビスのミュートをかけたトランペットの演奏もご機嫌で
した。
 
★★彼岸と春分の日★★
「暑さ寒さも彼岸まで」、お彼岸は、秋分や春分の日を中心に前後3日間をいい
ます。春分の日を迎えると寒さもこれまで、秋分の日には暑さもこれまで、とい
う気持ちになったものです。お墓参りや、お坊さんに経をあげてもらうなどして、
祖先の霊を供養しますが、これは今も続いています。いいことではありませんか、
お彼岸は春秋の2回です。2回ぐらいお墓参りしないと罰が当たります。ご先祖
様がいたからこそ、「わが人生あり」なのですから。
 
彼岸とは文字通り「向こう岸」ということで、これに対して「こちら側」は此岸
(しがん)という。向こう岸、それは阿弥陀様の住む極楽浄土で、祖先の霊が安
んじているところであり、こちら岸は生老病死の四苦が在る娑婆の世界、すなわ
ち生きている現世をいう。
人は極楽往生をしたいと願い-生死(しょうじ)の此岸を離れて涅槃(ねはん)
の彼岸に至る-によって、彼岸という習俗が生まれてくる。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P90)
 
日本には、正月に初日の出を拝むように、太陽信仰があります。親父は、やって
いました。
朝は東に向かって、夕方も東に向かって柏手打ち、深々とおじぎをするのです。
しかし、親父は東方遥拝といって、確か東の方には、天皇陛下様がおられる皇居
があるからと話してくれましたから、太陽信仰とは違うかもしれません。この後
姿も、明治生まれの黙って生きざまを示す、親父の大きな背中であったわけです。
 
その太陽信仰ですが、春分の日や秋分の日には、太陽が真東から出て真西に沈み
ます。極楽は西にあるという西方浄土を説くには、ぴったりなのです。
    
水の川と火の川を貪(むさぼ)りと怒りにたとえ、この二つの河にはさまれた太
陽の沈む一筋の白い道-二河白道(にがびゃくどう)を、お釈迦さまと阿弥陀さ
まの招きを信じひたすら念仏を唱えながら、死者の魂はやがて西方浄土に達する
のである。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P91)
 
というわけで、彼岸にある西方浄土へ行き着きたい願いと思いから、仏事の彼岸
会(ひがんえ)の行事が生まれました。彼岸会が、人々の心をつかんだのは、念
仏さえ唱えていれば、先祖の霊を慰め、自分も彼岸に到達できるという教えです
から、手続きが簡単で、わかりやすいためでした。偉いお坊さんに、高いお布施
を払わなくても、いいのですから。
五木寛之氏の「連如」や「親鸞」(3部作完成しました)に、この経緯(いきさつ)
がわかりやすく書かれています。
 
こんなことをいうと、お寺さんからお叱りを受けそうですが、戒名って高いそう
ですね。
あれは彼岸に行くためのパスポートで、三途の川の渡り賃は、古来、一律六文、
しかも、印刷された偽物です。だからといって、渡し守の管轄は閻魔様でしょう
が、「偽札は困る」などと、文句のきている話は聞いたこともありません。
 
しかし、信仰に関して私たちは、合理的というか、ご都合主義というか、不思議
で、おかしな民族ですね。東から昇る太陽は日輪といって、あれは天照大神で神
さまです。西には西方浄土の極楽があると信じて夕日を拝む阿弥陀さまは仏さま
です。海原のはるか彼方に「常世の国」が、川上の彼方には「神の国」があると
信じられていました。これでは、仏さまと神さまが共生していることになります。
「困ったときの神頼み」、本気に信じていないのでしょうね。こういう国って、
日本以外にあるのかなと思っていたら、何と、あるのです。
 
平岩弓枝さんの「風よ ヴェトナム」の解説を書かれている井川一久氏によると
こうなのです。
 
「ヴェトナムは、東南アジア唯一の大乗仏教と神道(タンダオ)の国で、北部と中
部の村々には必ずお寺とお宮がある。人々は箸だけで米飯を食い、豆腐と漬物と
緑茶を好み、陶磁器と漆器を愛し、一弦琴や三弦琴(三味線)を楽しみ、旧正月
(テツト)にはお年玉をばら撒く」
 
さらに、NHKの「世界遺産 ヒマラヤの古都カトマンズ」では、何とヒンズー
教と仏教が同居している様子を紹介していたではありませんか。この歳時記は、
筆者の不勉強から不用意な結論が出がちですが、笑って読み流してください。
 
★★おはぎ★★
お彼岸といえば、「おはぎ」です。またの名を「ぼた餅」ともいいます。今のよ
うにお金さえ出せば、食べたいお菓子を食べられる時代と違い、祝い物として、
その時しか食べられませんでしたから、美味しかったのです。もち米にうるち米
を混ぜて炊いて、軽くついてまるめたものを、あんこや黄な粉で包んだものです。
どうしてお彼岸に「ぼた餅」を食べるのでしょうか。
 
「ぼた餅」は、日本古来の太陽信仰によって「かいもち」といって、春には豊穣
を祈り、秋には収穫を感謝して、太陽が真東から出て真西に沈む春分・秋分の日
に神に捧げたものであった。それが、彼岸の中日が春分、秋分であるという仏教
の影響を受けて、彼岸に食べるものとなり、サンスクリット語のbhuktaやパーリ
語のbhutta(飯の意)が、「ぼた」となり、mridu,mude(やわらかい)が「もち」と
なって「ぼたもち」の名が定着したのである。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P97)
 
何とぼた餅は、日本語ではないのですね。            
「牡丹餅と書くのではありませんか」と言われそうですが、これは後の話だそう
です。語源は、サンスクリット語やパーリ語とは知りませんでした。
 
ところで、「ぼた餅とおはぎ」の呼び名の由来ですが、春の彼岸は牡丹の咲く季
節なので「ぼた餅」、秋の彼岸は萩の咲く季節なので「おはぎ」と称されるよう
になったという説もあり、まだ他にも諸説あるようです。私の勝手な解釈ですが、
「ぼた餅」と聞くと胸焼けがしそうですが、「おはぎ」となると、何個でも食べ
られそうな気がします。
 
★★春分の日の昼夜の長さは、同じではありません!★★
「……?」、こうなるのは、私だけでしょうか。これも知りませんでした。春分
の日も、秋分の日も、昼と夜の長さが同じだと、昔、学校で習いました。ところ
が、違うのです。
 
秋分、春分の日には昼夜が同じではなく、実は昼は夜より約16分48秒長いのであ
る。ちなみに昼夜の長さが同じになる日は、北緯35度の地域では3月17日と9月27
日である。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P97)
 
その理由は、日の出、日の入りは、共に太陽の上縁が地平線に達したときをいう
ので、太陽は地平線より下にいることになるのですが、ここに問題があるのです。
何やら難しい解説がなされているのですが、結論だけにしておきます。大気は、
光を屈折するので、太陽は沈んでいても、本当は、真の位置よりも浮き上がって
見えるのです。早い話が、太陽が地平線に接しているように見えても、実際は、
下に沈んでいるので、その差を計算すると、昼と夜は、同じではなくなるのだそ
うです。16分48秒、48秒まで計算できるんですね。ちょっと、疲れる話で
したが、小学生のお子さんのいらっしゃる方は、理科の教科書をのぞいてみまし
ょう。もっとも、とっくの昔に改定されているかもしれませんが(笑)。
(次回は、「3月に読んであげたい本」についてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第5章(2) 雛祭りとお彼岸ですね

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第17号-
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第5章 雛祭りですね(2)
      
★★なぜ、桃の花を飾るのですか★★
雛祭りを楽しんでいる雰囲気の伝わってくる、懐かしい唱歌があります。私に
は姉と妹がいましたから、この気持ちはよくわかります。箱の中から紙に包ま
れた人形を取出し、それを雛壇に飾りつける母やお手伝いさん(当時は女中さ
んといっていましたが)の姿が思い出されます。
作詞家のサトウ ハチローは、この詩の誤りを悔い印税をつぎ込み、買い戻し、
破棄したいと思っていたそうです。その誤りとは、二番の「お内裏様とおひな
様」で、お内裏様は天皇、皇后の姿をかたどって作った一対の人形、おひな様
は雛人形のことですからおかしな表現になり、三番の「あかいお顔の右大臣」
ではなく翁(おきな)の「左大臣」の方だからだそうです。誤ったまま伝えられ
るものは数多くあるようですから、これでいいのではないでしょうか。「男雛
様と女雛様」では、詩人の感性として許せないでしょう。
 
 うれしいひなまつり
  作詞 サトウ ハチロー  作曲 河村 光陽
 
    一 あかりをつけましょ ぼんぼりに
      お花をあげましょ  桃の花
      五人ばやしの    笛太鼓(たいこ)
      今日はたのしい  ひなまつり
 
    二 お内裏様と  おひな様
      二人ならんで  すまし顔
      お嫁にいらした 姉さまに 
      よく似た官女の  白い顔 
 
    三 金のびょうぶに  うつる灯(ひ)を
      かすかにゆする  春の風 
      すこし白酒    めされたか
      あかいお顔の   右大臣
 
    四 着物をきかえて  帯しめて
      今日はわたしも  はれ姿
      春のやよいの   このよき日
      なによりうれしい ひなまつり
 
なぜ、桃の花なのでしょうか。
 
「桃は五行の精なり」といい、桃には古来より邪気を払い百鬼を制すという魔
除けの信仰があった。(中略)中国で殷(いん)の時代に狩猟民族が天意を占
うときに、亀の甲や獣骨に占い字(ト辞・ぼくじ)を刻んでそれを火にあぶる
と、甲羅や骨にひび割れができる。
そのひびの入り方によって古代人は神意を判断して吉凶を占った。そのひび割
れをかたどったのが「兆」という象形文字である。「兆候(きざし)」「前兆
(しるし)」「兆占(うらない)」「兆見(まえぶれ)」などのことばからも
わかるように、兆は未来を予知するかたちを表している。「桃」は兆しを持つ
木とされ(中略)、未来を予知し、魔を防ぐという信仰が生まれたのである。
したがって鬼退治物語の主人公は、柿太郎でもなく梨太郎でもなく、桃太郎で
なければならないのである。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P79) 
 
桃の木には、たくさんの実がなり、魔を防ぐと信じられていましたから、桃の
花を供え、子宝に恵まれる女の子の幸せを祈ったのです。
 
さらに訳ありなのは、桃太郎の家来が、猿と雉と犬であることです。「犬猿の
仲」といわれるほど仲の悪い犬と猿が家来となって、うまくいくはずはないの
ですが、間に鳥がいるから大丈夫なのです。十二支にも「申(さる)・酉(と
り)・戌(いぬ)」と間に酉が入って、けんかをしないように配慮されていま
す。「和をもって貴しとなし」ではありませんが、「聖徳太子の教えが、ここ
にも生きているぞ!」と一人で悦に入っています(笑)。
〔注〕 十七条の憲法 
一曰 以和為貴 無忤為宗
「一に曰く 和を以って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗
(むね)とせよ」  
(和を何よりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい)
    (フリー百科事典〔ウィキベディアWikipedia〕より)
 
ところで、斑鳩の里にある法隆寺といえば、仏教を広めた聖徳太子の業績をた
たえるために建立された寺院であると思っていたのですが、哲学者、梅原猛氏
の「隠された十字架=法隆寺論」(新潮文庫 刊)には、一族を皆殺しにされ
た太子の怨霊を鎮めるために建てられた寺であることが明らかにされています。
夢殿にあった白い布で包まれた秘仏を、フェロノサ(明治時代に来日したアメ
リカの日本美術研究者)などの要請で開扉したところ、光背が頭の後に釘で打
ちつけられ、胴体が空洞でつり下げられている救世(ぐぜ)観音像が出てきた
そうで、ここから氏の怨霊説が生まれたのでした。読んで驚くことばかりです
が、哲学者の妥協を許さない鋭い明察は、歴史学者にはない魅力にあふれてお
り、すっかりはまりこみ、読みあさっています(笑)。
(注 光背 仏像の背後につける光明を表す装飾で、どのような仏像も、足元
の台座から支えを伸ばし、仏像の頭部まで持ち上げられている)
 
★★左近の桜、右近の橘って?★★
なぜ、雛壇に桃だけではなく、桜と橘を飾るのでしょうか。雛壇に向かって右
に桜、左に橘を飾りますが、これは京都御所にある「左近の桜」(御所に向か
って右側)「右近の橘」(向かって左側)を表しているそうです。京都の冬は、
昔から雪こそあまり積もりませんが、底冷えをする寒さは厳しく、禁中に仕え
る者は、古くから左近の桜のつぼみのふくらむ様子を眺めながら、春を待って
いました。
 
京都御所の紫宸殿の東側に桜、西側に橘が植えてあり、左近衛府の官人は桜の
木から、右近衛府の官人は橘の木からそれぞれ南側に整列して宮廷の警護にあ
たった。桜と橘はいわば、宮廷の門と同じ役割を果たしているのである。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P85)
 
官人とは天皇を守る近衛兵のことですが、お雛さまを飾るモデルは、京都御所
なんですね。
五段目には、おかしな顔をした傘と笠と沓を持った三仕丁を飾りますが、その
左右には、宮廷の門と同じように桜と橘を飾ります。その上の四段目には、向
かって右に左大臣(老人)、左に右大臣(若者)を飾りますが、唐の文化の影
響が、そのまま身分の上下となって表れているわけです。  
 
橘は、みかんの古称で、日本では万葉の時代から和歌に多くうたわれている馴
染み深い木の一つで、黄色い実が魔除けになるともいわれています。大昔より
日本に自生している常緑樹で、冬でも緑を失わないその姿と、見栄えのある美
しい果実、そしてかぐわしい香が、古くから尊ばれてきたのでした。また、神
の化身とされる蝶の幼虫が育つことで、神代と世俗を結ぶ神の依代(よりしろ・
心霊が招き寄せられて乗り移るもの)と考えられていました。
(http://www.e87.com/selection/sp_hina/colum_04.htmlより)
 
橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の樹
         万葉集 6(1009)
(注 枝“え” 常葉“とこは”)
 
「橘の木は、実も花も、その葉も、そして、その枝までも、霜が降ってもびく
ともしない。いつまでも葉の落ちない木だこと」と、万葉集にも歌われていま
すが、常葉の樹(常緑樹)の中でも、生命力の豊かな木であることがわかりま
す。何事も訳ありですね。
 
ところで、中宮和子が帝と初めて花見をしたのは、この左近の桜です。その折、
帝に献上したのが、在原業平をモデルとした押絵でした。見事なできに感激し
た帝が色紙に書いた和歌は、在原業平の世の中に
 たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
でしたが、その後、様々な事件が起き、帝も退位し、女帝興子の誕生となりま
す。帝の心中を推し量れば、「世の中にたえて徳川のなかりせば……」ではな
かったでしょうか。
 
若い皆さん方には馴染みのない作家かもしれませんが、文芸評論家、小林秀雄
の弟子で、60歳過ぎてから小説を書いた偉才、隆慶一郎の絶筆となった未完
の作品に「花と火の帝 上・下」(日経文芸文庫 刊)があり、25年の暮れ
再版され読むことができ感慨無量でした。家康、秀忠の横暴に毅然と立ち向か
った後水尾天皇とそれを支えた和子の様子が、猿飛佐助、霧隠才蔵などで組織
された「天皇の隠密」という奇想天外な応援を得て、徹底抗戦する展開になっ
ていましたが、完結することなく世を去ってしまいました。奇想天外というと
荒唐無稽と誤解されそうですが、昨年の正月に放映された「影武者徳川家康」
と同様、史実に基づいた着想からなり、一気呵成に読まされてしまう傑作で、
最後がどうなるかまるで想像もつかないだけに残念でなりません。宮尾登美子
さんと違った帝と中宮を知り、梅原猛氏と同様、歴史の謎を究明する鋭い洞察
力に脱帽するばかりで、1989年没、享年66歳、隆慶一郎のあまりにも早
い旅立ちに、無念の思いを禁じえませんでした。
 
血圧が上がるといけないので心を静めるとして、桃も桜も橘も、日本の春を静
かに語っているように思え、心は落ち着き、いつまで見ていてもあきませんね。
桜については、4月に詳しくお話しする予定です。
 
★★なぜ、菱餅は、赤、白、緑なのですか★★
菱餅を見ていると、積もっていた雪も少しずつとけはじめ、雪の下で寒さに耐
えながら、春を待っていた木の葉や草の緑色が、ほんのわずかながら姿を見せ、
早春の息吹を感じることのできる、そんな情景が浮かんできます。咲き始めた
桃の花に、春の淡雪がうっすらと積もる初春の雪景色、その白と緑と赤の鮮や
かなコントラストに、「日本って、いいなぁ!」と日本人であることにしみじ
みと感謝したくなります。菱餅は、初春を待つ人々の心を見事に表していると
思いませんか。本当のところはどうなのでしょうか。
 
菱餅の赤、白、緑の三色は、赤は桃や紅花で色づけしたもので魔除けを、白は
清浄を、緑は独特の香りのある蓬(よもぎ)で、体に悪いものを外に出す働き
があり、薬として使われていたので健康を表しているのだそうです。雛壇の敷
物が赤いのも、意味ありなんですね。
アカデミー賞の華、レッドカーペットは、関係ないでしょうね(笑)。
また、どうして形が「菱形」かですが、餅に入っている菱の実の葉が、菱形を
しているからではないかと思うのですが、これは私の独断ですから間違ってい
るかもしれません。
菱餅を飾る理由は、インドの仏典の説話に、竜に菱の実を捧げたところ娘の命
を救った話
があり、そこから「菱の実は子どもを守る」という言い伝えが生まれたからだ
そうです。
この菱を、茹でて食べたことがあります。戦後の食糧事情は最悪で、食べ物が
なく、さつま芋のつるまで食べました。レストランなどで豪快に残しているの
を見ると腹立たしくなるのは、幼児期に飢餓の経験があるからです。今でもア
フリカなどでは、飢えで死んでいく子ども達がたくさんいて、写真で見た子ど
もたちの目を忘れることはできません。食べ物がないのは、空腹感を満たすた
めに心が卑しくなり、辛くて、悲しいものです。「衣食足りて礼節を知る」は、
昔々の話になったようです。
 
★★ひな祭りのごちそう★★
女のお子さんがいる家庭では、必ず頂く蛤(はまぐり)のお吸い物とお寿司で
す。蛤の貝殻は、他の貝とは合わないことから女性の貞節を教え、夫婦の相性
が良いことを願ったものです。女の子のお祝いらしく、彩(いろどり)が華や
かなちらしや五目寿司などに、菜の花やぜんまいのおひたし、たらの芽のてん
ぷらなど、春の旬の食材が花を添えます。先に紹介した菱餅の他に、干した米
を煎った雛あられ、元は桃の花を酒に浸した桃花酒でしたが江戸時代頃から飲
まれるようになった甘い白酒、塩漬けの桜の葉で巻いた上品な香りが何ともい
えない桜餅などが、雛祭りのごちそうの定番でしょう。この桜餅ですが、甘い
物が苦手な私でも長命寺餅は頂きます、絶品ですね。ちなみに関西では道明寺
餅が有名です。
 
