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めぇでるコラム : 2018保護者: 2017年4月
さわやかお受験のススメ<保護者編>第7章(2) 端午の節句です
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「めぇでる教育研究所」発行
2018さわやかお受験のススメ<保護者編>
~紀元じぃの子育て春秋~
「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
豊かな心を培う賢い子どもの育て方
-第25号-
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第7章(2)端午の節句です
★★なぜ、菖蒲湯なのでしょうか★★
昔は、今のように風呂のある家は、少なかったものです。銭湯といって、お金
を払い、みんなと一緒に入りました。大勢の人が入りますから湯船も広く、そ
こへ、どっさりと菖蒲を入れるのですから、その香りでいっぱいになります。
菖蒲が邪気を払ういわれは、中国の古くからの言い伝えで、王様が殺した不忠
の家来の魂が、毒蛇となって災いをもたらしたので、香りが強く、頭のところ
が赤く、青い葉の形が蛇に似ている菖蒲を酒に入れて飲んだところ、悪魔を降
伏させる術を授かり、蛇を退治した話によるものです。昔は節分の時に、玄関
に柊や鰯の頭を飾りましたが、あれと同じです。鬼や悪魔は、香りの強いもの
を苦手としていました。そういえば、ヨーロッパのモンスターの代表ドラキュ
ラの苦手とするものは、十字架と太陽とにんにくです。世界中の妖怪は、香り
や匂いの強いものに弱い共通点がありますが、朝鮮半島に住む妖怪は、にんに
くに弱くないでしょうね。
また、菖蒲が侍の家で大切にされたのは、武芸、軍事などを尊ぶ「尚武(武芸、
軍事などを尊ぶこと)」と同音だからでした。
燕子花(かきつばた)は菖蒲(あやめ)と花がよく似ているため、「源氏物語」のな
かで、―いずれがあやめか、かきつばた―と書かれて以来、酷似していること
をいう雅言(がげん)となった。万葉集では加吉都播多(かきつばた)、安夜
女具佐(あやめぐさ)とはっきり区別されている。
(花暦「花にかかわる十二の短編」P121 澤田ふじ子 著 徳間文庫 刊)
万葉仮名は、漢字本来の意味から離れて、仮名のように読みますから面白いで
すね。
雅言は、「洗練された言語、特に和歌などに用いられる古代、特に平安時代の
言葉」(広辞苑)で、「いずれがあやめか、かきつばた」は、美人が大勢いて
優劣がつけられないたとえだと、軽薄に思い込んでいたのですが、美人に限ら
ず、選択に迷うことのたとえなんですね(笑)。かきつばたは、今は「杜若」
と書きますが、難しくて読めません。タレントの出るクイズ番組で、こういっ
た難しい字を、何の苦もなく読む方がいますが、マルチタレントというのでし
ょうか、多才ですね。
なお、あやめは、きれいな花を咲かせる花菖蒲のことで、葉は剣型で似ていま
すが、菖蒲湯として用いられることはありません。以前、「26日のクリスマ
スケーキ」を紹介しましたが、同じ意味で「6日の菖蒲」があります。
菖蒲が6日に届いたのでは、節句に間に合わないので、そこから「時期に遅
れて間に合わないこと」をいうそうです。
(知らない日本語 教養が試される341語 P321 谷沢 永一 著
幻冬社 刊)
読むたびに教えられることばかりだった博識の先生は、亡くなられて6年にな
りますが、英文学者、渡辺昇一先生も先日、冥界へ旅立ちました。お二人の対
談集を時々読み返していますが、その度に肯かざるを得ない話題にあふれ、刺
激を受けるのは、失礼な言い方で気が引けますが、勤勉であった両先生の性格
が表れたものだと圧倒されてしまいます。どんなお話をしているでしょうか。
(合掌)
★★粽(ちまき)のルーツは……?★★
物事には、何事も訳ありで、端午の節句に粽を作るのは、このような言い伝え
があるのです。(以下、抄訳です)
屈原(くつげん)は、楚の時代に、人々に愛された清廉潔白な憂国の詩人で、淵
に身を投げ、命を絶った人ですが、そのなきがらを守り屈原の故郷まで運んだの
は鯉でした。
その日が、紀元前278年5月5日。
命日になると、楚の人々は、竹の筒に米を入れて川に投げ、屈原の霊に捧げ、無
事に運んでくれた忠義な鯉に、感謝の気持ちを表したのです。
ところが、屈原の死後、300年経った時のことです。
ある人の所に、他人に身をやつした屈原が現われ、投げ入れてくれる竹筒の米は、
淵に棲む主である竜に全部食べられてしまうので、竜の恐れる「楝(おうち)の葉
っぱ」で米を包み、五色の糸で結んでほしいと告げたのです。そこで、屈原をと
むらい、鯉に感謝してつくった「楝の葉で包み、五色の糸でしばった米」が、粽
の始まりです。
楝は、栴檀(せんだん)の昔の言い方で、香りがあるので虫もつかず、竜も嫌い
であったのです。粽は、古くは「茅(ちがや)」の葉で巻いたから「ちまき」とい
い、五色の糸は、鯉のぼりの吹流しにも出てきましたが、竜の恐れた色です。端
午の節句に粽を作るのは、このような言い伝えがあるのです。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P110-113)
私が知っている粽は、笹の葉で巻いたものでした。
そして、驚いたことに、毎年、6月の第1日曜日に長崎で行われている「竜船
競渡(けいと)ドラゴンレース」は、淵に身を投げた屈原を、一刻も早く救う
ために、速く舟を漕ぐことを争うイベントなのです。
鯉のぼり、粽、競渡、いずれも、今からおよそ二千年前の中国の戦国時代にあ
った出来事が、現在まで伝えられているなどとは信じがたいのですが、本当の
話です。楚の項羽が漢軍に包囲されたとき、周囲から楚の歌ばかりが聞こえて
くるので、楚の人々が漢に降伏したのかと驚いた故事「四面楚歌」、あの時代
です。司馬遼太郎の「項羽と劉邦」(3巻 新潮社刊)は読みやすく、解説が
谷沢永一先生であることも嬉しいですね。
故事、ことわざ、慣用句、私たちの祖先が残してくれた英知でもあるのですが、
書物の中で、イライラしながら出番を待っているのではないでしょうか。簡単
に手に入り、利用できる貴重な文化遺産でもあるのですが……。
栴檀はビャクダンの異称ですが、「栴檀は双葉より芳し」といって、発芽の頃
から早くも香気があるように、大成する人物は、幼いときから人並みはずれて
優れたところがあるたとえに用います。同義語として、「実のなる木は、花か
ら知れる」や「蛇は寸にして人を呑む」があり、対義語は「大器晩成」です。
ちなみに英語では、「栴檀は双葉より芳し」は
“It early pricks that will be a thorn”(茨になる木は早くから刺す)、
「大器晩成」は
“Who goes slowly goes far”
がわかりやすいですね。
ところで、楚辞(楚の地方において謡われた詩の形式 全17巻)に、屈原
と漁師の面白い話があります。最後の3行ですが、清廉潔白な屈原の嘆きに
対し、
「滄浪の水が清らかに澄んだときは、自分の冠のひもを洗えばよい。もし滄
浪の水が濁ったときは、自分の足を洗えばよい」と小舟の船ばたを叩きつつ
歌いながら水の上を去っていったそうですが、清濁を合わせて呑んでしまう
私は、漁師の歌に納得してしまいますね。単なる怠け者の、いい加減な生き
方ですが(笑)。
(要訳 「大河の一滴」P40 五木寛之 著 幻冬舎 刊)
注 滄浪 あおあおとした波 中国湖北省を流れる漢水の一部の異称
コトバンクより
言い訳になりますが、学生時代、中国文学の野口定男教授から老子の「水は
万物を潤し、利を与え、自分を主張することなく、器に添って形を変え、対
立せず争わない。流れに逆らわず、無為自然の生き方」を教わり、かくあり
たいと生きてきましたが、凡人の私には「難しい!」の一言でしたね。先生
は、砂押監督に鍛えられた長嶋、杉浦、本屋敷などが活躍し、立教大学野球
部の黄金時代を築いた時の部長で、生意気盛りの私たちともよく酒を飲んで
説教をしてくれたものです。今、こういった教授はいないのではと思います
ね。当時、幻の銘酒といわれ貴重な酒であった「越乃寒梅」(新潟産)を飲
ませてくれたのも先生で、もう55年前になりますが、学生時代を懐かしく
思い出しました。(感謝)
★★柏餅のルーツも中国ですか★★
今は、粽よりも柏餅が、メインです。これも中国から伝わってきたと思って
いましたが、何と、日本生まれなのです。
柏の木は新芽が出ない限り古い葉は落ちないので、家系が絶えないという縁
起をかついで柏の葉で包んだ柏餅を食べる。
柏餅は、楝(おうち)の葉の代わりに柏の葉を使ったことから生まれたもので、
江戸時代中期頃に作られたといわれている。柏の葉の表を外にするのが味噌
入り、裏を表にするのが餡入りという。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P113)
私の子どもの頃にもありましたから覚えていますが、柏餅の中身は、あんこ
だけではなく、味噌もあり、柏の葉っぱの表を外にしてあるのは味噌が、裏
を外にしてあるのにはあんこが入っていました。
ところで、子どもの頃に歌った懐かしい歌に「背くらべ」があります。最後
に、富士山の出てくるところがすごいですね。
背くらべ
作詞 海野 厚
作曲 中山 晋平
(一)柱のきずは おととしの 五月五日の背くらべ
ちまき食べ食べ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ
きのう比べりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ
(二)柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える 遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして てんでに背伸び していても
雪の帽子を ぬいでさえ 一はやっぱり 富士の山
粽のわからない子が、増えているのではないでしょうか。鉄筋コンクリート建
てでは「柱」も見あたりませんし、きずが残るほど背比べをする兄弟、姉妹も
いないでしょうね。もう、この歌も歌われていないような気もします。
音楽など勉強しなくてもいいと思われているようでしたら、それは間違いです。
その歳、その時でなければ歌わない、大切な歌があります。それは、成長をつ
づる「心の歌」です。
小学校時代に母と一緒に歌った歌は、童謡と唱歌だけでしたから、今でもその
歌を覚えています。
お父さん、お母さん、思い出してください。小学校時代に歌った歌に、思い出
は残っていませんか。なかったとしたら、やはり、不幸なことではないでしょ
うか。勉強だけやっていればいい子といった教育観は、子どもの心をゆがめて
いることを、もっと真剣に考えましょう。
ビートたけしさんは、「いかに小学唱歌がすぐれていたかわかりますよ。あん
な格調高い詩なんて今はどこを探したって出てきやしないもの」(「だから私
は嫌われる」P10 ビートたけし 著 新潮社 刊)と、若いタレントたち
の言葉を駆使した表現力の幼さを切り捨てていましたが、言葉と思考力は、同
格だと思います。私たちは、言葉で考えているのですから。
若者に人気のある漫画、訂正、子どもから大人まで夢中になって読んでいる漫
画、「ギラギラ」「ガンガン」「バキューン」など騒々しい擬声語、オノマト
ペというそうですが、言葉がなくても話は通じるようですね。それが言葉の代
役を果たしているのですから、読みこなしているならば、表現力も豊かになる
はずですが、逆に、低下する一方ではないでしょうか。言葉や文章で表現する
ことが、いかに大切であるかを知るのは、多くの場合、社会に出てからのよう
です。またしても出てきましたが、「学生時代に、もっと勉強をしておけばよ
かった!」、こうなりがちです。「後悔、先に立たず」、わかっているのです
が、わかったときは手遅れなんですね(笑)。類義語は「転ばぬ先の杖」、ち
なみに英語では、
“Repentance comes too late”「後悔しても手遅れ」
(故事ことわざ辞典より)だそうです。
注 オノマトペ(onomatopee)擬声語を意味するフランス語
擬音語 ドカーン サラサラ ワンワン等
擬態語 ツンツン デレデレ ニヤニヤ等
約4500語あるそうです。(「日本語 オノマトペ辞典」より)
昨年1月に松屋銀座で開催された「第31回私立小学校児童作品展 ほら、で
きたよ」で、学習院初等科が「オノマトペ」の映像化に挑戦、発想がユニーク
で見応えがありました。初等科のHPを開き「初等科NEWS」をクリックす
ると作品の一部をみることができます。今年の作品が紹介されていると思いク
リックしましたが、まだ展示されておらず、これも大変楽しかった第30回の
「12の月の物語」が掲載されていました。傑作です。
ところで、「一家の大黒柱」、この言葉も、あまり耳にしなくなりました。父
権喪失は、子どもにとって、決してよいことではありません。母親の強いのは、
善し悪しだと思います。日本史の面白いことを教えてくれたのは、司馬遼太郎
と英文学者の渡辺昇一先生ですが、先生は、こうおっしゃっています。
父親の権威はどうやって作るか。これは幼い時に悪いことをしたら、きちんと