★★桃源郷は、どこにあるのでしょうか★★
桃といえば、この話を忘れることはできないでしょう、桃源郷です。陶淵明の
書いた「桃花源記」にある理想郷は、桃の花が咲き乱れる桃源郷として描かれ
ています。魔除けの力を秘めた霊木であり、不老長寿の仙薬(飲むと仙人にな
るという薬から転じて効き目が著しい霊薬のこと)と信じられていた桃の花ゆ
えに、納得できますね。「桃花源記」の原文は手に負えませんが、こういった
古典文学には、小学生の高学年用に書かれたものがあり、時々、図書館の子ど
も部屋におじゃまして、「変なおじさん!」といった目を気にしながら読んで
います(笑)。
 
【桃花源記(作:陶淵明)の話の概略】(抄訳)
 中国太元の時代、武陵に一人の漁師がいました。
 ある日、小舟をあやつり漁に出たのですが、見覚えのない所に来てしまい、
あたり一面に桃の花しか咲いていない林を見つけたのです。甘美な香りを漂わ
せ、美しい花びらが舞っているではありませんか。見とれていた漁師は、林の
先を突き止めたくなり奥まで船を進めました。林は水源のあたりで山につきあ
たったのです。そこに小さな穴があり、中へ入っていくと、突然、景色が開け、
土地は四方に広がり、立派な建物や滋味豊かな田畑が見渡せました。鶏や犬の
鳴き声が聞こえ、そこにいる人々は、異国人のような装いをし、
みんな楽しそうでした。
 ぼんやりと立っている漁師に気づいた人々は驚き、どこから来たのか尋ね、
ありのままに答えると、一軒の家に案内され、お酒やご馳走でもてなされたの
です。人々が言うには、
「私どもの祖先が、妻子ともども一村の者たちと秦の世の戦乱を逃れ、この絶
境に来てから、一度も外に出たことがないので、よその人とまったく関わりを
持たなくなってしまったのです。ところで、今は一体、どういう時世なのです
か」
と、漢はもちろん、魏、晋のこともわからないのです。漁師が詳しく説明する
と、みな感に堪えないように聞き、家から家へ連れていかれ、どこでも歓待さ
れるので、4、5日滞在したのでした。
 やっと村を去る日が来たとき、「私どものことは言うほどのこともありませ
んから、よそ様にはお話にならないでください」と懇願するのです。しかし、
途中に目印を残しながら帰ってきた漁師は、家に着くと、さっそく郡の太子の
もとへ行き、この話をしました。興味を覚えた太子は、案内をさせましたが、
目印はおろか、前に行った道さえ見つかりません。この伝えを聞いたある君子
が、その仙境へ行こうとしましたが、その志を果たさぬ内に病で世を去り、こ
の後、再び訪ねようとする者はいなかったということです。
この話から「武陵桃源」「桃源郷」は仙境の意に使われ、転じて理想郷の意となっ
たのでした。
   生きる心の糧 中国故事物語 Ⅳ  駒田 信二・寺尾 善雄 編
                           河出書房新社 刊
 
人はだれしも秘密を持つと黙っていられなくなるようです。浦島太郎も乙姫さ
まとの約束を守れず、おじいさんになってしまいました。これも人間の性(さ
が)でしょう。
 
山の奥深くに、海の底に、理想郷を夢見るのは子どもではなく、いい年をした
大人、しかも男性に多いともいわれていますが、かくいう私もその一人です
(笑)。分別のある女性はばからしくて興味がないようですが、それだけ現実
的なのでしょうね。桃源郷は、誰しもが心の隅に描きたくなる「かくありたい、
ささやかな願い」ではないでしょうか。残念ながら実生活でも、ささやかな願
いは、かない難くなっているようです。
(次回は、「お彼岸」などについてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第5章(1) 雛祭りとお彼岸ですね  弥 生

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第16号-
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第5章(1) 雛祭りとお彼岸ですね  弥 生
                   
暦の上での春は、三月からです。
物の本によると、「春」の読み方は、万物が「発(は)る」(発する)からと
いう説が有力ですが、草木の芽が「張る」、天候の「晴る」、田畑を「墾
(は)る」などの説もあるそうです。
弥生(やよい)のいわれは、この頃になると、草木がいよいよ生い茂ることか
ら、「草木がいやおい茂る月」が詰まり、「弥生」になったといわれています。
 
★★五節句のおもしろい特徴★★
三月といえば、何といっても雛祭りです。雛祭りは、言うまでもなく女の子の
節句です。        
節句は一年間に五つあるので五節句と呼ばれ、正しくは「神と一緒にあること
を表す節供」だそうですが、ここでは使い慣れている節句としました。
 
五節句を決めたのは江戸幕府で、古来、宮中で行われてきた年中行事から5つ
選んだものです。
一月七日は人日(じんじつ)、陰暦の正月七日のことで、七草粥を食べる日か
ら別名「七草の節句」。
三月三日は上巳(じょうし)、お雛さまを飾る日から別名「桃の節句」。
五月五日は端午(たんご)、鯉のぼりや兜を飾り立身出世を願う尚武が添加し
て別名「菖蒲の節句」。
七月七日は七夕(しちせき)、夏の風物詩、七夕飾りをする「七夕の節句」、
別名「笹の節句」。
九月九日は重陽(ちょうよう)、陰暦九月九日の節句で、九は陰陽道では陽の
数とされ、これを二つ重ねた日にあたるので「重陽」といい、別名「菊の節句」
ともいわれています。
五節句は奇数日で、人日を除くと同じ数字が重なっていますが、これも何か意
味がありそうです。
 
 暦の中で奇数の重ねる日を取り出し、奇数(陽)が重なると陰になるとして、
それを避けるための避邪(ひじゃ)の行事が行われ、季節の旬の食物から生命
力をもらい、邪気を払うという目的から始まりました。
(http://iroha-japan 「日本文化いろは事典」より)
        
七草粥には、ご馳走を食べ過ぎた胃を調整する薬草が入っています。      
桃の葉は、薬草です。                      
菖蒲の根を細かく刻んで造った酒は、邪気を払い万病に効くといわれています。
淡竹(はちく)、真竹(まだけ)は竹葉(ちくよう)という生薬で解熱、利尿作用
があります。
菊は、長生きの薬といわれています。
五節句に登場する植物は、すべて薬用で、当然のことですが、やはり意味あり
でした。      
 
「私達の先祖は、薬品を食品化することで、まず日常の食事療法をやり、さら
に労働スケジュールに合わせて、その時期にいちばん必要な薬物を年中行事化
することで、魔除けや信仰として摂取し、健康体を維持できるように、実に巧
妙といっていい、健康管理を行っていたのである。」
(「梅干と日本刀」 日本人の知恵と独創の歴史
 樋口清之 著 祥伝社 刊 P131)
 
五節句は農業スケジュールに合わせて作られ、その時の飲食物は全て薬品なの
です。昔は病気になってから治療するのは大変でしたから、病気を予防するた
めの知恵でもあったのです。当時の農作業、米作りは人海戦術でした。病気を
すると労働力が減り、お百姓さんにとっては一大事でしたから納得できました。
ところで、「怠け者の節句働き」といい、怠け者をあざける言葉があります。
節句の日には仕事を休み、神さまにお願いをする慣わしがありましたが、普段、
怠けていると、この時も田畑で仕事をしなくてはならないことから生まれた言
葉です。農作業は、一日も手抜きが出来ない厳しい作業環境でもあったわけで
す。
 
★★雛祭り★★
昔のお雛さまは、今のように立派な飾りものではありませんでした。子どもが
病気にかかると、新しい雛人形を川へ流して、病気が体の外へ逃げていくよう
に、悪いことが起きないようにと、お祈りをしました。流し雛です。
 
室町時代、紙で作った人形(ひとがた)で体をなでて穢れを移し、川や海に流
すことで無病息災を祈った「流し雛」という風習と、ひいな遊び(人形遊び)と
が結びつき、貴族の間で人形を飾り、祀(まつ)るようになったと考えられて
います。
       (http://iroha-japan 「日本文化いろは事典」より)
 
子どもの頃に見た覚えがあります。米俵の両端にあるわらで編んだ丸いふた
「さんだわら」の上に、紙と土で作った雛人形を、あられや菱餅、桃の花と一
緒にのせて川へ流したもので、東京では「さんだらぼっち」といいます。今の
ように部屋に飾って、お祝いをするようになったのは、徳川家康の孫の東福門
院が、子どものために作った座り雛が、その始まりといわれています。
                                    
東福門院は、名を和子―彼女は徳川二代将軍秀忠の娘として生まれた。徳川幕
府の婚姻による朝廷懐柔策のため、元和6年(1619)に、14歳で後水尾
天皇の中宮として入内し、3年後に皇女興子(おきこ)が生まれた。(中略)
寛永6年、幕府と朝廷が反目するなかで起こった紫衣事件および春日局事件の
ため、後水尾天皇は、譲位を決意(中略)、6歳の興子内親王(明正天皇)に
譲位され(中略)、平安時代以来絶えてなかった女帝の出現である。中宮和子
は興子が健やかに育ち、美しい花嫁になって嫁ぐ日を夢見ていたのだが、天皇
になってはもはや結婚できないであろうと、興子の幸せを夢に描いた押絵の掛
軸を作った。モデルは美女の代表・小野小町と美男として名高い在原業平とい
う夫婦の座り雛である。(中略)それが現在の雛のはじめといわれている。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P72-73)
 
少し解説を加えますと、秀忠の妻、江(ごう)は、織田信長の妹、お市の方の三
女、長女、茶々は秀頼の母淀君、次女の初は京極高次の妻。
入内とは、中宮、皇后などが正式に内裏へ参内すること。
紫衣(しえ)事件とは、僧侶が勅許により着ることを許される紫衣を幕府が授受
を規制する制度を設け、後水尾天皇が許可した大徳寺の沢庵和尚などの紫衣の
着用を無効にした事件。
春日局事件とは、家光の乳母お福は、天皇や皇后に謁見できない身分にもかか
わらず、中宮和子に会うため強引に参内、中宮から「春日局」という局号を授か
った事件。
押絵とは、羽子板にみられるように、花鳥、人物などを厚紙でかたどり、きれ
いな布でくるみ、中に綿を詰めて高低をつけ、板などに貼り付けたもの、掛軸
の雛は、向かって左に業平、右に小町が描かれています。
  
雛人形の始まりが、美男、美女の代表であるとは、いかにもお雛さまらしいで
すね。雛人形が飾られるようになったのは、文化文政時代を経て天保
(1830)の頃からで、宮中から武家社会、裕福な商家や名主の家庭、そし
て町人社会へ広まり、現在のような豪華な雛壇が作られるようになったのです。
 
平成21年のNHK大河ドラマは「天璋院篤姫」の原作者、宮尾登美子さんの
作品に、お雛さまの始まりとなった中宮和子(まさこ)を描いた「東福門院和
子の涙」がありますが、
紫衣事件や春日局事件の経緯、内裏と大奥の習慣の違い、京都と江戸の文化の
違いに苦労された和子の姿が、侍女の目を通して冷静に描かれています。
「天璋院篤姫」では、その苦労を皇女和宮が味わうことになり、従来、天璋院
は和宮の姑の立場から意地悪姑と捉えられがちでしたが、女性の眼から見た徳
川幕府の崩壊していく様子を描く優れた歴史小説で、二つの作品を読むと、朝
廷と幕府の関係、やがて迎える明治維新の火種が、徳川幕府初期の頃から、随
所にまかれていることもわかります。この年から、なぜか、大河ドラマを見る
ことになってしまいました(笑)。
 
22年の「龍馬伝」は、「天璋院篤姫」の後半の世界と重なり、「篤姫」と同様、
最後まで見ましたが、関が原の一戦で敗れた島津、毛利の両家の祖先の怨念が、
勝者の徳川家を倒した戦いで、「国を変える」と叫び走り続けた竜馬が、歴史の
波に押し流され舞台から消えた後に明治維新がなり、再び天皇家が政治の表に
登場し、損をしたのは会津藩の松平家であったわけです。
 
23年は、秀頼に嫁いだ千姫、三大将軍家光、次男の忠長、女帝興子の母であ
る和子の母君を主人公にした「江」でした。姉の茶々、淀君は豊臣家に、妹の
江は徳川家に嫁ぎ、姉妹の母親であるお市の方が前田家に殉じたように、淀君
は秀頼と共に世を去りますが、江は三度も結婚し、女帝の祖母にもなる波乱万
丈の生涯を送ります。天下布武を旗印に基礎を作ったのは信長、統一したのは
秀吉、磐石の体制を作り治めたのは家康ですが、織田家の血が脈々と流れてい
るのには驚かされますね。原作、脚本は「天璋院篤姫」を手がけた田淵久美子
さんで、史実と違った解釈が、なぜか新鮮な感じがして、これまた最後まで見
るぞと意気込んでいましたが、江も秀忠も立派過ぎて、途中でリタイアしまし
た。諸田玲子さんの「美女いくさ」(中央公論社 刊)と同様、江のキャラク
ターを変え、信長、秀吉、家康、秀忠の果たした歴史的役割も、簡潔に整理さ
れていましたが、永井路子さんの「乱紋」(文春文庫 刊)、澤田ふじ子さんの
「無明記」(「寂野」に収録 徳間文庫 刊)、テレビでも放映されましたが
大胆な発想に度肝を抜かれた隆慶一郎の「影武者徳川家康」(上中下 新潮文
庫 刊)などの作品に感化され、なじめなかったためでした。
 
余談になりますが、江の長女、秀頼の正室である千姫を主人公にした澤田さん
の「千姫絵姿」(新潮文庫 刊)は、女性でなくては書けない傑作で、「吉田
御殿の魔女」などおもしろ、おかしく伝わる話と違い、納得できる人物として
描かれた傑作です。その千姫の墓は、左甚五郎が魔除けのために置いた「忘れ
傘」でも知られる、知恩院にあります。
 
ここまで篤姫から始まった大河ドラマは、何らかの関係があったのですが、
24年は趣向が変わり「平清盛」、久しぶりに骨太の歴史物語を楽しみました
が、視聴率はあまり芳しくなかったようです。
そのためかどうかわかりませんが、25年は「八重の桜」で、再び篤姫の時代
に戻り、会津藩が登場しました、松平容保です。澤田ふじ子さんの作品に、薩
摩藩と会津藩の怨恨、うらみつらみの凄まじさを書いた「葉菊の露」(上下 
中央文庫 刊)があり、どうしても悲劇的な物語になりがちですがさらりとか
わし、「幕末のジャンヌ・ダルク」の時期はテンポもよく面白かったのですが、
新島襄と出会い同志社大学設立の頃からまどろっこしくなり、美形の八重さん
では無理でしょうが「天下の悪妻」といわれたイメージもなく、「日本のナイ
チンゲール」まで印象付けることはできなかったようです。
 
昨年は「軍師官兵衛」、信長、秀吉、家康の時代へ逆戻り。官兵衛がみた3人
の英雄を、それぞれの役者が見事に演じ見応えがありました。「織田がつき 
羽柴がこねた天下餅 座りしままに食うは徳川」といった狂歌がありますが、
まさにその通りの展開でした。寺尾聰の扮した家康、父親の名優、宇野重吉に
似てきましたね。イスラム国のテロ事件、宗教が争いの元だけに悲惨ですが、
日本でこの種の争いが起きにくいのも、誤解を恐れずに言えば、3人の合作し
た天下餅によるところが多く、政教分離の発端となったのが信長の比叡山の焼
き討ち、後を継いだ秀吉が検地と刀狩で武士と農民を分け米による国家経済の
基礎を固め、家康が士農工商の階級を作り、禁中並公家諸法度などで天皇と公
家を政治から切り離し、武士が天下を支配する徳川幕府が誕生、まさに信長の
構想であった「天下布武」が実現したわけです。
今年は、再度「篤姫」の時代に戻り、徳川体制が崩れ大政奉還に至る過程を描
く「花燃ゆ」ですが、吉田松陰は絵になりにくく、かったるい気持ちで見てい
ます。「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」、
高杉晋作の作と言われていますが、晋作に何とかしてもらいたいものです(笑)。
 
ところで、徳川家の家紋は、水戸黄門の印籠でおなじみの葵ですが、三代将軍
家光の乳母、春日局の生涯を描いた澤田さんの小説「江戸の鼓」の中で、その由
来が明かされています。
 
 葵紋は京都、賀茂神社の神紋。同社は遷都以来、天皇に敬われ、伊勢大社を
もしのぐ大社になり、その神文は尊く、天皇家すらはばかりを持つようになっ
た。徳川家康がこの葵紋を家紋に決めるについては、かなりの政治性がうかが
われる。単に徳川家の遠祖松平氏が、賀茂神社の氏子で、賀茂信仰によるもの
だとはとても考えられない。天皇家をもはばからせる政治的権威の必要からだ
ろう。
  (江戸の鼓 春日局の生涯 澤田ふじ子 著 徳間書店 刊 P102)
 
「天皇家をもはばからせる(遠慮させる)」のが、家康の野望であることがわかり
ます。歴史に「イフ」はありませんが、もし、中宮和子に授かった高仁親王が
順調に育っていれば、公武合体は成立し、畏れ多くも天皇家に織田家と徳川家
の血が流れ、明治維新は違った形で回天したのではなかったでしょうか。
そして驚いたのは、現在の雙葉学園の前身である「雙葉会話女学校」は、学校が
創設された赤坂葵町の葵にヒントを得て校名とし、一本の茎の先に二枚のハー
ト型の葉をつける「ふたば葵」の図案を校紋としたことでした。キリシタンを
禁止し迫害した徳川家と同じ紋であるとは、何とも不思議に思いませんか。
 
宮尾さんと澤田さんの著作には、いつも頭の下がる思いで読んでいますが、十
二代市川團十郎が亡くなった時、父である十一代團十郎をえがいた「きのね」
を再読しましたが、奥方の壮絶な生きざまを、ここまで赤裸々に描いた宮尾さ
んの作家魂には、寒気を覚えるほどでした。作家、檀一雄の娘である檀ふみさ
んの解説もすばらしく、一読をお勧めしたい一冊です。なお、十二代市川團十
郎が亡くなったのは、平成25年2月3日でした。
 