叱るということですね。子どもは悪いことをしてひっぱたかれれば、どこか心
の深いところで気持ちいいんです。「叱られたい」という欲求を持っているので
す。そして、さらに大切なのは、母親が父親のことを「立派な仕事をしている
んだ」と、子どもに言い聞かせ続けることです。それと同時に大切なのは、小
さい頃から、かわいがられて育てられたという記憶です。その記憶があるから、
子どもは自制する。親に迷惑かけてはいかんと思う。だから、子どもが小さい
頃は母親がそばにいてあげるほうがいいということなんです。
(今、「エリートの罪」を裁くとき 誰が国賊か P254
谷沢永一 渡辺昇一 著 文春文庫 刊)
お断りしておきますが、「母親がそばにいてあげるほうがいい」といっても、
過保護、過干渉になってはダメだということです。また、子どもの前で、お父
さんの悪口をいったり、やっつけてしまうお母さん方もいるようですが、子ど
もにとってつらく悲しいことに、どうして気づかないのでしょうか。逆も同じ
ですが、強いお父さんは少なくなっているようです。男の節句であるにもかか
わらず、何やら暗いムードになってしまいました。「頑張れ、お父さん!」と、
エールを送っておきましょう。
★★鍾馗さまって、わかりますか★★
ひな祭りには、おひな様を飾りましたが、男の節句は、鯉のぼりだけではあり
ません。外には旗やのぼり、家には、かぶとや武者人形も飾りました。武者人
形は、男らしい姿と気性にあやかりたいと願って飾られたものですが、私の頃
の人気者は、大きな目をして黒いひげを生やした鍾馗(しょうき)でした。今
は、どうでしょうか。金太郎、桃太郎は、よく見かけますが、最近、鍾馗は見
られなくなったようです。
鍾馗は、中国の魔除けの神さまで、かの有名な玄宗皇帝(唐の時代)が、病気に
かかり夢うつつの時に、皇帝と楊貴妃が大切にしていた宝物を盗み、逃げよう
とした悪い鬼を退治。目を覚ました皇帝は、熱も下がり、病気も治っていたの
で、夢で見た姿を口述しながら描かせたのが鍾馗だそうです。三国志の英雄、
関雲は鍾馗のようだと想像しています。このような豪傑は、今風ではないので
しょうか。
ところで、マリアの教えを建学の精神とする男子だけの学校でサッカーの強い
暁星小学校は、「鍛える教育」を実践していますが、その具体的な目標として、
桃太郎や金太郎など日本昔話のキャラクターである「気は優しくて力持ち」を
掲げています。
やはり、幼いこの時期にこそ昔話をたくさん読んであげ、正義感や弱い者いじ
めをしてはいけないことを、きちんと学習すべきではないでしょうか。
(次回は、「竜とドラゴン 他」についてお話しましょう)
さわやかお受験のススメ<保護者編>第7章(1) 端午の節句です 皐月
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「めぇでる教育研究所」発行
2018さわやかお受験のススメ<保護者編>
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「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
豊かな心を培う賢い子どもの育て方
-第24号-
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第7章(1) 端午の節句です 皐 月
物の本によると、皐月(さつき)のいわれは、この月は田植えをする時期で、
早苗(さなえ)を植える「早苗月」から「さつき」となったそうです。「五月
晴れ」と書いて「さつきばれ」と読みますが、こちらの方が親しみやすいです
ね。
★★端午の節句★★
5月といえば端午の節句、別名「菖蒲の節句」。端午の「端」は「はじめ」と
いう意味で、最初の午(うま)の日のことですが、午の音読みが「ご」であるこ
とから、5月の5日が端午の節句として祝われるようになりました。また男の
子が初めて迎える端午の節句を初節句といい、健康で、たくましい男性に成長
することを願う行事で、事の起こりは江戸時代だそうです。昔は3月3日が
「ひな祭り」で女の子の節句、5月5日を男の子の節句として祝ったものです
が、今は男の子も女の子も元気よく育つようにとお祝いする「子どもの日」の
方が、なじみやすいのではないでしょうか。床の間に、さまざまな幟(のぼり)
を背にした神武天皇を中心に、武者人形や兜(かぶと)を飾った記憶がありま
す。
枕草子にも、平安時代の5月5日の情景が描かれています。
節は、五月にしく月はなし。
菖蒲、蓬などのかほりあひたるも、いみじうをかし。
(枕草子 第四十六段)
以前にも紹介しましたが、五節句を定めたのは江戸幕府で、端午の節句のルー
ツは、お武家さん、お侍の世界です。お侍さんの家では、立派な侍になるよう
に、鯉のぼりを立て、鎧(よろい)や兜、鍾馗(しょうき)や金太郎、桃太郎
のような勇ましい人形を飾って武運長久を祈り、お家安泰を願ったのです。そ
れがいつの頃か定かではありませんが、家を継ぐことになる男の子の誕生と成
長を祝うための節句として、一般庶民の中にも定着したもので、戦いから身を
守る兜や鎧を飾り、端午の節句に欠かせない風物詩となっているのです。その
経緯は、5月に読んであげたい本で紹介しますが、伝説「コイのぼりのはじま
り」に記されています。この日に、家の屋根や軒先に、菖蒲の葉や蓬をのせた
り、菖蒲を入れた風呂に入ったりしたものです。それで、この日を「菖蒲の節
句」ともいいます。
今では、軒先に菖蒲の葉や蓬を見ることはできませんが、男の子のいる家では、
菖蒲湯をやっているのではないでしょうか。スーパーマーケットなどで菖蒲を
売っていますから。
菖蒲湯に入って、菖蒲の根っこを額に当て、鉢巻きをしたものです。こうする
と、風邪を引かなくなるし、頭もよくなるといわれたのです。確かに、匂いが
強いですから、風邪薬の感じはありましたが、頭脳明晰になるとは、子ども心
にも信じていませんでした。どちらかといえば、けんかに強くなるイメージは
ありました。菖蒲の葉は、先が細長くとがっているので、刀のような感じがす
るからです。新聞紙で折ってもらったかぶとをかぶり、木で作った刀でちゃん
ばらごっこ。これが、私たちの遊びの定番でした。「ちゃんばら」は、「チャン
チャンバラバラ」の略で、歌舞伎の立ち回りや、映画の殺陣(たて)をまねた
ごっこ遊びのことですが、今どき、こんな遊びをする子はいないでしょうね。
余談ですが、お母さん方、兜を折れますか。パソコンで「兜の折り方」を検索す
ると、簡単なものから複雑なものまでヒットできます。孫のリクエストで18
工程もある兜に挑戦しましたが、これは難しい。最後に「お疲れ様でした!
最後までありがとうございました」のコメントの下に、さんざん失敗した紙を
足元に散らかした女性が、パソコンの前でうなだれている写真が載っていまし
たが、これが傑作で、思わず笑ってしまいました。中々うまく折れませんから、
ほっとしますね(笑)。(「折り紙 かぶとの折り方 NAVERまとめ」より)
そして、私には楽しみでしたが、粽や柏餅を食べる日です。粽や柏餅は、おい
しかったのですが、蓬で作った草餅は、子どもにとっては匂いが強烈で、喜ん
で「頂きます」とはなりませんでしたが、何しろ蓬の葉には、悪魔を追い払う
力があるといわれ、私は男の子だけに、食べざるをえない雰囲気があり、否応
もなかったのです。しかし、今の蓬の草餅は、おいしいですね。匂いといい、
味といい、まるで違ったものを食べている感じがします。
★★なぜ、鯉のぼりなのでしょう★★
鯉は硬骨魚で、鱗(うろこ)が36枚あるといわれ、別名、六六魚(りくりく
ぎょ)と呼ばれているそうですが、実際には31枚から38枚ほどで、泥沼の
川や池に棲み、2本の口ひげを備え、食用、観賞魚として珍重されるばかりか、
立身出世の象徴ともされています。
「なぜ、鯉のぼりなのか」、その理由は文部省唱歌に歌われています。鯨はい
くら体が大きくても、鮫はいかに強そうだからといっても、端午の節句の主役
になる資格はありません。
その答えは、3番の「百瀬の滝」を昇って竜になるにありそうです。
鯉のぼり (文部省唱歌)
作詞 不明
作曲 広田 竜太郎
一、いらかの波と 雲の波 重なる波の 中空を
橘かおる 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり
二、開ける広き その口に 船をも呑まん 様(さま)見えて
ゆたかに振う 尾鰭(おひれ)には 物に動ぜぬ 姿あり
三、百瀬の滝を 昇りなば 忽(たちま)ち竜に なりぬべき
わが身に似よや 男子(おのこ)ごと 空に躍るや 鯉のぼり
中国の黄河の中流にある竜門の滝には、下流からいろいろな魚が、群れをなして
さかのぼってくるそうです。見たわけではありませんが、何しろ清流逆巻く滝で
す。他の魚達は、ギブアップしても、鯉だけは滝を昇りきって、竜になる言い伝
えがあり、そこから出世する糸口となる関門を「登龍門」といい、「鯉の滝昇り」
として、立身出世のシンボルとなったのです。流れに水をさすようですが、昇り
きれない鯉もいたのではないでしょうか。納得できる言葉があります。
「点額」という言葉があり、これは『額にケガをする』という意味で、流れを
昇らずにケガをした魚にたとえ『落伍者』『落第生』のことを表しています。
(目からうろこ!日本語がとことんわかる本 日本社 講談社 刊P134)
また「鯉の一跳ね」といって、水揚げされた鯉は一度跳ねるだけで、あとはじた
ばたせずに生きており、しかも「まな板の鯉」といって、まな板の上にのせられ
ても、きっちり覚悟を決め、悠々と横たわっている姿から、潔い、強い魚として、
お侍さんから尊ばれていたのです。川に潜り鯉を捕まえる時は、両手で胸に抱く
ようにするとじっとしている話をリバーツーリスト野田知佑氏の随筆で読みまし
たが、この習性を狙ったものでしょうか。
そして「五月の鯉の吹き流し」といい、鯉のぼりの中は空っぽで、何も入ってい
ません。さわやかな風を腹いっぱいに流し込んで泳ぐ、はらわたのないのびやか
な姿が「腹黒く」もなく「腹に一物」もない、さっぱりとした男らしい気性を表
しています。ですから、男の子の節句には、世の中で役に立つ、たくましくて立
派な人物になってほしいとの願いをこめて、鯉のぼりを立てたのです。
ところで、鯉のぼりの一番上に飾る「吹き流し」は、滝や雲をなぞらえたもので、
風になびきながら泳ぐ鯉の姿を、美しく引き立てています。吹き流しは、青、赤、
黄、白、黒の五色で、木火土金水の五行を表わしています。五行とは、簡単にい
えば、古代中国で考えられていた、人間の生活に必要な材料を表したものですが、
これにも訳があります。
五行とは、木・火・土・金・水の5つの要素で、自然界、人間界のすべての現
象をつかさどるものとする。木から火、火から土、土から金、金から水、水から
木が生まれ、水は火に、火は金に、木は土に、土は水に勝つとする。
そして、それぞれを表す色として木に青、火に赤、土に黄、金に白、水に黒が
あてられたが、後に最上の色とされる紫に変わり用いられるようになった。
また、木には仁、火には礼、土には信、金には義、水には智という道徳観があ
てられた。
(日本の年中行事百科3 夏 民具で見る日本人のくらしQ/A P32
監修 岩井 宏實 河出書房新社 刊)
この五行には、病気を引き起こすもとと考えられていた「邪気」を払う力がある
と信じられていました。しかも、鯉をとって食おうとする竜は、この五色が大嫌
いだったそうです。ですから、竜は近づくことができず、鯉は五色の吹き流しに
守られ、五月の空を、さわやかな薫風にのり、悠々と泳いでいるのです。最近は、
黒に代わって緑や紫が使われていますが、黒と白では縁起が悪いからではなく、