話を本題に戻して、雛壇には、お内裏さま、三人官女、五人囃子、右大臣、左
大臣、おかしな顔をしている三人仕丁(じちょう―雑役係)、菱餅、あられ、白
酒、桃と橘の花に、いろいろな生活用品が飾られています。女の子が、やさし
いよい子に育って、幸せになるようにとお願いする日ですから、飾りものも女
性ムードいっぱいで、夢があります。人形が主役ですが、下の方に飾ってある、
あのゴタゴタとした所帯道具も、いいではありませんか。タンス、鏡台、長持
ちから牛車、駕籠(かご)までそろえているのもあります。新婚さんの望まし
い嫁入り道具一式で、昔の女の子が描く幸せな青写真を、雛壇で表しているよ
うな気がして、ほほえましくなります。
                   
★★男雛と女雛、右ですか、左ですか?★★   
女の子がいない家庭では見られませんが、デパートに行くと、豪勢なものが飾
ってありますから見てほしいのです。地方によって、男雛と女雛の位置が違い
ます。東京など関東地方では、男雛が右側(向かって左)に、女雛は左(向か
って右側)に飾りますが、京都や奈良の関西地方では、男雛が左で女雛は右と、
逆に飾ってあります。
関東方式は、昔中国では、「右がすぐれている」という考えがあったからです。
右には「貴い」、「尊敬すべき」、「大切な」など、左には「卑しい」、
「低い」、「正しくない」などの意味があり、「右腕」や「右に出る」、
「左遷」や「左前」は今でも使っています。ところが、唐の時代に左右が逆転
し、左上位になったのです。
 
日本の文化は唐の影響を受け、平安時代に確立した日本の制度は左優先となっ
た。左大臣は右大臣より上席であり、左近衛大将は右近衛大将より上級である。
(中略)左上位は唐から宋へ受け継がれたが、元の時代に逆転し、明清の時代
に再々逆転し、左上位の順位が引き継がれている。
(年中行事を「科学」する  日本経済新聞社 刊 P75)
 
もっとわかりやすいものがあります、結婚式の披露宴を思い出してください。
新郎は向かって左側に、新婦は向かって右側に座っていますが、これにも確か
な意味があります。日本の結婚式は、昔から男子が家を守っていく、男子優先
で行われてきたからです。関西方式は、天皇家と関係があります。
 
 天皇は、『天子南面』という言葉が示すように、紫宸殿の玉座に北を背にし、
常に南の方をむいて座られた。すると、天皇の左手が東、右手が西にあたる。
昔は日の出る東が月の沈む西より上と考えられていたから、内裏様を左に飾っ
た。したがって、大臣も左大臣が上席となっている。
(日本の年中行事百科 2 春 民具で見る日本人の暮らしQ/A P25
     監修 石井 宏實 河出書房新社 刊)
(注 内裏様は男女一対の人形のことですから、文中の「内裏様を左に飾った」
は間違いで、正確には男雛です)
 
面白い話があります。太平洋戦争終了後、日本を占領した国際連合軍の中で、
いちばん偉かったダグラス・マッカーサー元帥が、「男雛は向かって右、女雛
は向かって左にしなさい!」と命令したそうです。アメリカやヨーロッパでは、
レディー・ファーストの考えがあるからだと思っていたのですが、ことの起こ
りはヨーロッパで、騎士が戦うときには右手に剣を持ち、左手で婦人を抱える
ことから、左優先になったそうです。
 
ところで、今はどうかわかりませんが、歴史の教科書に、昭和天皇がマッカー
サー元帥を訪問したときに撮った写真がありました。その位置ですが、元帥は
向かって左にいて、「わしの方が偉いのだ」という印象を与えています。この
写真を見て、明治生まれの父は、怒りをあらわにしたものですが、昭和15年
生まれの私は、かなわないなと思いました。
日本のことをよく研究していたからで、奈良や京都の日本の誇る文化遺産を、
戦火から守ったのは、マッカーサー元帥の配慮があったそうです。アメリカは
建国して、わずか二百年有余です。元帥自身が認めたように、極東国際軍事裁
判(東京裁判)は、大きな汚点となりましたが、私達は、敵国の武将が高く評
価した日本の文化、脈々と続いてきた日本の歴史を知り、子ども達に誇りをも
って伝えるべきではないでしょうか。「建国記念の日」でも紹介しましたが、
西暦2015年は、皇紀では二千六百七十五年になります。
(次回は「ひな祭りの 2と桃源郷」についてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第4章 二月に読んであげたい本(2)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第15号-
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第4章 二月に読んであげたい本 2
 
今朝(16日)の新聞に、文部科学省は五輪でメダル獲得が有望な競技を支援するマルチサポート事業で、女子のフィギュアスケーをAランクから最低のCランクに下げたとありましたが、去年の今頃、真央ちゃんが素晴らしい演技を見せてくれ盛り上がっていたのですが。うろ覚えで間違っているかもしれませんが、亡くなったお母さんは「フィギュアスケートは、勝った、負けたではないと思うのです。その人の生きざまをどう氷の上で見せるか、それがフィギュアスケートではないですか」とおっしゃっていましたが、まさにその通りの4分間でした。もう二度と見ることはできないのでしょうか。
 
また目玉ですが、これも面白い話です。
 
◆鬼の目玉◆   松谷 みよ子 著
娘が旅の途中で泊めてもらった家には、若者が一人で住んでいました。毎朝、若者は奥の部屋に出かけ、夜になると疲れはてて戻ってきます。若者のお父さんが豪傑で、悪さをする鬼の目玉をくりぬき取り上げたのです。お父さんが亡くなると鬼が目玉を取り返しにきて、毎日、責め立てていたのでした。
ある日、娘は若者の後をつけ、拷問の場面を見たのです。鬼の大将らしき者が、わめく顔を見ると目がありません。娘が酷い仕打ちを受ける理由を聞いても若者は答えず、退屈だろうから、十三ある部屋で遊びなさいという。ただし「最後の部屋へは入ってはいけない」といわれたのでした。  
娘が最初の部屋を開けると、門松や鏡もちが飾ってある正月の部屋で、小人さんたちが、羽根つきやカルタをして遊んでいるのです。娘も中に入ってみると、小人さんと同じように小さくなり一緒に遊べるのでした。次の部屋は梅が咲きうぐいすが鳴き、次の部屋はおひなさまが飾ってあるというように、一月から十二月までの部屋があったのです。楽しかったので、最後の部屋にも入ると、真っ暗な部屋に桶があり、何かが浮かんでいました。
鬼の目玉だとわかった娘は懐に入れ、帰る途中、小川の側で蛇と出会い、びっくりして、1個、落としてしまうのです。残った1個を持って、お仕置き部屋に飛び込むと、大将の片目に、眼が入っているではありませんか。恐る恐る目を差し出すと、「眼がそろったから、褒美として娘に金の鶏をやれ」と、いったかと思うと、鬼も若者も、部屋も家も、あっという間に消えてしまい、娘は、がい骨がゴロゴロと転がっている山の中に、一人残されていたのでした。        
日本むかしばなし 7 
      おにとやまんば 民話の研究会 編 松本 修一 絵  ポプラ社 刊
 
この十三番目というのがすごいと思いませんか。この作者は、十三日の金曜日が、何の日か知らなかったでしょうね。キリストが、十三番目の弟子であったユダに裏切られ、磔の刑を受けたのが金曜日。アダムとイブが楽園から追放されたのも金曜日。ノアが方舟に乗ることになった大洪水も、降りはじめたのが金曜日。絞首刑の階段が十三段ということも……、これも不思議です。
 
次は笑わせられる話です。
 
◆節分の鬼◆   小沢 重雄 著 
変わったじいさまがいて、節分の日に、女房も子どももいないから、鬼が来ても平気だと、「鬼は内! 福は外!」とやってみたのです。すると、豆をぶつけられて往生しているのに、奇特な方がいるものだと、2匹の鬼がやってきたではありませんか。酒の好きなじいさまは、鬼達にもすすめ、宴会が始まります。ご馳走になった鬼達は、礼をしたいといいます。じいさまは、丁半ばくちが大好きなので、さいころに化けてくれと頼みます。さっそく鬼は化けます。それで、ばくちをするのですから、じいさまのいうとおりの目が出て大もうけをしました。再び宴会に、今度は泡銭をたくさん持っていますから、豪勢なものです。これに味をしめたじいさまは、来年も来てくれと約束をします。しかし、次の年も、その次の年も、鬼は現れません。その内、じいさまは、酒を飲みすぎて死んでしまいました。
 ばくち好きでしたから地獄行きです。そこで、あの鬼達と再会します。鬼達は娑婆(しゃば)のお礼にと、いろいろと手抜きをします。釜ゆで地獄のときは、湯かげんに手心を加え、熱かんまでつけるサービスをするのです。怒った閻魔大王が、「じじいを喰っちまえ!」と鬼達に命じますが、これも手抜きをしてもらい、娑婆に舞い戻り、長生きをしたのでした。
  日本むかしばなし 7
       おにとやまんば 民話の研究会 編 松本修一 絵  ポプラ社 刊
 
どうしたら、こういう発想ができるのでしょうか。
この2匹の鬼には人情があって、それだけにおかしいのです。針の山に登るときは鉄の下駄を用意するなど、地獄の責め苦を、鬼が手抜きする場面は、本当に笑わされます。
しかし、鬼に人情って変ですね。「鬼の目にも涙」といいますから、涙腺を緩めるセンサーが付いているのでしょう。鬼の情けで「鬼情」では、何やら不気味な感じがしますね。
 
この話もおかしいのです。今度は鬼が、博打(ばくち)をする話です。
 
      ◆地蔵浄土◆   おざわ としお 再話
 ある日、おじいさんが、食べようとしただんごを落とし、ネズミの穴に入ってしま
いました。おじいさんが、穴に入っていくと、お地蔵さまがいたので尋ねたところ、
「あっちの方に転がって行ったぞ」
というその口元には、黄粉がついています。おかしいなと思いながらも、探しに行こうとすると、お地蔵さまが、大儲けをさせてあげるから、天井裏に隠れなさいというのでした。
鬼達が来てかけ事をするから、その金をいただくのだという。しかし、天井に上るはしごがありません。すると、お地蔵さまは、私の手に乗り、肩に足をかけ、届かなければ、頭にのって天井裏に隠れなさいというのです。罰が当たると尻込みしますが、鬼達が来ると驚かされ、渋々、隠れます。そして、「私が合図をしたら、鶏の鳴声をまねしなさい」といったのです。
 やがて、鬼達が来て、かけ事を始め、お金がたくさん出たところで、お地蔵さまから合図があり、「コケコッコー」と鳴きまねをすると、鬼どもは一番鶏が鳴いたと勘違いして、夜明けが近いぞとあせってばくちをし、2回目には二番鶏が、3回目には、「三番鶏が鳴いた。夜明けじゃ、帰るぞ!」といい、お金を残したまま消えてしまいました。おじいさんは、鬼達が残していったお金をいただいて大金持ちになったのです。    
 それを聞いた隣の欲の深いじいさん、一儲けしようと出かけ、遠慮しないで、お地蔵さまの体に足をかけて天井に上がってしまいます。ところがです。三番鳥まで鳴くようにといわれましたが、何を勘違いしたのか、お地蔵さまの合図に、「コケコッコー」と鳴きまねをせずに、
「はぁ、一番鳥!」
「はぁ、二番鳥!」
と言ってしまうのです。「この間、おれたちをだました奴だな!」という訳で、鬼たちから散々、痛めつけられ、血だらけになって帰っていったのでした。        
  日本の昔話 ②
    したきりすずめ おざわ としお 再話 音羽 末吉 画 講談社 刊 
 
天井裏に上がるときの、お地蔵さまと正直なじいさまとのやり取りが、おかしいのです。欲深じいさんが、天井に上がるときも、仏さまを仏さまと思わないふてぶてしさが、これまた愉快で、日本人の信仰心をあからさまにしているような気さえします。
お地蔵さまは、本当はお釈迦さまがいなくなった後、弥勒仏が出現するまでの間をつなぐ役をする偉い菩薩さまですが、いつも庶民の身近にいる仏さまです。粋なのです、このお地蔵さまは。
こういう話を作った人って、尊敬できますね。生きることを楽しんでいるではありませんか。お地蔵さままで、舞台に上げるのですから大胆なものです。しかもです、お地蔵さまに、うそをつかせるのですから、傑作ではありませんか。まねをした欲の深いじいさんが、こらしめられるのも、むかし話の定石です。
 
最後は鬼をたぶらかす話で、恐かった鬼ですから勇気がいります。
                                          
◆じいさまとおに◆   水谷 章三 著
 ある秋のことです。
 おじいさんのところへ鬼が来て、畑にできているものを半分よこせという。そこでおじいさんは、「畑の上のものだけもらうから、鬼さんには土の中のものをあげましょう」といって、麦畑の麦を全部、刈り取って株だけ残します。計られたと知った鬼は、次の年の秋には「土の上にできているものを、わしがもらうぞ」というので、おじいさんは「下の半分で結構です」と承知し、鬼が葉っぱを刈り取った後で、大根や芋をごっそりと掘り出したという話です。        
 五月のはなし
  ももたろう 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修 日本民話の会 編 国土社 刊 
 
大らかな話ではありませんか、鬼を手玉に取り、恐い鬼も形なしです。鬼は悪魔と考えられ、病気や災いを起こす疫病神のような存在でしたから、人々の「恨み、つらみ」は相当なものであったと思われます。おじいさんの気持ちが、手に取るようにわかります。           
 
鬼が主人公の話ではありませんが、芥川龍之介の「杜子春」に出てくる地獄の話も忘れられません。仙人になる修行中に、口をきいてはならぬと約束した杜子春が、閻魔大王の前でも話さないものですから、怒った大王は杜子春の両親を連れ出し、鬼どもに散々、むちで打たせるのですが、口をきこうとしません。畜生道に落ちて馬になっているお母さんが、あえぎながらも、「心配をおしでないよ。私たちはどうなっても、お前さえ幸せになれるなら、それより結構なことはないのだからね。大王が、何といってもいいたくないことは黙っておいで」、こう言うのでした。この場面にくると、決まったように涙が出たことを覚えています。子を思うお母さんは、こんなにもやさしいものなのだなと……。
              
幼い子をいじめたり、折かんをしたり、果ては殺してしまう親のいる時代です。地獄に落ちて、同じ責め苦を受けなければ、殺された子は浮かばれません。子どもに罪はないのですから。子どもを育てる心構えは、自分自身でするもので、その人の人生観ではありませんか。わが子のあどけない寝顔を、かわいいと思ったことはないのでしょうか。何ら疑うことなく、安心して眠っている子を手にかけるのは、人として許されない大罪です。
「子は、かすがい」ということわざ、死んでいます。もっとも「鎹(かすがい)」も意味不明の言葉となっているでしょうね。鎹は、二つの材木をつなぎ止めるために打ち込む「コの字型のくぎ」で、そこから「子は夫婦のあいだをつなぎ止める働きをする」という意味です。「豆腐にかすがい」(まったく効果のない、手ごたえのなきことのたとえ)とならないように、親子の絆は、しっかりと結びたいものです。   
 
ここでは取り上げませんでしたが、鬼を人間らしく扱った浜田廣介の「泣いた赤鬼」は、童話とはいえ日本以外に、こういった作品はあるのでしょか。最後の青鬼くんの置手紙には、不覚にも涙がこぼれてきます。お子さんはどのような反応を示すでしょうか。
 
  赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、僕が、この
まま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、
ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事
にしてください。僕はどこまでも君の友だちです。
(「泣いた赤鬼」浜田康介 著 小学館文庫 小学館 刊)
 
百田尚樹氏の「影法師」を読んだ後、頭に浮かんだのは「泣いた赤鬼」の青鬼くんでした。
自己中が多い現代気質では、友達のために自分を犠牲にする気持ちは古臭いと、馬鹿にされるかもしれませんが、読むたびに、わかっていても目頭が熱くなる童話の一つです。
この他に、「ある島のきつね」「よぶこどり」「むくどりの夢」「りゅうの目の涙」などは、学生時代に出会った童話ですが、年を取って読み返しても新鮮な刺激を与えてくれることに驚かされます。こういう時ですね、活字中毒に育ててくれた親父やおふくろを思い出すのは。(感謝)
 
ところで、百田氏の短編集「幸福な生活」は、めくった最後の1ページのわずか1行で、全てがわかるしゃれた構成で楽しませてくれましたが、一つだけ、コロッと騙される作品があり、まるで書評を担当した評論家のごとく、丁寧に読み返し、やっとわかりました(笑)。
また、私も熱狂的なファンであったファイティング原田を主人公にした「『黄金のバンタム』を破った男」、月並みの表現で情けないのですが、またしても感激! 世界最強のバンタム級チャンピオンであったエデル・ジョフレ(ブラジル)の戦績は、78戦、KO勝ち50で、負けたのは2回だけ。この2敗の対戦相手は、いずれもファイティング原田。1960年代の話ですが、今であれば国民栄誉賞でしょう。世界バンタム級チャンピオン、ファイティング原田は、日本人の誇りでした。リングネーム「ファイティング」は、野球の背番号の欠番と同じ欠名扱いで、現役選手が名乗ることはできません。その他に、身長以外は何でも整形できる世界を描いた「モンスター」(仰天!)、この作品と対になっている多重人格者を扱った「プリズム」、悪名高いオオスズメバチの生態を描いた「あらしの中のマリア」、映画化されテレビでも放映されましたからご覧になった方もいらっしゃると思いますが「永遠のゼロ」、出光興産の創業者をモデルにした「海賊とよばれた男」は8月にお話しします。百田氏の肩のこらない話の展開は、若い皆さん方にはわからないかと思いますが、私が学生の頃、面白がって読んでいた「宮本武蔵」や「忠臣蔵」などの講談本と同じで、まっすぐ一本道で気軽に読み切れ、理屈っぽくないのが有難いですね。
 
最後に「春一番」は立春後に初めて吹く南風のことですが、待ち遠しいですね。
 
1959年に民俗学者の宮本常一が「春一番」という言葉で、気象現象を解説したことから、新聞などで使われるようになったそうです。その後、広く一般でも使用されるようになり、今では気象用語になりました。
         (「昭和のこころ」日本の年中行事 So-net ブログより)
 
昨年は3月14日、一昨年は3月1日でしたが、今年はどうでしょうか。
 
  (次回は、「第五章 ひな祭りでしょう 弥生」についてお話しましょう)                                    
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第4章 建国記念日と二月に読んであげたい本(1)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第14号-
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第4章 建国記念日と二月に読んであげたい本(1)
 
★★建国記念の日★★
2月11日は、建国記念の日です。昭和24年(1967)2月11日から、
「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として祝日に定められたものです。
しかし、建国記念日は昭和生まれではなく、明治6年に紀元節として誕生しま
した。紀元節は、日本書紀に記されている、神武天皇が即位され、日本の国が
始まった日と定めた祝日でした。その根拠は、日本書紀第三巻・神武天皇の項
に、以下のようにあります。
 
「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮、是歳為天皇元年」
辛酉(かのとり)の年の庚辰(かのえたつ)朔(ついたち)、一月一日、天皇
は橿原宮にご即位になった。この日を天皇の元年とする。
 
これを根拠として、紀元節は誕生しました。しかし、昭和23年に、紀元節が
戦争の原因になった国家主義や軍国主義を象徴する祝日であったことや、日本
の誕生した日はいつであるか、歴史的な根拠が明白でないことなどから廃止さ
れ、その後、様々な論争が続き,紆余曲折を経て、やっと「の」の一字を入れ
ることで」建国記念の日」ができたわけです。
 
紀元節の根拠は日本書紀にあるとお話ししましたが、果たして正しいのでしょ
うか。暦のことなど研究したことのない私でも、秘密を解くポイントは、「辛
酉(年春正月)・庚辰・朔」にあるのではと推察しますが、暦学的に検証する
と、その根拠は立証されているのですから驚きです。「年中行事を科学する」
(永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P54~65)には、「辛酉・庚辰・
朔」について、西暦紀元前660年は辛酉年、2月11日の干支は庚辰、月齢
はゼロであり、現在、建国記念の日となっている2月11日は、「日本国は神
武天皇の即位をもって建国とする」との日本書紀の記述と一致することが証明
されています。西暦紀元前660年といってもピンと来ないかもしれませんが、
縄文時代です。この歳時記は、筆者の不見識から驚くことばかり出てきますが、
これもまさしく驚きです。計算の方法は難しくて私の手には負えませんが、興
味のある方は、ぜひお読みになって下さい。
 
西暦は、キリスト誕生の年(実は生後4年目)を元年として数える年代ですが、
日本には、先に実証されたと紹介しました日本の紀元を、神武天皇即位の年を
元年とした皇紀があり、平成27年は皇紀、紀元2675年になります。私は
紀元2600年、西暦1940年、昭和15年2月11日生まれですから、自
分の年齢75を下二桁に入れると、今年は紀元2675年であり、西暦では下
二桁に75を足すと、2015年とわかるという便利な年回りになっています。
 
ところで、ご存知のように、日本に残る最古の書物は「古事記」で、第40代、
天武天皇が、わが国に言い伝えられてきた事柄を整理し、語部(かたりべ)で
ある稗田阿礼(ひえだのあれ)に覚えさせ、第43代、元明天皇が太安万侶
(おおのやすまろ)に文字に書かせ、西暦712年に完成したものです。その
8年後の720年に、第44代、元正天皇が年代も入れ詳しく編集したものを
残そうと、舎人(とねり)親王に書かせたのが日本書紀です。ですから、記紀
に書かれている話は、古代の人々が語り伝えてきた話を文字に書き留めた神話
(天地の創造を擬人的に説明し、森羅万象に宿る霊の存在や、民族の祖先の活
動を述べる物語 新明解国語辞典 三省堂)で、一人の人が作った話ではあり
ません。本当かなと思う話もありますが、宇宙の始まりはどうだったか、国は
どのようにして作られたか、人間はどのように生まれたか、そして生きてきた
かを物語るものです。地球という星が、陸と空に分かれて出来ていく様子を描
いた、巻一の「天地開闢(かいびゃく)と神々」は、どうしてこういったこと
がわかっていたのか、不思議に思えるほど科学的で、またしても驚かざるを得
ません。
 
世界の文明が発祥した各地にも、ギリシャ神話、ユダヤ神話、インド神話や数
々の民話などが残されており、民族やその地域の特徴が伝えられていますが、
共通する話の展開に、思わず膝を叩き、考えていることは同じなのだと思うと、
年甲斐もない話でなんですが嬉しくなります。そこに住んでいる人々が作った
神話であるからこそ、価値があるのではないでしょうか。それが民族の持つ固
有の歴史であり文化だと思います。私が心酔してやまない哲学者、梅原猛氏の
「神々の流竄(るざん)」、「葬られた王朝」、「天皇家のふるさと日向へゆ
く」、阿刀田高氏の「古事記を知っていますか」、そして井沢元彦氏の「言霊
(ことだま)・怨霊信仰」「聖徳太子の和の精神」を解説している「逆説の日
本史」など読まなくてはならない本ばかりで、うれしい悲鳴を上げています。
「10月の神無月」で詳しくお話しする予定です、無理かもしれませんが(笑)。
 
今上陛下は、神武天皇から数えると百二十五代目にあたるそうです。先にもお
話ししましたが、今年は皇紀、紀元2675年になります。世界で最も古い歴
史を持つ国であり、古来の文化を単なる歴史の遺産としてではなく、現在まで
生活の中に生かし続けている国はあるのでしょうか。
天照大神を祀る伊勢神宮では、平成25年に20年ごとの式年遷宮が執り行わ
れましたが、持統天皇4年(690)以降、1300年以上、続けられています。
建築方式は弥生建築といわれ、聖徳太子が活躍した飛鳥時代以前のもので、脈
々と受け継がれているのは、「世界広し」といえども日本だけです。
注 式年遷宮 伊勢神宮の内宮と外宮の二つ正宮の正殿などを作り替え神座を
移すこと。
 
日本は、もっとも短く見積もっても二千年ぐらいまで遡ることができます。世
界で二番目に長い国はデンマークで一千数十年、次がイギリスで九百四十年余
り、アメリカ、フランスは二百年そこそこ、中国はたった六十四年。「四千年
の歴史」なんて大嘘ですからね(笑)。
(著者インタビュー 武田恒泰 著 「日本人はいつ日本か好きになったのか」
月刊雑誌 WiLL 12月号(2013年) P144 ワックス出版社 刊)
 
日本人が大切に守ってきた様々な文化を、親が子ども達にきちんと伝えるべき
だと思います。国旗を掲揚し、国家を歌うのも、法律で決められたからではな
く、親が子ども達に、「なぜ、国旗があり、国歌を歌うのか」、きちんと答え
を出してあげたいものです。国のために家庭があるわけではなく、家庭がある
からこそ国が成り立つのではないでしょうか。「個々のアイデンティティは、
家庭で育てるもの」などと何も意気がることではありませんが、幼児期の教育
の原点は、家庭にあるからです。家庭教育の低下を防ぐのは、私たち親、保護
者であることを肝に銘じておきたいものです。世界的な不況や政治の混迷、東
日本大震災や原発問題など、ここ数年元気がありませんでしたが、やっと立ち
上がる兆しが見えてきた今だからこそ、日本に生まれた幸せを、もっともっと
噛みしめ、感謝しなければいけないのではないでしょうか。
 
★★2月に読んであげたい本1 ★★
鬼に関する話はたくさんあります。代表作は「桃太郎」「こぶとり爺さん」で
すが、これはお染みの話ですから紹介するのは遠慮しておきましょう。子ども
に聞かせる話ですから、恐怖感をあおるようなものはあまりありません。節分
ですから、やはり豆まきの話からにしましょう。
 
◆豆をいるわけ◆   谷 真介 著
むかし、まだ鬼があちこちの山奥に住んでいた頃の話です。その年は、春から
日照り続きで、稲は枯れだしました。心配した庄屋さんが、「雨を降らしてく
れたら、一人娘のお福を嫁にやってもよい」と言ったその声を山奥の鬼が聞き、
大雨を降らせたのです。約束を迫られ嫁がせますが、その時、お母さんが知恵
を働かせます。「道に落としながら行きなさい」
と菜の花の種を渡しました。それを足元に落としながら、鬼に連れられて行く
のでした。
翌年の春、菜の花は咲き、それを道しるべに娘は家に帰れたのです。取り返し
にきた鬼にお母さんは、「酒ばかり飲んでいる者にお福はやれぬ!」と迫り、
「もう、飲まん!」と約束をした鬼に、戸のすき間からいった豆を投げ、「そ
の豆を植えて花を咲かせてみろ。その花を持ってきたら、お福をやる!」と言
ったのです。何年も続けましたが、咲くわけがありません。鬼も次第に豆を見
るのが嫌になり、お福の家にも来なくなりました。この話を聞いた村の人達は
鬼が来ないように、いった豆を家の周りにまくようになったのです。
これが二月三日、節分の豆まきの始まりだそうです。
 日づけのあるお話 365日
    二月のむかし話 谷 真介 編著 金の星 刊
 
節分の豆まきは、「いった豆」がキーワードのようです。童話の名作「ヘンゼ
ルとグレーテル」の著者はグリム兄弟ですが、ドイツ人です。菜の花の種をま
く作戦と小石とパンのかけらを目印にした共通の作戦は、面白いではありませ
んか。世界中の童話や昔話を読んでいて、話の筋や仕掛け、舞台装置が、そっ
くりなものに出会うとうれしくなります。その話がほほ笑ましいとなおさらで
す。
 
イギリスの民話にも日本の昔話とそっくりなものがあります。「トム・テイッ
ト・トット」の翻訳ともいわれているそうです。日本の題名は「鬼六」といい
ますが、文句なく面白い話です。
 
◆鬼 六◆
むかし、ある所に、大きくて流れの速い河がありました。その河へ橋を架けて
ほしいと頼まれ、やってきた名人は、一目で難しい仕事とわかり頭を抱えます。
すると、河の中から大きな鬼の首だけが現われ、「橋を架けてあげるから、お
礼にあなたの目玉をくれないか!」
と言ったのです。困りはてていた大工さんは、約束をします。橋は出来てほし
いが、出来れば目玉をあげなくてはと、大工さんは一晩中、眠れません。    
翌朝、行ってみると、何と立派な橋が架かっているではありませんか。喜んだ
大工さんですが、鬼との約束を思い出し、肩を落とします。そこへ鬼が顔を出
し「目玉をよこせ」と言う。どうしたものかと考えていると、「明日の朝まで
に私の名前を当てたら、目玉はい
らないよ!」と言って、また沈んでしまったのでした。大工さんに鬼の名前が
わかるはずもありません。途方に暮れて歩いていると、山奥に入いりこんでし
まい、引き返そうとしたその時に歌が聞こえてきたのです。木陰からのぞくと、
鬼の子ども達が歌っていました。
♪オニロク オニロク オニロクさん
 早く目玉をもってこい
 大工の目玉をもってこい
 橋のお礼をもってこい
 オニロク オニロク オニロクさん♪
大工さんは、それを聞いてほっとし、笑みを浮かべるのでした。   
翌朝、大工さんが河に行くと、顔を出した鬼は、名前のわかるはずがないと自
信満々です。
そこで大工さんは自信なさそうに、「河鬼!」、「橋鬼!」などといって、鬼
を得意にさせておき、最後に大声で、「オニロクー!」と叫ぶと、鬼はブクブ
クと泡だけ残して消えてしまい、二度と姿を現しませんでした。
  子どものための世界のお話
 福光 えみ子 福知 トシ 福井 研介 大江 多慈子 編 新福音社 刊     
 
この話を研究されて、一冊の本にまとめた方がいるほど知られているそうです。
幼児教室でこの話をしたところ、「ドイツで聞いたことがある!」とお父さん
の仕事でドイツに住んでいた子が言ったので、調べてみると本当の話でした。
鬼といえば、てっきり東洋生まれだと思っていましたから驚きました。
 
世界中の民話や童話、昔話を読んでいると同じような話がたくさんあります。
ドイツには、この他に「こぶとりじいさん」とそっくりな話もあります。ノッ
クグラフトンの伝説「こぶとり」です。背中にこぶのあるラズモアという帽子
屋さんが、歌と踊りがたいへん上手だったので、また一緒に遊ぼうと、約束の
証拠に背中のこぶを預かるといって取られてしまいます。 日本では相手は鬼
でしたが、ドイツでは小人さんです。この話を聞いた歌も踊りも下手な、こぶ
のある青年が行くと、あまりにも下手なので、預かっていたこぶをもらってし
まうというところもそっくりです。グリムの作品にも「小人の贈り物」と題し
た同じ話があります。肌の色が、言葉が、生活習慣が、宗教が違っても、人間、
 
考えることは皆、同じなのだと思うとうれしくなりますね。
 
ある年のことですが、教室の人気者であった物知り博士のケンちゃんが、「ど
うして、鬼が人間の目玉を欲しがるのですか」と質問をしたものです。素朴な
疑問ですが鋭い質問です。眼は音読みだと「ガン」です。「鬼六サンのお身内
か友達に、ガンにかかった人がいてね。目のお医者さんを眼科のお医者さんと
いうでしょう。そのガンによく効く薬は人間の眼、つまりガンだから欲しかっ
たのでしょうね」とだじゃれのように説明しましたが、ケンちゃんは「信じら
れない!」といった顔をし、子ども達にも、全然、受けませんでした。子ども
は、こういった疑問には納得しないと絶対に妥協しません。ですから子どもの
前で、いい加減なことを言うと信用をなくします。子どもの疑問にあいまいな
答えは通じません。それだけ純真なのです。純真ということは、探求心が旺盛
ですから遠慮がなく、追求の手をゆるめません。それだけ残酷でもあるのです。
お母さん方が「カッ!」となるのも、こんな時ではないでしょうか。悪気はな
いのです。率直なだけなのです。もっと言えば、その言葉で相手がどう思うか
など考えていないからです。まだそんな時期なのです。大らかに応対してあげ
ましょう。でも、こういった大人が増えていますね。いわゆる「自己中心・ジ
コチュウ」で、相手を思いやる気持ちは爪の垢(あか)程もありません。これ
は率直ではなく、精神年齢は子ども以下ということです。相手を思いやる気持
ちを育むのは、ご両親の育児の姿勢にあるのも間違いありません。子は間違い
なく親の背を見て育つのですから,しっかりと観察されていることを肝に銘じ
ておきましょう。
 
で、結末はどうなったか。「本当は、先生もわからないのよ!」と言ったとこ
ろ、「先生でもわからないことがあるの?」と不満そうでしたが、ケンちゃん
は矛を収めてくれました。(猛省)
 
 (次回は、「第三章 2月に読んであげたい本2」についてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第4章 節分と建国記念の日でしょう 如月(1) 

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第13号-
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第4章 節分と建国記念の日でしょう  如 月(1)   
 
物の本によると、如月(きさらぎ)のいわれは、二月は、まだ寒さが残り、衣
を更に重ね着する「衣更着」からとする説が一般的で、よく知られています。
また、草木の芽が張り出す月「草木張月」が転化したものや、旧暦二月には、
つばめがやって来るので「来更来」とする説もあるそうです。
 
★★二月といったら、節分、豆まきでしょう★★
父が煎った豆の入っている一升舛を持ち、玄関から始めて、すべての部屋の窓
を開け、
「鬼は外!福は内!」とやるのですから豪勢でした。ここまでは、文句なく楽
しいのです。終わって、豆の配分になります。自分の年に1つだけ上乗せした
数だけもらえました。父は40数個あっても、私は10本の指に満たない数で
す。これが不満でした。現代っ子に、この気持ちは理解できないでしょう。煎
り豆など食べていますかね。もっとおいしいお菓子がたくさん出回っています
から見向きもしないでしょうが、大豆は畑の肉ともいわれています。蛋白質は、
動物性より植物性の方が体にいいようですね。
 
しかし、不満を解消する道は残されていました。部屋にまかれた豆を拾って食
べるのは、黙認されていたからです。「汚い!」と思うかもしれませんが、そ
んなことはありません。
昔のお母さん方は、まめに掃除をしていました。廊下などは磨かれたように光
り、たたみも、いぐさの茎に、つやがある程でした。電気掃除機のない時代で
す。ほうきとはたきと雑巾だけで、きれいに掃除をするのですから、すごいも
のでした。夕飯が終わると、皿を持って部屋を回ります。豆を集め、それを食
べるのが楽しみでした。
 
そして、こたつに入って父や母から話を聞くのですが、これも楽しみでした。
テレビはありませんから、頭の中に自前の映像を作りだすのです。真剣に聞い
ていました。今の子どもと比べると、情報量は圧倒的に少なかったはずです。
しかし、自前で映像を作り上げる力、イメージ化は、培われていたような気が
します。鬼といえば、パンチパーマの頭に二本の角が生え、真っ赤な顔に牙が
生え、虎の皮で作ったパンツをはき、金棒を持った、本当に恐い存在でした。
地獄も閻魔さまも信じていましたから、恐ろしかったのです。   
 
しかも電球は、今の蛍光灯のように部屋中を明るくしない、60ワットの少々
暗めの明るさなのです。何だかおかしな表現ですが、電球は、かぶせてある電
気傘の具合で、真下からその近辺だけ照らし、部屋の隅は、ほの暗いのです。
怪談など聞いたときは、夜中に便所へ行けない雰囲気でした。昔の便所は水洗
式ではなく汲み取り式でしたから、快適な生活環境を維持するために、敷地内
のもっとも不便な所にあったものです。母を起こし、ついて来てもらったこと
を覚えています。          
 
ところで、思い出はとかく誇張されやすいものですが、節分の夜に食べた脂が
のった鰯、おいしかったですね。ある女子大学で、魚介類に関して上中下の評
価をしたところ、上は鯛、下は鰯だったそうです。鰯、字からして頼りなさそ
うですが、新鮮な握り鮨は絶品でこたえられません。しかし、柊と一緒に飾っ
てあった鰯の頭、あの臭いには往生しました。
あとで説明しますが、豆も鰯の頭も柊もそれなりに存在理由があったのです。
 
「鰯」は日本人が初めてつくった漢語である。中国の辞典には載っていない。
日本人は鰯が好きで中国人は食べないのかもしれない。イワシは弱い魚だとい
うので、8世紀に早くも日本人が造語した一例である。
(国民の歴史 西尾幹二 著 P107 産経新聞社 刊)
 
本書は、日本の歴史を1万年前の縄文時代から現代までたどった大長編(773
ページ)の労作で、神話を日本の歴史でどのように考えればいいかを模索して
いる私には、示唆に満ちた話があり参考になりました。その中に、いかにして
わが祖先が漢籍を読み下し、漢字をカタカナや平仮名にしたか、その経緯が書
かれており、当時は「阿治(あじ)」「佐米(こめ)」「乃利(のり)」と万
葉仮名のように音読みにしていたのが、この「鰯」だけは初めて訓読みで表さ
れていることから、造語の第一号になったそうです。わが祖先の繊細な感性が
うかがえる話ではないでしょうか。
 