本来、黒でなくてはいけない理由があるわけです。そういえば、船旅で別れを惜
しむときに、五色のテープを使っていますが、もしかしたら、海に棲むといわれ
ていた竜から、身を守るためのセレモニーかもしれません。
しかし、最近は郊外に出ないと、悠々と泳ぐ鯉のぼりの姿を見かけなくなりまし
た。端午の節句が、子どもの日と改められても、男の子の健やかな成長を願う親
心には、変わりはないと思うのですが。マンションや団地のベランダに小さな鯉
のぼりが泳いでいると、「やっているな!」とほほえましくなります。
プロ野球の好きな方へ、広島東洋カープは、なぜ「カープ(鯉)」なのでしょうか。
命名の由来は、何と城の名前です。原爆ドームのすぐそばにある広島城(築城
毛利輝元)は、別名を「鯉城(りじょう)といい、そこから『広島カープ』となっ
たもので、城の名前をつけている球団は、他にありません。原爆で倒壊した天守
閣は、昭和33年に復元されましたが、学生時代に訪れた時、中御門跡付近には
原爆でこげた石垣があり、風化されてなるものかと訴えているような気がしまし
た。G7の外相、オバマ大統領が爆心地を訪れましたが、どこかの国の方こそ、
広島平和記念資料館に足を運び、並の神経では正視できない残虐非道、その記録
を見るべきではないだろうか。死者14万人、その倍以上の人間をどうやって殺
し、死体を処分したのか、私にはわかりませんが、南京大虐殺、若い皆さん方は
どう考えますか。
話題を変えて、今年の日本人の大リーガー、投手ではヤンキースのマー君、レン
ジャーズのダルビッシュ有、マリナーズの岩隈、ドジャースの前田、そしてカブ
スの上原。打者ではマーリンズのイチロー、日米通算で参考記録とはいえ、ロー
ズの4256本を抜き4257本で1位、何とも素晴らしい。ちょっと心配な
「山椒は小粒でもピリリと辛い」的な存在、ちなみに英語では、
“Small head but great wit”というそうですが、ブルーワーズの青木。
ところで、日本球界に復帰した選手が、満足に働けない姿を見るにつけ、本場の
野球のすさまじさを想像できます。日程と試合数を見ただけでも、エネルギーを
搾り取られる感じがしますから、技術の前に体力と精神力、これが秀でていなけ
れば活躍する場はないですね。イチローの凄さがわかります。古巣に帰ってきた
ムネリンこと川崎、頑張ってほしいですね。
大リーガーといえば、忘れてならないのは野茂英雄投手で、日本の野球界は、快
く渡米させなかったことを思い出します。とかく開拓者には、逆風が吹きがちで
すが、それを乗り越える実力も、精神力も、体力も備えた、すばらしい選手でし
た。彼には国民栄誉賞をもらう資格が十分あるのでは。「名球界ベースボールフ
ェステバル2016」で、例のトルネード投法を久しぶりに見ましたが、少し太
ったとはいえ、往年のしなるようなホームは、全く変わっていないのには脱帽し
ました。
かつて名勝負といわれた野茂と清原某、対決を見たくて西武球場へ足を運びまし
たが、無冠の帝王の名が泣いていますね。父親は、子どもにとって限りなく大き
な存在。消すことのできない傷、誰が癒すのか。
「鬼平犯科帳」の著者、池波正太郎は、「自由というものは人間の社会生活には
なく、個人の胸の内に大きく存在する」(「男のリズム」P167 角川文庫刊)、
国府台女子学院 平田史郎学院長は、「訓練されていない個性は野性である」と
おっしゃっていますが、こういったことをキチンと子どもに教えるのも、私たち
親の務めではないだろうか。偉そうなことをほざいてなんですが。(苦笑)
お詫び 前号で紹介しました松本清張の作品、題名を飛ばしてしまいました。
『神と野獣の日』です。
今朝(18日)、パソコンを立ち上げ、渡部昇一先生の訃報を知りガックリ。日本
の歴史を通史として読ませて頂き、以来、「正論」を説く情熱に圧倒され、新聞の
使命は『正確な情報を伝えること』をしっかりと教えて頂きました。先に冥界入り
した矢沢永一先生と、日本の現状を痛烈に批判し合っているかも知れません。享年
86歳、ご冥福をお祈り申し上げます。(合掌)
(次回は、「第7章(2) なぜ、しょうぶ湯なのでしょうか」などについてお話しましょう)
さわやかお受験のススメ<保護者編>第6章(4)四月に読んであげたい本
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「めぇでる教育研究所」発行
2018さわやかお受験のススメ<保護者編>
~紀元じぃの子育て春秋~
「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
豊かな心を培う賢い子どもの育て方
-第23号-
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第6章(4)四月に読んであげたい本
羽生結弦選手といい、内村航平選手といい、年甲斐もなくシビレました。精進
する若者、素晴らしいですね。元気をもらいました。年寄りも応援しています
よ、頑張れ!