★★節分って……?★★    
文字通り「節」を「分ける」ことです。「節」とは、季節、四季のことですか
ら、季節の移り変わるときという意味です。昔は、月が地球を一周する時間を
もとに作った暦、太陰暦を使っていました。今は、地球が太陽の周りを一回り
する時間を一年とする暦、太陽暦です。その陰暦で季節の区分、その変わり目
を示す日を「節季」といい、立春から大寒まで二十四あったので二十四節気と
いったのです。(詳しくは六月に紹介します)。その中で、立春、立夏、立秋、
立冬は、それぞれ季節の移り変わるときを表した言葉で、季節がジワッと伝わ
ってくるような気がしますが、実感はありません。子どもの頃、立春と聞けば、
「春だ!」と、何やらほのぼのとした気持ちになったものですが、立夏、立秋、
立冬となると、何ら思い出がありません。あとで紹介しますが、立夏は五月六
日頃、立秋は八月八日頃、立冬は十一月七日頃ですから、一ヵ月程早く、実感
がわかなかったのも当然なのです。現代っ子はどうでしょうか。季節感が希薄
になりましたから、季節の息吹を肌で感じることも少ないでしょうが、こうい
った変化に気づかずに過ごすのは、本当は、恐ろしいことではないでしょうか。
 
話を戻して、この立春、立夏、立秋、立冬の前の日を節分といいます。言って
みれば、明日から季節が変わりますから、その前夜祭のことです。しかし、立
春の前の日の節分だけが、なぜか有名になりました。
 
私の勝手な想像ですが、昔の冬は本当に寒く、夜は暗かったのです。今は電気
という便利なものがあり、夜になっても明るく、ガスや電気ストーブ、ファン
ヒーター、床下暖房、エアコンと暖房機器で寒さを防ぎ、寒い外へ出かけると
きには防寒具も完備していますが、昔はこんなものはありませんでした。電気
も石油もありませんし、建物は木造です。勿論、断熱材もありませんし、ガラ
スもなくて紙を貼った障子です。夜は真っ暗で、月明かりが無ければ、それこ
そ鼻を摘まれてもわからない、漆黒の闇です。自然と仲良く共存していました
から、地球の温暖化とはまったく縁がなく、冬は本当に寒かったに違いありま
せん。
春を待つ気持ちは、現代人の想像を越えた強烈な願いであったと思います。
 
そこで立春を迎える前の日に、鬼は悪魔と信じられていましたから、その鬼に
春を取られては一大事と、鬼の嫌いな豆や鰯の頭を刺した柊を玄関に飾ったの
でした。昔の人の春を待つ、必死な気持ちが伝わってきませんか。
 
★★なぜ、節分に豆をまくのですか★★
いろいろな説がありますが、紙芝居で見たこの話が印象に残っています。 
 
むかし、源義経が牛若丸時代に天狗を相手に腕を磨いたといわれた鞍馬山の奥
深くに、人々を苦しめる悪い鬼が住んでいたのです。ある時のこと、困ってい
る人々を救ってあげようと、戦いの神さま、毘沙門天(びしゃもんてん)が現
われ、七人の賢い人、七賢人を呼び、三石三斗の大豆で、鬼の目を打てと命令
されました。鬼は、悪魔と思われていましたから、その悪魔の目を打つことか
ら「魔目」、すなわち「豆」となったそうです。
 
また、「魔」を「やっつける、滅ぼす」ことから、「魔滅(まめ)」に通じる
からだという話もあります。「魔」という字は、鬼が麻の布を被り隠れていま
すね。漢字はよく工夫されていて、成り立ちや字義を調べると面白いことが
わかり、楽しいものです。
 
★★なぜ、豆を煎るのですか★★  
これにも地方によって、いろいろな説がありますが、これから紹介する話と同
じような民話が、大分県の由布岳北麓にある塚原地方にもあり、石段ではなく
塚を作る約束で、面白いことに、その塚が60個あまり残っているそうです。
           (注 塚…一里塚など土を高く持って距離を表す標識)
 
むかし佐渡島に、人民に害を与える鬼が住んでいた。神様が鬼退治にやってき
て鬼と賭けをした。「今夜のうちに金山に百段の石段を作ることができれば鬼
の勝ちにしよう」。鬼は夜更けのうちに九十九段まで石段を築いてしまったの
で、神様は一計を案じて鶏の鳴き真似をすると、鶏は一斉に「東天紅」と声をは
りあげた。鬼は朝になったと思い神様に降参したが、百段にもう一歩のところ
で負けたことを悔しがって「豆の芽の出る頃にまた来るぞ」といって退散した。
神様は豆の芽が出ないように人民に豆をいることを命じた。
[年中行事を『科学』する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P35]
 
この話は、幼児教室に通って来る子ども達に受けると思い探したのですが、原
作は見つかりませんでした。わたし流にアレンジして、毎年このように話して
いました。
 
むかし、金がたくさん取れた佐渡島に、鬼が住んでいました。そこへ、神さま
が鬼退治にきたのです。これがおもしろい神さまで、「今夜の内に、金山に百
段の石段を作れば、おまえの勝ちにしよう」と、鬼と賭けをしたのです。負け
ると佐渡島は鬼の支配下になるではありませんか。いくら神さまでもやり過ぎ
で、誰もが心配します。その心配が、的中するのです。鬼は、夜更けの内に、
何と九十九段まで作り上げました。これでは、誰が見ても鬼の勝ちです。絶体
絶命のピンチ、困りはてた神さまは、「弱ったな、何か方法はないものかな…?」
と何とも情けないことになりましたが、そこは全知全能の神さまです。しばら
く考えていましたが、何と鶏の鳴き声をまねたのです。すると、鶏たちが、一
斉に、「トーテンコー! トーテンコー!」と鳴きはじめました。「トーテン
コー」は、「東天紅」と書き、東の空が紅くなってきたので、「夜が明けるぞ!」
と、鶏たちがみんなに報せているのです。時計のなかった時代ですから、鶏さ
んの鳴声は、目覚まし時計でした。朝になったと勘違いした鬼は、神さまに負
けたと思ったのです。しかし、鬼は、あと一段で負けたのを悔しがり、「残念
じゃが、お日さまには勝てん。豆に芽が出る頃に、また来るぞ!」と捨てぜり
ふを吐いて、逃げたのでした。そこで、神さまは豆の芽が出ないように、人々
に豆を煎るように命令されました。煎った豆から芽は出ません。芽が出なけれ
ば、鬼も来ません。ですから、節分には、煎った豆をまくようになったのです。
 
すると、「どうして、オニは、ニワトリの鳴声を恐がるのですか?」といった
質問があったのです。
「別に、オニはニワトリを恐がっているのではなく、ニワトリが鳴く頃になる
と、お日さまが昇って来るんだよ。オニは、真っ暗な闇の世界に住んでいるか
ら、お日さまが恐いんだなぁ。だから逃げたんだよ」
「それなら、ドラキュラと一緒だ!」
何やらしたり顔でうなずき、納得していました。これは説得できましたが、次
がいけませんでした。
 
「何で、『トーテンコー』なんて、おかしな鳴き方をするのですか?」「トー
テンコー」と鳴かないと、この話は成り立ちませんから困りました。「お日さ
まは東から昇るので、『東天』は『夜明けの東の空という意味だ』といっても
うなずきませんし、『紅』は赤い色で、みんながお日さまを描くとき赤く塗る
でしょう。東の空が赤く染まってくる様子を見たニワトリは、『朝が来た!』
とみんなに報せているのですよ」と説明しても、「なぜ、夜明けにニワトリが
鳴くのですか?」と変な顔をします。
「日本のニワトリは『コケ・コッコー』と鳴きますが、中国のニワトリは『ト
ーテンコー』と鳴き、アメリカのニワトリは、『コッカ・ア・ドゥードル・ド
ゥー!』と鳴くそうだよ」
といっても、アンビリーバブルとばかりに首を傾げるだけでした。話がこじれ
たのは、ニワトリが、夜明けに鳴くのを知らないからでした。
 
「なぜ、ニワトリは、朝になると鳴くのか」、このことです。やはり、子ども
の疑問を追求する目は鋭く、妥協しません。これを説明しなければ、子ども達
は、納得できないわけです。「ニワトリは、鳥目といわれ、暗いところではま
ったく物が見えません。だから、夜になると、イタチなどに襲われる不安があ
るので、夜明けになると、ほっとして、一斉に鳴き出すのだよ」と苦し紛れに
こじつけて話したところ、「なるほど!」とうなずきはじめました。
 
子どもがわかるように話をするのは、本当に難しいですね。実際にやってみる
と、ほとほと困るときがあります。お母さん方は勿論のこと、幼稚園や保育園、
幼児教室の先生方は、何の苦もなくやっているように見えますが、大変だなと
思い、敬意を払うのは、こういう時です。我が子でさえ、「……?」といった
表情が続くと、面倒になって止めたくなりましたから(笑)。
 
★★なぜ、玄関に鰯の頭を刺した柊を飾ったのですか★★
豆まきをしない家がふえているようですから、柊や鰯の頭となると、「…!?」
変な目で見られるかもしれませんね。これもしめ縄と同じで、鬼や悪魔が入ら
ないようにした「おまじない」です。
 
鰯は、冬にたくさん獲れる魚です。昔、女と子どもを食べるカグハナという鬼
は、鰯を焼く煙がきらいで、他の鬼達も生の鰯の頭はくさいですから、いやが
ったそうです。「柊」は、字そのものが寒そうで、冬そのものといった感じが
します。葉にとげがあり、触ると痛くて、ずきずきと痛みます。ズキズキと痛
むことを「うずく」といいますが、この「うずく」ことを別の言い方で「ひい
らぐ」といい、それで「柊」と呼ばれるようになったのです。
 
また、柊のことを別名「鬼の目突き」といって、そのとげが鬼の目を刺すと信
じられ、玄関に飾ったのですが、その行事は今でも残っているそうです。葉の
とげで、鬼の目を突く恐ろしい木のようですが、花を見ると印象が変わります。
とげのある葉の付け根に、匂いのよいかわいい白い小花が咲くからです。
 
話は変わりますが、いわしは「鰯」と書くように、魚は魚偏から出来ています。
しかし、何と木偏の魚がいて、その名を「柊」といい、命名の由来は、鰭(ひ
れ)のところに柊と同じように鋭いとげがあるからだそうです。これが網にひ
っかかるので漁師さんから嫌われていますが、味の程は好評で、塩焼き、干物、
刺身でもいけるとか。ただし、骨が硬く、身も少ないため、市場に姿を現さな
いそうです。宮尾登美子さんの随筆に、「にぎろ」という魚の話が出ています。
大森望氏の解説によると、「にぎろは、ススキ目ヒイラギ科の魚で、全国的に
はヒイラギとよばれているらしく、うちは煮付けで食べていました」とあり、
本文に頁をもどすとこう書かれていました。
 
  ニギロという小魚がよく釣れた。お隣の愛媛県では畑の肥料にするという
が、土佐では、一日干(ひいといぼ)しにして軽く炙ってよし、二杯酢にしてよ
し、ごく親しまれている魚だ。宮家の筆頭伏見宮家の長女として生まれ、大正
天皇妃の候補にもなった山内豊景(土佐山内家十七代当主)侯爵夫人禎子(さ
ちこ)さんは、ニギロの刺身が大好きで、あの小さい、小さい魚を女中さんが
苦労して身を削いでは食卓に載せていたそうである。
    (「生き行く力」 宮尾登美子 著 P215 新潮社 刊) 
 
子どもの頃、瀬戸内海を挟んだ兵庫県は赤穂に住んでいましたから食べたかも
しれません。
 
読むたびに作家魂とは、かくも凄まじきものかを叩きこんでくれた宮尾さんは、
2014年12月30日に、老衰のため逝去されました。(合掌)
 
もっと凄い魚がいます。
何と「猫またぎ」と呼ばれ、漁師に嫌われるどころか、小骨が多いため、猫も
またいで見向きもしないほど無視されていたのが、うなぎに似たあの鱧(はも)
なのです。ところが京都では、骨を食べやすく「骨切り」(高等技術だそうで
す)をし、硬い皮を食べやすく「湯引き」、熱湯にくぐらせ、氷で冷やし、梅
肉やからし酢味噌などで食べ、夏の味覚として珍重されており、祇園祭りに食
べる習慣があるのですから驚きです。
また、日本酒の肴に珍味な海鼠(なまこ)と、その腸である海鼠腸(このわた)
がありますが、最初に食べた人の勇気をたたえると共に、いつも感謝していた
だいています(笑)。
料理も包丁人(料理人)の度胸と工夫、腕次第なんですね。
 
ところで、鬼の嫌いなものは、鰯の臭いと柊とお日さまです。ドラキュラの嫌
いなものは、十字架とお日さまとにんにくです。お日さまと臭いの共通点はあ
りますが、宗教の出ないところが日本的なのでしょう。日本では、神さまと仏
さまが同居していますから、遠慮しているのかもしれません。
 
★★鬼のルーツは…?★★
陰陽(おんよう)五行説、聞きなれない言葉ですが、中国の易学のことです。
宇宙の万物を作り支配する二つの相反する性質をもつ気、陰と陽のことで、積
極的なものを陽、消極的なものを陰としたものだそうです。例えば、日、男、
春、奇数などは陽、月、女、秋、偶数などは陰と考えられ、奇数が縁起のいい
数というのも、起源は陰陽五行説なのです。
 
節分の夜、新しい春を迎えるために、家の隅々から鬼を追い出すが、鬼とはも
ともと冬の寒気であり、疫病であった。すなわち「人に災いをもたらす。目に
見えない隠れたもの」が鬼であり「隠(おに)」と呼ばれていたのである。
 (「年中行事を科学する」 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P51)
 
「鬼」は目に見えないもの「「隠(おぬ)」が転じたもので、陰陽五行説の考
えから、今の鬼が定着しました。
 
ところで、なぜ鬼は、二本の角が生え、鋭い牙を持ち、虎の皮のパンツをはい
ているのでしょうか。陰陽五行説によると、北東方面を「鬼門」と呼び、忌み
嫌われる方角を表す言葉で、恐ろしい鬼は、北東の方角にいると考えられてい
ました。正月に紹介しました十二支では、北東は「丑寅」の方角にあたります。
「丑寅」は牛と虎のことですから、鬼は牛と虎のイメージを持たされ、絵本な
どで見る鬼は、牛のような角と虎のような鋭い牙を持たされ、虎の皮のパンツ
をはいている姿になったわけです。
鬼門は忌み嫌われる方角ですから、京都の北東にあたる比叡山延暦寺は、当時
の都であった平安京を守るための「鬼門ふさぎ」として建てられたのでした。
ちなみに、江戸城から鬼門にあたる上野には、徳川家の菩提寺である寛永寺が
あり、山号を東叡山といい、天下国家の平安を祈り務めるために建立されたも
のです。毎度のことですが、何事も訳ありなんですね。NHKの大河ドラマの
放映以来、訪れる人が増えているそうですが、天璋院篤姫の墓所は寛永寺にあ
ります。
 
この鬼を寄せ付けないために豆や鰯、柊を用いたのは、「追儺(ついな)」と
いう7世紀頃に中国から伝わったといわれている鬼を祓う宮中行事が、近世に
なって民間化されたらしく、疫病神や貧乏神のたぐいを祓うのが目的になった。
そのような意味なら現代にも鬼は存在している。鳥インフルエンザとか世界的
な不況など立派な鬼である。
(2009年2月2日 東京新聞夕刊・文化欄「鬼は外」 司 修 著)
 
鬼と同様、目に見えないだけに、現代人には恐ろしい存在に違いありません。
今年もインフルエンザの猛威にさらされていますが、何とか穏便に願いたいも
のです。被害者は、弱い子ども達であり高齢者だからです。鳥インフルエンザ
は、渡り鳥に予防接種するわけにいきませんから困ったものですが、今のとこ
ろ何とかおさまっているようです。今年も寒波の襲来で世界的に冷え切ってい
ますが、豪雪地帯の雪害は、高齢者が多いだけに被害は深刻です。先日関東地
方にも雪が降りましたが、震災の復興からほど遠い東北地方の皆さん方に、雪
害による被害が広がらないように願ってやみません。
 
ところで、食べられた方も多いかと思いますが、節分に巻き寿司を食べる習慣
は、「福を巻き込む」「縁を切らない」などの意味があり、恵方に向かい、黙
って丸かじりするもので、主に関西で行われていましたが、最近ではバレンタ
インデーのチョコレートのように、全国で行われているようです。恵方とは、
「陰陽道に基づいて決められた縁起のよい方向」で、2015年の恵方は西南
西でした。七福神にあやかろうと、穴子、かんぴょう、きゅうり、椎茸、玉子、
おぼろ、高野豆腐など7種類の具を巻き、包丁で切らず、福を丸ごとかじって
食べるのが定法で、江戸時代に行われていた大阪の伝統習俗を復活させたもの
です。
 
最後に、豆まきの口上は「福は内、鬼は外」が定番ですが、そう言わない所も
あります。台東区にある「恐れ入谷の鬼子母神」(「おそれいりました」を冗
談めかし、しゃれて言う言葉)でおなじみの仏立山真源寺では、「福は内、悪
魔は外」と言いますが、これは人間の子どもを食べてしまう鬼神、鬼子母神を、
お釈迦さまが鬼神の子を隠し、子ども失う悲しみを諭されて仏教に帰依し、子
どもの守り神になった由来によるもので、成田山新勝寺では「福は内」だけで
すが、お祀りするご本尊は不動明王ですから、鬼も改心するとされているから
だそうです。また、群馬県藤岡市鬼石地域では、地名の通り鬼は守り神ですか
ら、「福は内、鬼は内」と言い、全国から追い出された鬼を歓迎する「鬼恋節
分」を開催しているそうですが、皆さんの住む町はいかがでしょうか。
(生活情報サイトAll About より)
 
(次回は、「建国記念の日と2月に読んであげたい本1」についてお話しまし
ょう)

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第3章(3)何といってもお正月ですね 【一月に読んであげたい本】

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第12号-
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第3章(4)何と言っても正月ですね 
【一月に読んであげたい本】
 
正月に関するむかし話は、たくさんありますが、この話は欠かせないでしょう。
「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」の十二支のことで、こ
れを決めた事の次第を話にしたものですが、いたちが出てくるとは知りません
でした。
 