真央ちゃん引退……、残念だけど、お疲れ様としか言いようがないですね。本
気になって応援したのは昨年8月になくなった体操のベラ・チャスラフスカと
真央ちゃん。でも、これからは血圧の心配をせずに、楽しくアイスショーを見
られそうです(笑)。
落語の「野ざらし」に、よく似た話です。「親切は、人のためならず」といっ
たものですが……。子どもでさえわかる悪いことをやっている大人の多い世の
中ですから、「渡る世間は鬼ばかり」で、「地獄の沙汰も金次第」では、こう
いうおじいさんは、いなくなるでしょう。
◆むすめのしゃれこうべ◆ 小沢 清子 著
むかし、あるところに、村人から用事を頼まれては、わずかな礼金をもらい生
活をしている、じいさまがいました。
ある年のお釈迦さまの日に、酒を飲もうとしていたところへ、急ぎの使いを頼
まれ、ひょうたんに酒を入れて出かけました。野には、かすみがかかり、桜も
菜の花も、今が盛りと咲いています。「花見酒」としゃれたじいさまは、桜の
木の下に座ると、しゃれこうべがころがっていたのです。じいさまは、出会っ
たのも縁と思い、しゃれこうべに酒をたらして一緒に飲みました。
その帰りに同じ所へさしかかると、年の頃、十六、七の美しい娘がいたのです。
三年前に花に誘われ、ここまで来たが、胸が苦しくなり死んでしまい、今度、
三年忌の法事があるので、一緒に家まで行ってくれないかと頼まれます。花見
酒を飲んだしゃれこうべが娘だったのです。
行ってみれば、大きな屋敷で、尻込みするじいさまは、娘にせかされ屋敷に入
ったのですが、不思議なことに、じいさまの姿は見えないらしく、だれも気づ
きません。坊さまのお経が終わると、法事の膳が運ばれましたが、じいさまに
は、食べたこともない料理ばかり。
夢中になって食べていると、下女が誤って皿を割ったのです。主人は、客の前
で怒りだし、見ていた娘は、「三年前と変わらぬ、ととさまなんか見たくない」
と姿を消してしまいます。
とたんに、じいさまの姿は、人に見えるようになったので、事の次第を話し、
骨を持ち帰り、手厚く葬ったのです。じいさまは、娘の恩人として家に引き取
られ、幸せに暮らしたのでした。
春休みのおはなし 四月 花さかじい 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
日本民話の会・編 国土社 刊
三代目、桂三木助師匠の名人芸を思い出します。新宿の末広演芸場で聞いた時
のことですが、演じる師匠と聞く客が一体となって楽しんでいました。何とも
和やかな雰囲気で、気がねなく大声で笑ったものです。
最近、みんなで大笑いする機会が、少なくなっていないでしょうか。自己中の
人は、笑い顔を見せませんね。「笑う門には福きたる」ともいわれていますが。
新宿のバーで知り合った春風亭小柳枝師匠の話を聞くために末広に出かけます
が、若い人はあまりいませんね。人情話なんか、かったるくて聞く気がしない
のでしょうか。「人情」を辞書で引くと、「人として自然にそなわっている、
心の動き、特に愛情、情け、思いやり」(岩波 国語辞典)とあります。人の
情けは、楽しく生活を過ごすための潤滑油の役割を果たしていたのですが、
「プライバシーの重視」とか何とかで影が薄くなってしまいました。
落語は、笑いながら学べるエスプリの塊のようなもので、すぐれた話芸は心に
沁みこむものですが、その火を消すのも今、生きている私達なんですね。三木
助師匠の左甚五郎の逸話を語る長編落語(CD約45分)「ねずみ」や「三井の大
黒」は、いつ聞いても心が和み、励まされたものでしたが……。
ところで、文中に、「霞がかかり、桜も菜の花も、今を盛りと…」とあります
が、これを読むと文部省唱歌の「朧月夜」を思い出します。「早春賦」のとこ
ろでもお話ししましたが、中学生の頃まで、この歌も、お姉さん達の歌声でな
ければ「承知できない。許せない!」と、なぜか、かたくなに信じていたので
す。大好きな歌でしたが、歌うことには抵抗がありましたね。しかし、こうい
う風情を味わえる時代があったことは、確かなのです。そこかしこに、自然は
息吹いていました。
よく知られている与謝野蕪村の句に、
菜の花や 月は東に 日は西に
があります。
春の日暮れを思い描ける好きな句の一つですが、司馬遼太郎の随筆の中に、こ
の句について語るところがあります。代表作の一つである「坂の上の雲」、先
進国に追いつくために、富国強兵と駆け足で上がってみた雲は、大きな犠牲を
払った太平洋戦争で、雲散霧消してしまいました。NHKでドラマ化されまし
たが、氏は映画化されることを望んでいなかったはずですが、どうしたことで
しょうか。学校で習った「日本史」は面白くありませんでしたが、幕末から明
治時代の歴史は、氏の著書で楽しく学べます。私たち親も含めてですが、若者
に欠けているのは、歴史に対する認識ではないでしょうか。司馬遼太郎、永井
路子さん、澤田ふじ子さん、諸田玲子さんなどの歴史小説を読んでほしいです
ね。教科書ではわからなかったことが、たくさん書かれています。外国人と対
等な付き合いをするには、自国の文化を知らなければならないのですが……。
堤上に立てば、月は東の生駒山系にのぼり、日は西のかなたはるか一の谷の雲
間に沈む。両岸(淀川)の野は、菜の花の黄があるのみである。
(「以下、無用なことながら」(489頁)文春文庫
司馬遼太郎 著 文芸春秋社 刊)
朧月夜には、黄色が似合いますね。
話は変わりますが、松本清張にSF的な野心作があります。Z国から東京に向か
って誤射された、5メガトン級の核弾頭ミサイルが5個、飛んで来る恐ろしい
話。ある地下室で最後を迎えた一団が歌を歌うところがあり、老人が歌ったの
は「朧月夜」。「歌いながら、男も女も涙を流していた」場面を、この歌が好
きだったせいでしょう、昭和48年発売にも関わらず、今でも覚えています。
壊滅寸前の東京のある所で、死を前にして春を思い描く、こういった清張の心
象風景がたまらなく好きでしたね。すぐ隣の国から、ミサイルが飛んでくる可
能性のあることを考えると、SFの世界ではなくなりました。日本を守るのは、
日本人自身であることを、もっと真剣に考えるべきではないかと心配しますが、
若い皆さん方は、どうお考えでしょうか。
朧月夜
作詞 高野 辰之 作曲 岡野 貞一
一 菜の花畠に 入日薄れ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて にほひ淡し
二 里わの火影(ほかげ)も、森の色も
田中の小路を たどる人も
蛙(かわず)のなくねも 鐘の音も
さながら霞める 朧月夜
里わ(里曲・さとみの誤読 人里の辺り)
にほひ(“におい”の旧仮名遣い)
ところで、現在、文部省は文部科学省といわれていますから、文部省唱歌も文
部科学省唱歌といわなければならないのかなと検索したところ、以下のような
回答にヒットしました。
文部省唱歌という呼称は法律や何かで規定されたものではありません。明治時
代に文部省が教科書用にした唱歌が自然発生的にそう呼ばれているので、文部
科学省とは直接に関係を持たないのです。ということで、回答としては「なり
ません」か「できません」です。
(文部省唱歌jp.ask.com/)
次は、本当に皮肉な話ですが、信仰について考えさせられます。修行中の坊さ
まと、生きものを殺す仕事をしている猟師との心眼の話です。小泉八雲氏も
「常識」という題で書いています。まさに常識ですが、妙な宗教にはまる若者
も、その原因を指摘する声はいろいろ聞こえてきますけれど、一つは、良識に
欠けている隙をつかれるのではないでしょうか。
神を感じるのは心であり、理性ではない パスカル〔パンセ〕
まことに神の本質を言い当てている。理性ではない、心に祀る神を、人間は悪
用、あるいは乱用している。神の御名において、神の御心のままに、などと自
分にとって都合のよいところだけをすくい取りして、人間の声を天声に変えて
しまう。
(忘れかけていた人生の名言・名句 森村 誠一 著 P226
角川 春樹 事務所 刊)
良識は、健全な一般人が共通に持っている思慮分別のことではないでしょうか。
良識は、自己を鍛錬して身につけるものであり、共生するための掟と考えてい
ます。価値観の多様化で、当たり前のことが当たり前と考えられなくなってい
ないでしょうか。小さいときの情操教育は、思慮分別の基本を作るものと思い
ます。お手本はご両親で、作る場所は家庭であり、第三者にゆだねるものでは
ありません。
◆とうとい仏さまの正体◆ 谷 真介 著
むかし、京都の愛宕山に、名高いお坊さんがいました。お坊さんは修行中で、
小僧さんを一人置き、小さなお堂から、めったに出なかったそうです。このお
坊さんのところへ、里から一人の猟師が、食べ物を持って、よく訪ねるのでし
た。
ある年のこと、猟師が久しぶりに訪ねると、お坊さんは「近ごろ、夜になると
普賢菩薩様が、白い象に乗りお姿を現す」というのです。そこで猟師は、一夜
を山のお堂で過ごすことにしました。すると、真夜中のこと、東の山から月が
昇るような光が、お堂に差し込み、白い象に乗った菩薩様が現われたのです。
お坊さんは、一心にお経を唱えています。猟師は、おかしなことに気づきまし
た。お坊さまの目にはともかく、お経一つ読めない自分の目に、どうして菩薩
様のお姿が見えるのだろう……、このことです。猟師は、弓を矢につがえ、菩
薩の胸に向けて矢を放ちました。びっくりしたお坊さんは、大声で戒めました。
ところが、今まで明るく見えていた後光が消え、何ものかが谷底へ転げ落ちる
音がしたのです。猟師は、真の仏様なら矢が刺さるわけがないといいました。
夜の明けるのを待って、谷底を調べに行くと、大きな古狸が一匹、胸を射られ
て、仰向けに転がっていたのでした。
日づけのある話 365日
四月のむかしばなし 谷 真介 編・著 金の星社 刊
世界的なベストセラーとなった「ダ・ヴィンチ・コード」(「最後の晩餐」の
斬新な解説には脱帽!)に、信仰について以下のような話があります。
「世界中すべての信仰は虚構に基づいているんだよ。信仰ということばの定義
は、真実だと想像しつつも立証できない物事を受け入れることだ。古代エジプ
トから現代の日曜学校にいたるどんな宗教も、象徴や寓話や誇張による神を描
いている。象徴は、表しにくい概念を表現するひとつの方法だ。それを丸呑み
しないかぎり、さほど問題を生じない。(中略)信仰を真に理解する者は、そ
の種の挿話が比喩にすぎないと承知しているはずだ」
(「ダ・ヴィンチ・コード」(下)P57-58
ダン・ブラン 著 越前敏弥 訳 角川書店 刊)
「信者には神聖なことかもしれないが、信者でない者には、おかしな話になる
ものだよ」と明治生まれの親父はよくいっていましたね。しかし親父は、「天
皇陛下様は神聖にしておかすべからず」が口癖でしたから、説得力に欠けてい
ましたが、言わんとすることは理解でき、若い頃、宗教にはまることはありま
せんでした。
東日本大震災が起きたとき、小泉八雲の作品で江戸時代にあった津波の話を思
い出したのですが、資料がなく残念に思っていたところ、月刊誌で見つけまし
たので紹介しましょう。
大震災後、64年ぶりに小学校の教科書に復活しました。
高台の田んぼにいた庄屋(村落の長)五兵衛は、強い地の揺れを感じた。眼下
の村では、人々が祭りの準備に忙しかった。そこから、もう少し遠くに眼をや
ると―海がどんどん後退し干潟になってきている。これは―伝え聞いた「あれ」
ではないか。五兵衛は立ちすくんだ。すぐ避難させねば―しかし下りていって
説明する暇などない。彼は火打石を取り出し、とりいれたばかりの稲の束に火
をつけた。燃え上がった束で次々に火をつけてまわった。村人が炎と煙に気づ
き、何をしている、やっと収穫した稲に火をつけてまわるとは―と、いっせい