◆十二支のはじまり   小沢 重雄 著
「元旦の朝、新年のあいさつにきた順番に、その動物の年にして、人間世界を
守らせてやる。ただし、一番から十二番まで」と神様からのお触れが出て、動
物たちは大喜び。ところが、ねこは、その日を忘れてしまい、運良く(本当は
運悪くですが)会ったねずみに、二日目の朝だと嘘をつかれます。計られたと
も知らずに、ねこは神様のお住まいになる御殿の門を叩いたのですが、「十二
支は決まった。寝ぼけていないで、顔でも洗ってこい!」
と神様に怒られ、だまされたと気づいたのです。それからというもの、ねこは
寝ぼけないように、いつでも顔を洗うようになり、嘘を教えたねずみを追いか
けるようになったのでした。
ところが、ねこの他にも十二支に入れなかった動物がいました。いたちです。
お触れがこなかったから、やり直してほしいと申し立てをします。手を焼いた
神様でしたが、名案を考え出します。
「一年に十二日だけ、おまえの日にしてあげよう。月の始めは縁起のいい日だ
から。ただし、『いたちの日』とすると、他の動物が騒ぎだすから、頭に「つ」
をつけることにしよう。数をいうときには、一つ、二つと、必ず『つ』をつけ
る大切な字だから」と提案をします。
「つ、いたちですか?」
「いや、いや、『つ、いたち』では、わかってしまうから、『ついたち』と続
けていうことにしよう」と説得され、月の初めを「ついたち」と呼ぶようにな
ったのです。
一月のおはなし ねこの正月 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修 
 日本民話の会 編 国土社 刊
 
12月にもお話しましたが、朔日(ついたち)は、月立(つきたち)の音便で、
こもっていた月が出はじめる意味からできた言葉ですが、これを読んだとき、
しばらく笑いが止まりませんでした。神様といたちのやりとりが、本当におか
しいのです。しかも、場所は図書館でしたから、困りはてた様子をご想像くだ
さい。
 
5、6歳の子どもにとって、一日から十日までと、十四日、二十日、二十四日
は、漢字の音読みと訓読みが、入り混じっていますから覚えるのも難しく、き
ちんといえる子はあまりいません。一日は、これで覚えられますね。二十日は、
「二十日ネズミは二十日間しか生きられないから二十日ネズミというんだよ」
と、得意そうに教えてくれた子がいましたが、真相は定かではありませんけれ
ど、これで覚えられるでしょう。(※実際には妊娠期間が20日だそうです
 <編集者注>)
 
ところで、かつて小学校一年生の子どもが、この読み方を歌にしたものがある
といって歌ってくれましたが、実にうまく出来ていて、これで簡単に覚えられ
ます。残念なことに題名を思い出せませんので、すみませんが探してあげてく
ださい。
 
大人でもよく間違える「十日」ですが、「とおか」、「とうか」どっちでしょ
うか。
氷、王さま、通りは、「お」「う」のどちらでしょうか、小学校一年生のとき
に習います。
 
正月といえば、欠かせないのは七福神でしょう。この話には、神様、一人ひと
りの紹介はありませんが、七福神の話です。これとよく似た話で、大晦日に長
者に宿を断られた乞食が、貧乏人の家に泊めてもらい、そのお礼に若水をもら
い若返った話を聞いた長者が、乞食を無理やり泊まらせ若水を強要し、あまり
欲張ったために猿になった話や、赤ん坊になってしまうのもあります。暮れか
ら正月の話ですが、七福神の登場ということで、一月の話にしました。
 
◆正月の神さん   渋谷 勲 著
ある年の大晦日に、貧乏なじいさまの家へ、七人の旅人が来て、笠を貸してほ
しいというので、家中、探したのですが六人分しかなく、大事にしまっていた
ご祝儀用の合羽を貸したのでした。
 それから一年たった大晦日の晩のことです。今年も年越しのご馳走の用意が
できずに、白湯を呑んでいると、急に騒がしくなり、あの七人の旅人が入って
きたではありませんか。実は、旅人は神様で、笠のお礼にきたのでした。打出
の小槌から、米や魚やら、二人の欲しいものが何でも出て、寝る場所もなくな
るほどです。もっと欲しいものはないかという神様に、「もう少し若ければ、
子どもを授かりたいものだ」とおばあさんはいいました。
すると神様は、「明日は、元旦だ。目が覚めたら、二人そろってあいさつをし
なさい」といって帰ったのです。        
元旦の朝、目を覚ました二人は、「おめでとう」とあいさつをすると、十七、
八のいい若者になり、それからというもの、何人もの子宝に恵まれて一生、安
穏に暮らしたのでした。
  一月のおはなし
    ねこの正月 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修 日本民話の会・編
          国土社 刊
 
七福とは、「仁王経」(仁王護国般若波羅蜜経)の「七難即滅して七福即生す」
に由来するものといわれ、江戸時代を築いた徳川家康が、七福によって天下を
統一したとして、家康の相談役・天海僧正が、神仏の七徳を崇めるようにと七
福神信仰を勧めたため、江戸時代に流行したものです。     
ちなみに、七徳とは、恵比寿の清廉、大黒の有徳、弁財天の愛敬、毘沙門天の
威光、福禄寿の人望、寿老人の長寿、布袋の大量(心が広いこと)をいいます。
 
ところで、七福神の国籍(?)を調べてみると、恵比寿は日本の神道、大黒天
と毘沙門天はインドの仏教、弁財天はインドのヒンドゥー教、そして布袋、寿
老人、福禄寿は中国の道教から生まれた神様なのです。
異教の神様や仏様を、いくら「呉越同舟」(呉・越、共に中国は春秋十二国の
一つで、互いによく争ったことから、仲の悪いもの同士が一所にいること)の
四字熟語があるからといって、同じ船にお乗せして問題が起こらないのでしょ
うか。キリスト教など他の宗教では考えられないことです。「融通無碍(ゆう
ずうむげ)考え方や行動が、何事にもとらわれず自由であること」というので
しょうか、本当に、日本人らしいですね。イスラム国で起きてしまった事件、
何とか無事におさまってほしいものです。
 
昔は、帆掛け船に乗った七福神の絵を枕の下にしいて、いい夢を見たそうです
が、私もそのようにした記憶はありませんから、かなり前の話のようです。そ
の夢ですが、正月というと、これも忘れられませんね、初夢です。初夢は室町
時代には、除夜から元旦にかけて見る夢でした。それが江戸時代の中頃から、
除夜は起き明かす習慣となり、元旦の夜に見る夢となっていましたが、「すべ
ての事始めは二日」ということから、今では二日の夜に見る夢となったのです。
これも、一つ紹介しておかないといけないでしょう。
 
◆ゆめみこぞう   渋谷 薫 著
 ある長者のところに、風呂たきをしている、灰坊と呼ばれる若者がいました。
ある正月の二日の晩、灰坊は、よい夢を見たのです。その夢を長者が買おうと
いいますが、灰坊は売りません。怒った長者は下男に命じ、灰坊を縛り上げて
木箱の中へ詰め、海に投げ込んでしまいました。
 二十一日間、波に揺られて着いたところは、鬼が島。鬼の親方に食べられる
前に、海に流されたわけを聞かれ、その話をすると、親方が、その夢をくれれ
ば食わないで、家に返してやるという。断ると、三つの宝物、刺すと死ぬ死に
針、死人を生き返せる生き針、千里を一飛びする千里車と交換しないかと灰坊
の前に置いたのですが、灰坊が「本物か?」と疑わしそうにいうと、試してみ
るがよいと腕を出したので、灰坊は、その腕に死に針を刺して殺し、生き針を
持って千里車に乗り、鬼が島を脱出したのです。
 着いたところが、ある村の観音さまのお堂。休んでいると、お参りに来た人
達が、朝日長者の十七になる娘が死んだと話しているのです。それを聞いた灰
坊は、長者の家にかけつけ、「死んだ者を生き返す、日本一のお医者さま! 
死んだ者は、おらんかなー!」と大声で叫びます。直ぐに死んだ娘の座敷に案
内され、人払いをしてもらい、生き針を娘に刺してみると、生き返ったのです。
喜んだ長者は、婿になってほしいと頼み込み、灰坊は朝日長者の娘婿になった
のです。これこそ灰坊が、見た夢、そのものだったのです。
 一月のおはなし
   ねこの正月 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修 日本民話の会・編
         国土社 刊
 
正月ですから、ご祝儀を一つ。
これも、むかし話の定番ですが、継母の子どもいじめです。「親になるにもラ
イセンスが必要」とおっしゃった方がいるそうですが、幼子への虐待は、親と
いえども許されることではありません。ましてや親の手にかかり殺される子は、
どんな気持ちでこの世を去ったのでしょう。殺人犯は、実の親なのですから……。
また、ごく普通の家庭でも、父親は女の子に、母親は男の子に甘くなりがちで
す。子どもは、小さい目で、しっかり見ていることを忘れないでほしいもので
す。
 
話に出てくる季節の変わる様子は、古い話で恐縮ですが、高校時代に観た映画、
マルシャークの「森は生きている」を思い出します。気まぐれな女王が、真冬
に4月の花であるマツユキソウをほしいといい、継母の言いつけで吹雪の森へ
行き、12月の妖精たちに出会う話となっています。これと同じような話が、
スロバキアの民謡に「マルーシカと12の月」があります。こういった話を聞
くたびに、人間の考えることは「同じなんだな」と、しみじみと嬉しくなりま
す。
 
◆六月のむすこ   松谷 みよ子 著 
 むかし、あるところに母親と二人の娘がいて、妹は実の子、姉はまま子でし
た。ある年の正月、妹はいちごを食べたいといいます。母親も取り合わなかっ
たのですが、わがままに育てられていますから押し切られ、姉は取ってこいと
かごを背負わされて、山へ向かいますが、いちごなどあるわけがありません。
途方にくれていると、白いひげのじいさまと会い、訳を聞いてくれ、あたたか
い感じのする家に案内されたのでした。いろりの前に姉を座らせ、この家に一
月から十二月まで、十二の月の兄弟と住んでいて、どの息子も自分の月を呼び
出せるといい、声をかけると、奥から一人の若者が出てきたのです。訳を話す
と、今は一月、私の出る番の六月まで、一月から五月までの五人の兄弟の助け
が必要だという。再び声をかけると、五人の若者が現れ、みんな外へ出たので
す。すると雪がとけ、あたたかな日がさし、土が姿を見せ、草や木の芽がもえ、
花が咲き、小鳥は歌い、いちごが実ったのです。かごいっぱいに摘んだのを見
たじいさまに、「雪が降らない内に帰りなさい」といわれ、走るように山を下
った後から雪が降りはじめ、ふもとに着くと山は、もとの銀世界でした。
 家に帰ると、二人でいちごを瞬く間に食べたばかりか、妹はもっと食べたい
と泣きわめき、母親は殿さまにあげればご褒美にありつけたと悔しがり、再び
山へ行けというのです。
姉は不思議なじいさまとの出会いを話し、二度は無理だというのですが、「い
うことを聞けんのか!」と怒り狂っていましたが、急に気が変わり、二人でじ
いさまに会ってくると出かける準備をはじめます。姉は必死に止めましたが、
大きなかごを背負い山へ出かけたきり、二度と戻って来ませんでした。
  日本むかしばなし 18
     まほうをとくむすめ 民話の研究会 編 櫓良 良春 絵
               ポプラ社 刊
 
最近、継母という言葉は余り聞かないようになりましたが、幼児虐待の話はよ
く聞きます。
それも、育児に一所懸命なお母さんが虐待しがちだと聞くと、救いがありませ
ん。四六時中、お子さんと顔を合わせていますから、あまりのわからず屋にカ
ッとなる時もあるでしょう、わかります。しかし、そこが我慢のしどころです。
育児には、「耐えて、忍ばなければならない時期」があります。心の傷は間違
いなく子どもの心に残り、それを背負って生きていくものです。子育ては、
「育児」しながら「育自」することです。お母さん方は、自力で自身を成長さ
せなくて、誰がさせてくれますか。誰も、力を、機会を与えてくれません。そ
の教材が、お子さんと考えてはいかがでしょうか。お子さんは、ご両親で作る
環境でしか育ちません。ご両親が心を一つにして育児に専念するのは、幼児期
だけではないでしょうか。子どもは授かりものです。授からない人も、多くい
ることを考えてみましょう。
そして、ご自身を育ててくれたご両親、特にお母さん方は、同じ苦労をしてき
たことを思い起こすべきで、この気持ちを忘れないことが大切ではないでしょ
うか。
 
最後に、「七草」に関する話が「御伽草紙」にあります。若いときは、とかく
親のことなど考えないものです。だから「今の若い者は」などと口幅ったいこ
とは言いません。しかし、「親孝行、したいときには親はなし」……実感して
います。
 
この「御伽草紙」には、「鉢かつぎ」「酒呑童子」「浦島太郎」「ものぐさ太
郎」など子どもの頃に聞いた懐かしい話が入っています。中でも傑作なのは
「猫の草紙」で、昔は猫も首輪をされていたそうです。ところが、「首輪をし
てはならぬ」とのお触れが出て、それまで自由に走り回っていたねずみは、猫
に捕まり食い殺される恐怖の世界に一変するのです。
「十二支の始まり」と同様、猫とねずみの因果関係を納得させられる話です。
原文を読むのは少し面倒ですが、図書館の子どもの部屋には、小学生から中学
生向きに書き直されたものがあり気軽に読めます。現代人が忘れかけているも
のがたくさんありますが、ロマンも、その一つではないでしょうか。
 
      ◆七草草紙 北畠 八穂 著
正月七日に七草がゆを食べる習慣になったのは、唐国(中国)の楚の国のそば
に住んでいた、大しゅうという人が始めたものだそうです。大しゅうの両親は
百歳をこえ、腰は曲がり、目も耳も悪くなるばかり。そこで、両親を若くした
いと、天地の神仏に二十一日間、祈ったのでした。すると、二十一日目の夕方、
帝釈天王が現れ、若返りの秘訣を授けてくれたのです。それは須弥山(しゅみ
せん 仏教でいう世界の中心にそびえ立つ高山のこと)に棲む白鵞鳥が八千年
も生きるのは、春に七色の草を集めて食べるからで、その白鵞鳥の命を両親の
命にしてあげようと、摘んでくる七草の種類、たたく順序、時間など秘薬にす
る方法を授けたのです。大しゅうは、七草を集め、六日の夕方からたたきだし、
七日の朝に飲ませると、両親は若さを取り戻したのでした。この話が帝にも届
き、褒美として広い土地をあたえ、殿さまにしたのです。それから正月七日に
七草を帝へ差しあげることになったそうです。このように親に心を尽くす人に
は、天の幸いが授かるのです。 
    御伽草子  古典文学全集 13 ポプラ社 刊
(次回は、「第4章 豆まき、節分でしょう」についてお話しましょう)
 
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さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第3章(3)何といってもお正月ですね  睦月

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第11号-
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第3章(3)何といってもお正月ですね  睦月
 
◇お節料理◇
お雑煮を食べながらいただく料理がお節料理です。私の子どもの時でもそうで
したが、一年に一度か二度、滅多なことではお目にかかれない重箱というもの
があり、そこにいろいろな料理を詰めます。木からできている箱で、普通は漆
で塗られ、外側はきれいな絵や模様で飾られ、二重、三重、五重と積み重ねら
れるものです。今のお節料理には中華風や洋風などもあり、食べ物が豊富です
から精進料理風は受けないのでしょう。お節料理は、元旦の朝に神様と一緒に
お祝いをして、家族が健康で良いことがたくさんあるように、お祈りをするた
めの食事ですから、縁起ものしか選ばれません。
 
「三つ肴」または「祝い肴」といって、この三種でお節料理を代表するものが
ある。三は完全を意味し、全体を一つにまとめる働きをしている。三つ肴とは、
関東では黒豆、数の子、五万米(ごまめ)をいい、関西では、黒豆、数の子、敲
き牛蒡(たたきごぼう)をいう。
(年中行事を『科学』する 永田 久 著 日本経済社 刊 P9)
 
黒は、魔除けの色といわれ悪魔が嫌う色です。   
豆は、「まめに生きる」といって、真面目に健康に生きる願いが込められてい
ます。
数の子は、鰊(にしん)の卵巣で、数万の卵があることから「数多い子」、子
孫繁栄の意味で縁起がよいといわれ、また「春告魚」とも書き「春よ、早く来
い!」と願っています。
ごまめは「五万米」とも書くことで豊作を願っています。
牛蒡(ごぼう)は、お米がたくさん取れた時に飛んでくるといわれる黒い瑞鳥
を表したものです。
この三つは、必ず食べたそうですが、子どもは、きんとん、だて巻き、かまぼ
こ、海老や鯛、八つ頭(里芋の一種)こんにゃくなどを食べていました。
きんとんは「金団」と書いて「金の塊」のこと、だて巻の「伊達」は「粋で美
しい様」、かまぼこの赤は黒と同様に「魔よけ」、白は「清浄」を表し、八つ
頭は「人の頭に立つ人になってほしいことを願っている」といったように、お
節料理は縁起を担いだ食べ物からできています。               
 
さて、今はどうでしょうか。
ウインナー、ハンバーグ、餃子、鶏の唐揚げ、ポテトフライ、こういうものを
朝祝いに食べ、初詣に神社へ行って神様にお願いする、何だかおかしくないで
しょうか。神様は和食派ですから、ちぐはぐな感じがしますね。
 
正式なお節料理は、四段重ねです。上から一の重、二の重といい、一の重には、
先程の三つの肴、黒豆、数の子、ごまめ、二の重は「口取り」といい今風の言
葉で表せばオードブルで、金団、ゆず玉、だて巻などが、三の重は、海老や鮑、
鯛などの「海の幸」を、四の重は「与の重」といい、八つ頭、はす、くわい、
里芋などの「山の幸」を入れます。そして、詰める品数は奇数がよいとされ、
ここまでこだわります。  
 
祝いの膳に欠かせない尾頭付きの鯛ですが、徒然草では鯉が「やんごとなき魚
なり」と紹介されています。世界の四大聖人の一人、孔子の子息の名前は「鯉」
といいますが、王様からお祝いに、鯉をいただいたことから命名されたそうで、
当時、中国での魚の王様は鯉だったのです。ところが、江戸時代になると鯛が
鯉にとって代わり、祝い膳のトップに躍進し、今に至ってもその座を他の魚に
許していません。姿、形がよく、色鮮やかで、生でも焼いても汁にしてもうま
い、これでしょうね。しかし、親父は「鯛はいつでも食べられるから旬がなく、
その分、損しとるのや」と言っていましたが、今では鰹や秋刀魚も、いつでも
食卓に上がります。食生活は豊かになりましたが、そのために失ったものもた
くさんあります。 季節感が希薄になったのも、その一つでしょう。魚に限ら
ず旬のものは、その時にしっかりと食べ、季節感を味わいましょう。
 
さて、お節料理の中心は煮物です。煮物は、素材をそのまま煮炊きできません
から、その下ごしらえから味付けまで、手間がかかりますし、それに味付けが
一番難しいといわれています。味付けで素材の持ち味が決まるからです。です
から、暮の台所はまさに戦場で、今のようにお節を買って済ませる時代ではな
く、全部自前でこしらえていましたから大変な騒ぎであったことを覚えていま
す。お節料理は、三が日の間、お母さん方から料理する手間を開放してあげる
配慮があったと聞きましたが、その通りではなかったでしょうか。
 
◇屠 蘇◇
読み方からしてやっかいですが、「とそ」といって、山椒、肉桂(にっけい)、
桔梗(ききょう)、ぼうふうなどの薬草を、砕いて調合した屠蘇散をひたした
味醂のことで、これが正月のセレモニーの主役でした。これを杯に注いで、
「おめでとうございます」と父がいわないことには、新年の朝祝いは始まりま
せん。これは、不老長寿の効き目があるといわれ、正月の祝い酒でした。しか
し、どうして、こんなものがおいしいのだろうかと思いましたね。山椒はうな
ぎを食べるときに使うものですし、肉桂はにっきのことで刺激が強く、桔梗は
根を干したものはせき止めの薬ですし、ぼうふうはセリの仲間です。聞いただ
けで、飲むのを遠慮したくなりませんか。親父からちょっとなめさせてもらい
ましたが、大人は、なぜ、こんなまずいものを飲みたがるのか不思議な気がし
ました。 
 
しかし、何事も訳ありです。
屠蘇は、「鬼気を屠絶し、人魂を蘇生させる」という意味があり、「その年の
邪気を払い、寿命をのばす働きがある」と信じられていました。ですから、邪
気を払い不老長寿を願う、正月には欠かせない祝い酒でもあったのです。今は
朝祝いに屠蘇を飲まないのではないでしょうか。屠蘇で乾杯して大人はお酒で
す。子どもはお節料理を食べながら、お雑煮をいただきますが、両親とも着物
です。母は着物の上に、袖付きの前掛けというのでしょうか、割烹着をつけて
いました。親父は立派に見え、母はきれいだと思ったものです。そして、なぜ
か子どもたちも新しい服を着せられていました。新しい年神様を、誠心誠意で
お迎えした雰囲気がありましたね。
 
また、これも忘れられませんが、テーブルと椅子の時代ではなく、足の低い食
卓、ちゃぶ台で食事をしていました。もちろん、正座をしてご飯を食べます、
正座です。姿勢が崩れると父が、恐い顔してにらみますから、おかしないい方
ですが、真剣に、真面目に食べていました。ですから、姿勢も自ずと良くなり、
食事のマナーも身についたものです。      現代っ子は、姿勢の悪い子もいますし、妙なはしの持ち方をして
いる子もいます。ご飯をぼろぼろとこぼしても平気な子もいます、親も注意を
しないようです。食事中は、テレビを消しましょう。4、5歳の子には、「食
べながら見る」といった二つの作業をこなすことはできません。私の子ども時
代と最も違ったのは食事ではないでしょうか。テレビはありませんから、食事
は人が中心で、一家団欒の一時であり、家族の会話があったような気がします。
しかし、椅子とテーブルになって、子どもたちの足が長くなり、スタイルもよ
くなりましたが、子どもに教えるべき生活習慣やしつけの面で失ったものも、
数々あります……。
 
そして、年の順にお年玉をもらうのですが、これが楽しみでした。でも、わず
かでしたね。
現代っ子は、銀行に預けるほどもらえるようですが、これは不労所得です。汗
水を流さずに、お金をたくさんもらうのは、決してよいことではありません。
子ども時代にこそ、「分相応の精神」をしっかりと理解させるべきではないで
しょうか。
 
★★初詣★★
朝祝いが済むと、近所の氏神さまへお参りをします。ところが、最近はどうで
しょうか。
「行く年、来る年」などを見ていると、全国の有名な神社、仏閣は、大勢の参
拝者でにぎわっています。お賽銭を後ろの方から投げ込んでいる人さえいます
が、参拝者が多いためでしょうけれど、これは投げ銭ですから神様に失礼で、
ご利益は期待できません。やはり、その年の神様と朝祝いを済ませ、神様に失
礼にならない服装に着替え、出かけるべきではないでしょうか。そして、お子
さんにも神前で、静かに頭を下げ、新年の希望や誓いなどをさせましょう。目
に見えない大いなる存在に畏怖を抱くのは、決して悪いことではありません。
親が、きちんと礼拝をする姿を見せれば、それで十分なのです。
 
「我々日本人は畏怖することを忘れ、目に見えないものを敬うことを忘れ始め
たような気がしてなりません。
(「平成お徒歩日記」 宮部 みゆき 著 新潮社 刊 P193)
 
神戸で起きた小学生殺人事件の容疑者が逮捕されたときの作者の言葉ですが、
今でも忘れられない一言となっています。傑作だった「模倣犯」で活躍した前
畑滋子が再登場する「楽園」、超能力に興味のある方には見逃せません。「孤
宿の人」の主人公‘ほう’には泣かされました、年甲斐もなく(笑)。目下
「ソロモンの偽証」に取り組んでいます。
    
帰りには、不幸をもたらす悪魔を払う「破魔矢」や、七転び八起きを願う「だ
るま」などの縁起物を買い、そのいわれを話してあげ部屋に飾っておきましょ
う。子どもなりに夢を育てるものです。
 
また、「初日の出」を拝む習慣がありますが、普段でも海上から昇る朝日や夕
焼けの山間に沈む夕日には、何ともいえぬ感動を覚えるものです。ましてや、
その年の初日の出となると感慨もひとしおでしょう。では、「日本でいちばん
最初に初日の出を拝めるのはどこか」ですが、単純に考えると東へ行けば行く
ほど早くなるように思われますが、高い所へ登れば登るほど見通せますから、
国土全体では日本の最東端にあたる南鳥島、島を除けば富士山頂で、平地では
犬吠崎です。しかし、南鳥島は一般の人は立ち入り禁止で、そこにいる防衛庁
と気象庁の職員しか拝めませんし、富士山頂は氷点下何十度という所ですから、
一般の人は無理ということで、正解は小笠原諸島の乳房山で、何と1月1日が
海開きに当たり海水浴も楽しめるそうです。
 
ところで、ジャズのスタンダード・ナンバーに
「The world is waiting for the sunrise」
(世界は日の出を待っている)があります。といっても、アメリカ人に「太陽
遥拝」の信仰があるかといったことではなく、第一次世界大戦後の不況から脱
出したい願いをこめて作られた曲です。ジャズの演奏スタイルは、時代と共に
変わりましたが、大雑把に分けるとデキシーランド、スイング、モダンの3つ
があり、デキシーランドには、ニューオーリンズ派とシカゴ派があります。ニ
ューオーリンズ派の名クラリネット奏者、ジョージ・ルイスの率いるバンドが、
オハイオ州立大学で行ったコンサートの中に、この曲の名演奏が入っています。
バンジョーの名手、ローレンス・マレロが、正確無比なビートで、最高にスイ
ングするソロを聴かせてくれます。沈んだ夕日が昇ってくるのではと思うほど
アグレッシブ、攻撃的な演奏で、音はよくありませんが、いつ聴いても感動を
新たにさせてくれる、ご機嫌な演奏です。私の正月は、これを聞くことから始
まります。
話は変わりますが、ジョージ・ルイスのすばらしい音色を絶賛したのが、前衛
ジャズの大御所、サックス奏者のジョン・コルトレインでした。音楽に新しい
古いはないと思います、自前の感性に訴えるものがあれば、いいのですから。
私はドラムを少しやっていますが、学生時代、ある黒人ドラム奏者に、「なぜ、
そんなにスイング出来るのですか」とあほみたいな質問をしたところ、「なぜ、
あなた方は、フォークソング(民謡)をあんなにうまく歌え、踊れるのか」と
言われ、ジャズのリズム(4ビート 若い皆さんが乗れるリズムは8ビート)
に抱いていた劣等感を拭い去ることが出来たような気がしました。それぞれの
民族は、長い時空を経て培われたリズム感があるということです。それから、
下手の横好きですが、私流のリズムを刻むことを覚えました。
 
平成19年の暮れ、体力の限界を感じバンドを解散しました。何と47年間も
やっていた、とてつもない道楽でしたが、演奏の醍醐味を忘れることが出来ず、
また23年から始めてしまい、24年11月の「新宿ジャズ祭り」で、普段は
プロしか演奏しないライブハウス、ピットインでトリを取ってしまいました 
(笑) 。 再びトリを目指して頑張る予定でしたが、25年9月にバンドリーダ
ーの丸山が亡くなり実現しませんでした。彼とは53年来の付き合いで、彼が
いたからジャズの醍醐味を味わうことが出来たと感謝しています。昨年は5月
に、演奏会の度に香港から駆けつけてくれたバンジョーの名手、菅原さんが、
ご自分のバンドを率いて「春の新宿ジャズ祭り」に来日した折、ドラムの方が
参加出来ず、ピンチヒッターでお手伝いさせてもらいました。かなりのテクニ
シャンのある外人の方が3名いて、緊張している私に、「ジャズは自分で楽し
むものだよ!」とまたしても教えられ、楽しいひと時を過ごせました。しかも、
これは偶然だったのですが、会場も、時間も、丸山と最後の演奏となった時と
全く同じで、追悼演奏が出来たと感無量でした。(涙)
 
★★正月の遊び★★
たこ上げ、羽根つき、カルタにすご六、福笑いが、正月の遊びの定番でした。
今の子どもは、やらないでしょう。テレビゲームやDSのようなポータブルゲ
ーム等、一人で遊べるゲームに人気があります。これが問題ではないでしょう
か。小学校時代に友達と遊ぶことの楽しさを覚えないと、社会性は育ちません。
社会性が育たないと、共に生きる共生の心も育まれません。人は一人では生き
られないことを、もっと教える必要があります。個性を育てるのとわがままを
助長するのは、紙一重の差です。我慢をすることのできない子が増えています。
「訓練されていない個性は野性である」と国府台女子学院の平田学院長はおっ
しゃっていますが、勘違いすると後で困るのは、お子さん自身であることを真
剣に考えましょう。
 
ところで、昔の遊びの中にもいいものもあります。例えば、すご六です。サイ
コロを振り、出た目だけ動かなければなりません。しかも前後左右に進んだり
戻ったりしますから、混乱しがちです。5、6歳の子にとって、出た数だけ上
下、左右に移動するのは難しいものです。いわゆる「位置の確認」で、こうい
う遊びで覚えるのが効果的なのですが……。
 
このサイコロですが、2つ使うと最高12までの足し算ができます。二人で1
個ずつ振り、数の大きさで勝ち負けを競えば、引き算になります。数字を使い
ませんが、出た目を数えるだけで、簡単に答えが出ます。その上をいく優れ物
が、トランプです。ゲームは勝敗が伴いますから、真剣に遊びます。カードに
はマークと数字がありますから、算数の学習、数感の学習になっています。
 
トランプの絵札は、11はJ、12はQ、13はKとアルファベットで表され
ています。
Kはキングで王様、Qはクイーンで女王様ですが、Jは何を表しているかご存
じですか。
Jは「ジャック」という人名の頭文字からとったもので、イギリスでは、ごく
ありふれた名前の代名詞として使われ、日本でいえば「太郎」にあたり、よく
耳にする名前を付けることで、名もない一兵士を象徴させているのです。4つ
のマークは、ハートは僧侶、スペードは軍人、ダイヤは商人、クラブは農民と
身分階級を表していますが、何事も訳ありなのですね。ところで、中学生にな
り英語を習ったときの教材は「JACK AND BETTY」でしたが、べ
ティは「花子」にあたるのでしょうか(笑)。
 
★★春の七草★★
言葉だけが、一人歩きしているようです。
七草は、せり、なずな、御形(ごぎょう 母子草)、はこべら(はこべ)、仏
の座(たびら子の別称)、すずな(かぶ あおな)、すずしろ(大根 鏡草)
のことです。昔は、春を告げる七草を親子で摘み、お節料理やお餅を食べすぎ
て、お腹の調子が少し悪くなった時に、消化のよいお粥に七草を入れて食べ、
春を実感していたのでしょう。ちなみに、セリは解毒・食欲増進・神経痛・リ
ュウマチに、なずなは高血圧・貧血・食欲増進に、御形は咳止め・痰切り・利
尿作用に、はこべらは歯槽膿漏・催乳・健胃整腸に、仏の座は体質改善に、す
ずな、すずしろは骨粗鬆症・腸内環境改善に良いという説があるそうです。
(三島函南農業協同組合「七草がゆセット」のしおり より)
 
この七草に関して、覚えやすい歌があります。
  せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、
すずな、すずしろ、これぞ七草      左大臣 四辻 善成(平安時代)
 
最後に、おもしろい話を紹介しましょう。間違って使われる言葉に「千六本」が
ありますが、永田先生でなくても笑えますね。
 
大根は、野菜の王様で消化によく、食べあたりしない。大根役者とは、当たらな
い役者のことである。「千六本」というのは、大根を細長く刻んだものであるが、
大根を中国では「繊蘿蔔」といい、これを唐宋音でローポと発音した。細長く刻
んだ大根=繊蘿蔔(センローポ)が日本でセンロッポンと訛って千六本と書いた。
千という字によって「たくさんの」という意味を感じて細かく切り刻んでしまう人
もいれば、「人参を千六本に切って」などと料理教室で教える先生もいる。六本と
いうのをどう解釈しているのかと考えると、ふきだしたくなる。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P35)
(次回は、「1月に読んであげたい本」についてお話ししましょう)
 

2016さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第3章(1)何といっても正月ですね 睦月

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第10号-
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第3章(1)何といっても正月ですね 睦月
 
物の本によれば、睦月(むつき)のいわれには、正月は身分の上下、老若男女、
分け隔てなく行き来し、親族一同、仲よく「睦み合う」という説が有力だそうで、
その他にも「元つ月」、草木が萌えいずる「萌(もゆ)月」、春陽が発生する
「生む月」、稲の実を初めて水に浸す「実(み)月」なのだとする説もあるよう
です。
 
    お正月の歌
       もういくつ寝るとお正月   お正月には凧あげて
       こまを回して遊びましょう  早く来い来いお正月
 
正月になるとこの歌を思い出します。子どもの頃の思い出といえば、正月にま
さるものはなかったですね。恥ずかしい話ですが、お餅を食べられるのとお年
玉を貰えるからでした。今と違い餅は正月しか食べませんでしたし、小遣いと
なると現代っ子のように毎月貰えるものではなく、正月や祭りの時だけでした
から、本当に待ち遠しかったものです。クリスマスを待つ心境と同じではなか
ったでしょうか。
ところで、この歌の作曲者はどなただと思いますか。瀧廉太郎です。童謡や唱
歌には素晴らしいものがたくさんあります。お子さんと一緒に歌うべきだと思
いますね。幼児期の思い出は、こういった歌からも残っていくものではないで
しょうか。
 
さて、元日の朝ですが、いつもの朝と違い「特別な朝」という感じがしたもの
です。いつもと変わらない朝ですが、元日の朝だけは別です。なぜか、天気は
よくて、大雪とか氷雨といった経験はほとんどありません。もっとも瀬戸内海
と東京にしか住んだことがないからかもしれませんが、毎年、いかにも新しい
神さまがいらっしゃった朝という気持ちになったものです。元日は、その年の
神さまがやってきて、前の年の神さまと交代する日でした。ですから、神さま
を中心に生活が営まれていた時代には、「おめでとうございます」と言ってい
たのは、人間同士が「新年あけましておめでとうございます」と挨拶をするの
ではなく、新しい神さまを迎える言葉として使っていたそうです。ですから、
「あけおめ」などという言葉を聞くと「なんと不謹慎なことよ!」と腹が立ち
ますね(笑)。門松、しめ飾り、鏡餅、そしておせち料理も、みんな神さまをお
迎えするセレモニーに必要なものだったのです。中には何やら語呂合わせのようなものもありますが、「これはすごい!」思わ
ず膝を叩きたくなるのもあります。
 
★★正月の三点セット★★  
◇しめ飾り◇                     
門松もそうですが、今はあまり飾らなくなりました。マンションでは、玄関と
いっても建物の中ですから、何かおかしな感じがします。やはり、冷たい北風
が吹きよせる玄関でなければ、さまになりません。本来、しめ縄は、神前など
神聖なものと不浄なものとの境界線を示すために張る縄のことで、わらを左捻
りにして、三筋、五筋、七筋と順々にひねり垂らし、その間に四手を下げたも
のです。四手とは、横綱の化粧まわしの上にしめられた綱にさがっている、あ
れです。地方によっては、えびや橙(だいだい)を一緒に飾った豪華版もあり
ます。   
わらは、稲や麦の茎を干したものです。それで作ったしめ飾りで神様を迎える
のも、何やら意味あり気です。農耕民族の生活の基盤は米ですからわかるよう
な気がしませんか。
このわらで、いろいろな物を作っていたもので、子どもの頃は、わらじをはい
ていました。
時代劇を見ると、みんなはいているのは、わらじか下駄です。わらじの材料は、
このわらです。昔の人は、資源を無駄にしませんでした。逆かもしれません、
資源が貧しかったから大切に使ったのでしょう。
 
えびは「海老」とも書きますが、文字、そのものが「海のご隠居さん」です。
体が曲がっている姿から、お年寄りにたとえて、長寿を祈願したものです。こ
れが漢字の楽しいところでしょう、何となくイメージが浮かんできます。横文
字にもあるのでしょうか。“LOBSTER”と書かれていても、日本人であ
る私には、何のイメージもわきませんが、字の並びに何か意味があるのでしょ
うか。
 
橙は、一家の幸せが、「代々」続いて欲しいという語呂合わせです。神様を迎
えるしめ縄に、いろいろとお願いするのですから、頼まれる神様も大変です。
                           
◇門 松◇                     
門松の方が、まだ受け継がれているかもしれません。しかし、庶民派の門松は、
松だけです。銀行やデパート、大きな会社の入り口には、立派な門松が飾られ
ています。松竹梅、何やらのどがなりそうですが、お酒ではありません。松と
竹と梅のことですね。
これも当然、意味ありでしょう。          
                           
松は常緑樹ですから、葉は一年中、青色で冬の寒さをものともしません。    
竹は真っすぐ伸びていきますから、横道にそれない芯の強さがあります。雪の
日など、他の木は雪の重みで折れがちですが、竹はしなります。しなって頑張
りますから、雪の方が我慢できずに滑り落ちます。二枚腰のお相撲さんの、見
事なうっちゃりのようです。
まだあります、「かぐや姫」の生れ故郷は竹の中、空っぽです。「竹を割った
ような性格」、曲がったことが嫌い、生一本のシンボルです。      
最後は梅です。北風が吹き荒れ、他の木々は葉っぱを落としいかにも寒そうで
すが、梅は頑張って小さな花をリンと咲かせ、「春近し」を告げています。春
告鳥と書いて「うぐいす」ですから、春告花で「うめ」はどうでしょうか。木
偏に春と書いて「うめ」と読みたいですが、椿で先輩がいるからだめですね。    
この椿ですが侍の家では嫌われていたようです。何しろ散りぎわがよくありま
せん。花が枯れ切って散るのではなく、大きな花がポトリと落ちますから、首
が落ちるように見えるらしいのです。お侍さんの首が落ちるのは、切腹のとき
ですから縁起が悪いので、正月には向かないのでしょうか。しかし、茶室で見
た一輪挿しの椿は、和敬静寂の雰囲気を見事にかもし出していましたが、これ
は素晴らしかったですね。        
 
「和敬静寂」は千利休の言葉で、和して敬すると誰の心も清々しくなります。
そしてそこには、心の寂けさが生まれます。寂とは淋しいものではなく、あた
たかな静けさなのです。そうした心境になれば、煩悩が静められ、知恵が生ま
れてくるのです。そこで「和敬静寂」が禅のこころといわれ、茶のこころとい
われるようになりました。
(「命のことば」 瀬戸内寂聴さんの著から
 利休の茶室日記 gooブログより)
 
ところで、利休の命名は、「名利共に休す、名誉も利益も求めない」という禅
語からとったものと言われていますが、墓所はどこにあるかといえば、何と織
田信長の菩提寺である大徳寺の隣にある聚光院なのです。大徳寺の山門を寄付
したのは利休で、そのお礼に寺側が利休の木像を掲げたことが秀吉の逆鱗に触
れ切腹を命じられました。年は利休が上ですが、茶道では信長の弟子で、隣同
士で眠っていることは、あまり知られていないのではないでしょうか。
 
それはともかくとして、松竹梅、語呂もいいですね。この縁起ものの三つを玄
関に飾り、神様を迎えたのです。年神様がいらっしゃってくださるときに、確
実に、我が家に来ていただくための道標、表札の役をしていたのではないでし
ょうか。お盆のときも同じことをしています。きゅうりの馬となすで作った牛
ですね。正月は神様を、盆には仏様を迎えるための行事ですが、季節折々の花
や農作物を供えるところからも、農耕民族であることがわかります。
何かにつけて、事の起こりは中国ではないかと考えますが、松竹梅も、厳しい
冬を堪えて生きるみやびやかな木、「厳冬の三友」といわれ、それが日本に伝
わり、「長寿・節操・清廉」などの解釈を加え、めでたいもののシンボルとな
ったのです。いや、それだけでは終わりません。後程、紹介しますが、あっと
驚く秘密が隠されているではありませんか。
 
◇鏡 餅◇
鏡餅は、その年の神様からいただいた、新しい魂を表したものです。丸い形は、
角を立てないように、みんなで仲良く暮らそうという意味が込められています。
お飾りは、橙と海老、ゆずり葉、昆布、勝栗、干柿、扇など、地方によって多
種多彩ですが、橙、ゆずり葉、昆布などが一般的でしょう。それに裏白も使わ
れています。ところで、なぜ、裏白なのでしょうか。お飾りにも、それぞれ意味ありなので
す。橙は長寿、裏白は葉の裏側が白いしだ類(わらび、ぜんまいの仲間)で、
うしろ暗いところがなく、清らかで汚れのない心を表し、ゆずり葉は新しい葉
が出てから古い葉が落ちることから「譲り葉」、家督を子孫に譲るのを祝う意
味があるのです。 
 
★★松竹梅に隠された秘密★★
何やら週刊誌の見出し風ですが、文句なしにすごい秘密が隠されているのです。
初めて読んだときの驚きといったらありませんでした。少し長くなりますが、
紹介しましょう。
 
陰陽の立場から松竹梅をみると、松は陽、竹も陽、そして梅は陰である。松竹
梅は陰と陽が相まって完全な世界を構成するという哲理にもかなっているわけ
である。さらに、植物学の上から考えると、松竹梅が植物界を代表しているこ
とが知られている。植物を分類すると、顕花植物と隠花植物に分けられ、顕花
植物は裸子植物と被子植物から成り立っている。さらに被子植物は、単子葉類
と双子葉類に分類される。ところで、松は種子を裸にしているので裸子植物で
あり、竹は種子が実の中にあって、しかも子葉が一枚しかないので、被子植物
の単子葉類、梅も被子植物であるが子葉を二枚持っているので双子葉類という
わけで、松竹梅が顕花植物の典型的な代表例となっている。このすばらしい事
実を古代人が知っていたのであろうか。松竹梅の意義の深さに、めでたいとい
うことよりも、頭の下がる思いがする。
ついでに隠花植物について述べると、その代表として、正月飾りとしてすでに
述べた裏白をその代表にあげることができる。こうして松竹梅と裏白とで植物
界をおおうことによって、正月をより意義のあるものにすることができるとい
うわけである。
 
 ■植 物 界■ 
◆花が咲き実を結び種を作る(顕花植物)
     種が裸のもの  (裸子植物)………………………………… 松 
     種が実の中のもの(被子植物) 葉が一枚(単子葉類)…… 竹 
                    が二枚(双子葉類)……  梅
◆花は咲かせず胞子で増える(隠花植物)………………………  裏白 
 
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P28-29)
 
いかがでしょうか。先生の書かれた図を参考に、わたし流に書き加えると以下
のようになります。植物には、梅、桜のように種を作るものと、コケやシダの
ように花を咲かせないで胞子でふえるものがあります。種には、竹や梅のよう
に種が実の中に包まれているものと、松、銀杏(いちょう)、蘇鉄(そてつ)のよ
うに種が裸のままのものがあります。種が実の中にあるものをまくと、芽を出
した時に最初に出る葉が、一枚のものと二枚のものとあります。
松竹梅というと、お寿司屋さんなどでは、上中並と同じように値段を表すのに
使っていますが、実は、こういう素晴らしい意味があるのです。本当に不思議
です。「なるほど!」と納得するばかりではなく、感動しませんか。昔から受
け継がれているものには、それなりの意味があるわけです。また、こういった
ことを科学的に実証する先生がいらっしゃったのも、頼もしい限りではありま
せんか。
 
★★正月の食べ物★★
正月の食べ物というと、雑煮とお節料理でした。しかし、現代っ子は、雑煮や
お節料理を食べているでしょうか。先にもお話ししましたが私の子どもの頃は、
餅は正月しか食べられませんでしたから、楽しみであり、しかもご馳走でした。
今は、一年中、売っていますし、いつでも食べられますから、魅力の点で引き
つける力がないのでしょう。餅も季節感を奪われてしまった被害者です。非常
食としても優れものですけれど。
 
◇雑 煮◇
雑煮は、大晦日の夜に、神様をお迎えするためにお供えをした食べ物を、神様
と一緒に食べ、神様の力を授かる食べ物です。雑煮は、いろいろな具を入れ、
一緒に煮込んだものですが、必ず、青い葉っぱを入れるのが作法、決まりです。
この青い葉っぱが、子どもに嫌われるのではないでしょうか。しかし、これに
もきちんとした意味があるのです。「葉っぱを入れる」「菜を入れる」から
「名をあげる」「成功して名前が知られるようになる」に通じますから、青い
葉っぱを入れるのだそうです。
 
餅は本来、丸いものですが、東日本では四角に切った切り餅を、関西では丸い
餅を使っています。さらに、雑煮の作り方ですが、東京では、餅を焼いてから
椀に入れ、具や汁を入れますが、大阪では、ゆでてから椀に入れます。私は父
が関西の出身でしたから、ゆでるのに慣れていますが、焼いてから食べるのも
香ばしくておいしいものです。
 
雑煮については、織田信長に面白い逸話が残されています。ある年の元日の朝、
信長の雑煮の膳に、箸が片方しか添えられていなかったのです。あの短気な信
長のことですから、平穏に収まるわけがありません。しかし、怒り心頭に発し
た信長を、木下藤吉郎(後の太閤秀吉)が、「今年から諸国をかたはし取りにさ
れる吉兆でございます」と言い換え、ご機嫌が直ったそうです。そう言えば、
曽呂利新左衛門のとんち話(傑作な話がたくさんありますから、読んであげた
い本の一つです)の中に、病気見舞いに送られてきた松竹梅の盆栽が枯れたの
を見て落胆した秀吉を、新左衛門の機知で吉報に変えてしまう話があります。
世の中、めぐり合わせですね。
 
(次回は、「正月の食べ物」他についてお話しましょう)
 

2016さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第2章(4)12月に読んであげたい本

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第9号-
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第2章(4)12月に読んであげたい本
 
明けましておめでとうございます。
今年もご愛読の程よろしくお願い致します。
 
【十二月に読んであげたい本】
神さまの交代する月ですから、神さまの話が多いですね。あまりにも、たくさ
んあるので困りますが、これなどちょっと恐くて、面白いです。
      
◆おぶさりてえのおばけ◆
むかし、あるところに、正直で働き者の、じいと、ばあがいました。
二人は懸命に働きましたが、暮らしは楽になりません。
ある年越しの晩のことです。
寝ようとしたとき、裏山から重っ苦しく、「おぶさりてえ!」と叫ぶ声が聞こ
えたので、ばあが、「様子を見てきてくれ」というと、じいは、嫌だと布団に
もぐりこんでしまうのです。
声は、夜中になっても止めようとしません。
「『おぶさりてえ!』といっているから、おぶってやったらどうか」と、ばあ
がいうものだから、帯を持って出かけました。
山道を登って行くと、あの声がぴたりと止み、突然、そばの杉の木の天辺から、
「おぶさりてえっ!」
と、大声がしたので、じいは、頭をかかえて座りこんだのです。
すると、背中に、ずしんとおぶさってきたものがあり、おぶわれたきり、もう
何もいいません。
何とか庭までたどり着き、降ろそうとしますが、離れません。
台所でも、座敷でも、降りないので、「降ろしてくれ」と、ばあに声をかけま
した。
ばあが見ると、背中にのっているのは大きな石なので、あきれて背中に手をか
けると、自分から落ちたのです。
「この石は、おらたちの家に来たかったのだろう。家宝にしよう」と、二人で
床の間に運び、安心して寝てしまいました。
次の朝、その石はたくさんの大判小判に変わり、お金持ちになって、いい年越
しをしたのでした。
 世界のメルヘン 22 日本のむかしばなし 
   つるのよめさま  松谷みよ子・水谷章三 講談社 刊
 
これも、おかしな話です。普通は、福の神は歓迎されるはずですが、何と逆に
なるのです。
福の神にとっては初体験、その顔を思い浮べると、吹き出したくなります。
 
◆びんぼう神とふくの神◆   望月 新三郎 著
とんとむかし、あるところに、働き者のおやじとかかがいました。
朝早くから夜遅くまで働いたので、暮らしは次第によくなってきたのです。
ある年越しの晩、二人で正月の支度をしていると、泣き声がしたので、おやじ
が押し入れを開けると、ぼろを着た、やせたじじいが転げ出てきたのでした。
これが貧乏神で、「お前たちは働き者だから、福の神が来るので出ていかなけ
ればならない。それが悲しくて泣いているのだ」というのです。
「長年、おらの家に住んだ仲だから、福の神が来たら、追っ払ってしまえ」と
励まされたのです。
「貧乏神、早く出ていけ!」と福の神がやって来ました。
「しっかりと追い出せ!」と、二人の励ます声に、元気になった貧乏神、勢い
よく組みつきましたが、福の神は、びくともせず、貧乏神は押されるばかりで
す。
すると二人は、貧乏神の後から押しはじめました。
これには福の神もたまらず、引っ繰り返され、「福の神を追い出す家など初め
てだ!」と逃げ出しました。
戸口の前に打出の小槌が落ちていたので、貧乏神が拾い、「米、出ろ! 金、
出ろ!」とふると、米や小判が、たくさん出てきたのです。
それからというもの貧乏神は、福の神のようになり、いつまでも、この家で暮
らしたのでした。         
 日本むかしばなし 2
  子どものすきな神さま 民話の研究会 編 巽 弘一 絵
    ポプラ社 刊
 
12月といえば、私には忘れられない歴史的な事件、といってもかなり脚色さ
れた話になっていますが、四十七名の赤穂浪士が、主君、浅野内匠頭(たくみ
のかみ)の仇を討った「忠臣蔵」があります。
8月に出てきますが、広島に原子爆弾が落とされた時、岡山と兵庫の県境にあ
る赤穂市に住んでいたせいもあるかもしれません。
戦前は、小さな子どもでも知っていた話ですが、今はどうでしょうか。
こんな話が残されています。
 
◆キツネも喜んだ討ち入り◆
京都の紫野の南に、狐の霊を祭る小さな社があり、「忠臣蔵」で知られる兵庫
県の赤穂の殿様、浅野内匠頭(たくみのかみ)が建てたもので、浅野神社ともい
われています。殿様の恨みを果たそうと、家老、大石内蔵助(くらのすけ)以
下、四十七名の浪士が、江戸の本所松坂町にあった吉良上野介(こうずけのす
け)の屋敷に討ち入り、仇をとったのは、1720年(元禄15年)の12月
14日の夜でした。
同じ日の深夜、浅野神社の境内に数百人の人々が集まり、にぎやかな踊りが始
まったのです。
「こんな夜更けに何事か!」と近くに住む人々は驚いて神社まで行って見ると、
数え切れないほどのキツネ達が、社を取り巻き、後ろ足で立ち上がりながら、
前足を手のように打ち振り、踊り狂っていたのです。
家を飛び出してきた人々は、びっくりしてしまいました。 浪士が討ち入りを
果たした事件が京に伝えられたのは、三日後のことです。それなのに、同じ日
の夜に、何百キロも離れた京のキツネ達は、霊力でそれを知って喜び、踊って
いたのです。
「キツネというのは、本当に魔物じゃ。不思議なことじゃのう……」
キツネ達の踊りを見た人々は、後にそういって、キツネの霊力に感心したとい
う話です。
(「雪窓夜話抄 上野 忠親 著」
  必ずその日のお話がある  365のむかし話  
   谷 真介 編・著 講談社 刊)
 
当日、雪が降っていたかどうかわかりませんが、14日ですから満月であった
ことは確かです。今読んでいる井沢元彦氏の「逆説の日本史 全17巻」の受け
売りですが、本能寺の変が起きた天正10(1582)年6月2日は月の姿は
ない闇夜で、そのために隠密に行動でき成功したとありますが、月の運行の様
子から遠い昔の事件の夜空を想像できるとは知りませんでした。(笑)  
 
最後は、どうしても、この話に出てもらわなければ、おさまりがつきません。
おじいさんが、笠を売りに行ったものの、まったく売れなくて、お地蔵様にか
ぶせてあげる話が多いのですが、私は、この話が好きです。おじいさんの見返
りを求めない無償の奉仕に、お地蔵様が応えてあげるのがいいですね。こうい
うことって、ありそうでないのが現実ですが、あってほしいと願う、庶民の素
朴な望みです。
育児も同じです。「あなたのために、お母さんはこんなにしてあげたのに…」。
育児は、有償の奉仕ではありません。見返りを期待しはじめると、親子の絆は、
切れがちではないでしょうか。「無償のほほ笑み」は、親の宿命です。みなさ
んのご両親が、そうであったように、巡り合わせです。「子を持って知る親の
恩」と言うではありませんか……。しかし、最近では、早期教育やお受験にか
かわると、「塾に通い始めて忘れる子どもの心」とも言われているようです。
子どもは、決して、断じて、絶対に、お母さんだけの宝物ではありません。
 
◆かさ地蔵◆   浜田 廣介 著
むかしのことです。
ある所に、じいと、ばあが住んでいました。
もうすぐお正月、貧乏でも年越しの晩に魚っ気がなくてはと、じいは、さけの
頭を買いに出かけたのです。
雪が降り、風も吹き始め、道端の六つのお地蔵さんの頭は、雪をかぶって寒そ
うに立っています。
石のお地蔵様でも、かわいそうだと、手でかき落としますが、すぐに積もって
しまいます。
そこで、じいは、町まで急ぎ、さけを買うのは止めてすげ笠を買ったのですが、
お金が足りず、五つしか買えません。
じいは、頭に一つずつ笠をかぶせ、足りない分は、自分の古い笠をかぶせてあ
げたのです。
帰ったじいは、さけを買わない訳を話すと、よいことをしたと、ばあも喜びま
す。
夜が明けると、大晦日。
二人は、麦飯を分け、菜づけに熱いお湯をかけて、塩気をすすって食べ、無病
息災で年を越せるこ
とを感謝し、火箱を抱いて寝床に入ったのです。
すると、どこからともなく、唱える声が近づき、ドシン、ドシンと重い響きが、
枕元まで響いてきました。
二人は恐くなり、布団をかぶって震えていました。
地響きと声は、庭先に入ってきたのです。
何やら話し声がしたかと思うと、かけ声と共に「ドシン!」と大きな音がして、
後は何の音もしません。
眠気も拭き飛んだ二人は、寝床でじっとしていました。
やがて、夜明けを知らせる三番鶏が鳴いたので、じいは戸を開けてみると、大
きな袋が置いてあり、中には金貨と銀貨が、ぎっしりとつまっていたのです。
六人のお地蔵様が、笠のお礼に袋をかつぎ、大地を踏みながら運んできたので
した。
 世界民話の旅 9
 日本民話  浜田 廣介 著 さ・え・ら書房 刊
 
お地蔵さまは、お釈迦さまが入滅後、弥勒菩薩さまが生まれるまでの間、人々
を救済する菩薩さまで、正しくは地蔵菩薩さまといい、仏さまの仲間なのです。
あのやさしいお顔から民間信仰に結びつき、村や子どもなど弱いものを守って
くれると信じられ、村の入口や街道筋などに、たくさん立てられるようになっ
たのでした。
この話に出てくる「六地蔵」とは、
地獄道(地獄で苦しむこと)、
餓鬼道(常に飢餓に苦しむこと)、
畜生道(けだものの姿に生まれて苦しむこと)、
修羅道(争いの絶えない世界で苦しむこと)、
人道(人の踏み行う道を外れて苦しむこと)、
天道(超自然宇宙の道理から外れて苦しむこと)
という六道に迷う人々を救済する願いがこめられているのです。
 
学生時代、京都の浄瑠璃寺へ歩いて行った時、途中の山道でたくさんの石仏と
出会い、感動したことがありました。今は、バスで山門までいけますから、見
過ごすかもしれません。浄瑠璃寺は、薬師仏とそれを祀る何とも素朴ですばら
しい三重塔、横一列に並んでいるどっしりと存在感のある阿弥陀仏九体とその
本堂、宝池を中心とした庭園が、平安時代のまま揃っている唯一の寺で、奈良
にある女人高野と呼ばれていた室生寺と同様、一人で訪ねたい寺です。名刹を
散策するには、晩秋から初冬がいいですね。
(次回は、「何といっても正月ですね」についてお話します)
 

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