に駆け上がってきた。村の男女・子供までが燃え上がる稲むらの前の五兵衛を
取り囲み非難しようとした。その時、彼は人々の背後を指さした。眼にする限
りの海が白い巨大な壁になって村に襲いかかってきた―。
これは、戦前の小学校・国語教科書に載っていた「稲むらの火」の「あらすじ」
で、原作は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の作品。安政年間、紀伊・和歌
山を襲った大地震・津波での実話を伝えたものです。
「稲むらの火」挿話の教訓 諏訪 澄 著
WiLL 5月緊急特大号 P42 ワック株式会社 刊
主人公、五兵衛のモデルは、醤油醸造業(現・ヤマサ醤油)の家督を継いだ浜
口五陵。震災後故郷の紀州広村に千五百両の私財を投じ、高さ5メートル、長
さ600メートルの堤防を築き、村民の離散を防ぐ。感謝を込め「浜口大明神」
を祀ろうとすると、「神にも仏にもなるつもりはない」と叱りつけて辞退。4
メートルの津波が襲った1946年の昭和南海地震では堤防により、流失家屋
は2軒だけ。国指定史跡となった「広村堤防」は、大きく育った樹木に覆われ、
自然の中に溶け込んでいる。(インターネットで「広村堤防」を見ることがで
きます)
東京新聞“筆洗”に出ていたコラムの要約ですが、自然と共生するには「想定外
はない」ことを真摯に受け止め、「広村堤防」のように住んでいる人々の生活を
考え、大胆に計画、構築できないものでしょうか。
国民の安全と教育は行政の要であり、長期的な視野に立った計画でなければで
きません。
6年たった今現在、原発事故の収束はおろか、住む町に帰れない人々がいるこ
とを、私達は忘れようとしているのではないでしょうか。
「何かできることはないか」などと力んでみても、できないのが現実ですから、
せめて節電を心がけ、原発だけに依存しない生活を営み、次世代の人々にバト
ンタッチをしたいものですが、これだけ電気に依存する便利な生活に慣れてし
まうと、こんな考えは絵空事で、説得力などありませんね。「その国の発電量
は文化のバロメーター」、誰の言葉か思い出せないのですが、これは確かでは
ないでしょうか。
最後は、むかし話ではおなじみの動物の恩返しです。動物でさえ恩を返すのに、
人間は、あだで返す話をよく聞きます。「動物でさえ」などといったら、動物
たちから抗議文が来るかもしれません。「動物は」に訂正しておきましょう。
春に来て子を育て秋に南の国へ帰り、そして生まれた所へ帰り子育てをする、
不思議な習性を持つツバメ。近くの関越高速道路の陸橋の下に、よく巣をかけ
ていたツバメが、ここ数年、全く姿を現さなくなりました。
また、ここ2、3年のことですが、10月頃になると日暮近くにスズメやムク
ドリの大群が、ねぐらを求めて東上線川越駅前の街路樹に群がっていました。
およそ300羽もいるでしょうか、その騒々しいこと。アルフレッド・ヒッチ
コックの名作「鳥」ではありませんが、小さなスズメやムクドリでも、あれだけ
数がそろうと怖いですね。もっとも、糞害ですが(笑)。ところが、平成25年
に駅前の街路樹は、新しい駅前広場に改築されるため伐採され一本もなくなり、
帰ってきた鳥たちは、電信柱や近くのビルの屋上で羽を休めていましたが、昨
年の秋は、ほとんど姿を見せませんでした。引っ越し先を見つけたのでしょう
か。人間にとって快適な環境でも、残念ながら恩恵を受けない生き物が、たく
さんいるということですね。ツバメも同じではないでしょうか。「地球にやさ
しく」と自然環境を守る運動に参加を呼びかけられた時、「人間の存在自体が
自然環境の破壊になっているのに」などと、したり顔で言っていた自分を思い
出しました。年は取ってもいささかも貢献していませんね、「地球にやさしく」
に(笑)。
◆つばめの恩返し◆ 高津 美保子 著
ある日のこと、一人暮らしのじいさんが、飯を食べて縁側で休んでいたところ、
一羽のつばめが、けがをして落ちてきました。薬をつけて包帯し、介抱したと
ころ元気になり、南の国へ帰っていったのです。
次の年、一羽のつばめがやってきて、庭にいたおじいさんの頭の上に、真っ黒
な大きな粒を一つ、落としていきました。ふんかと思ったらすいかの種です。
育ててみると、とても大きなすいかになりました。食べようと包丁を入れたと
ころ、種が飛び出したかと思うと、小さな大工どんや木びきどんとなり、十日
もすると立派な家を作り上げたのです。それだけではなく、どこからか米の俵
や味噌桶、醤油樽などを、次々と担いできて、部屋をいっぱいにし、「なくな
れば、また来ます」と、どこへともなく姿を消してしまったのです。それから
と言うもの、おじいさんは、何不自由なく暮らしたのでした。
※木びきどん(木をのこぎりでひき木材にする人)
四月のおはなし あたまにさくら 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
日本民話の会・編 国土社 刊
小さな命を大切にする昔話は、情操教育に欠かせないもので、幼い心に、こう
いった刺激を、たくさん与えてあげたいものです。
ところで、1月下旬のことでしたが、「深谷ねぎ」で知られる埼玉県深谷市の
あるお宅に、どうしたことか雀が舞い込み、今では家族の一員として過ごして
いると埼玉新聞に出ていました。人懐っこい雀で「ピーちゃん」と呼ばれ近所
でも評判とか。事の起こりは、奥さんが近所の十字路で小学生の交通指導をし
ていた時に肩に止まり、「人懐っこいスズメだこと」と感心していたのですが、
奥さんが家に帰るとついてきて、追っても、追っても家に入ってき、そのまま
住み着いてしまったそうです。ご主人の手に乗り餌を食べている写真も出てい
ました。「舌切り雀」のような話でほほ笑ましくなりましたが、ツバメといい
スズメといい、あの小さな体のちっこい脳に、どのような働きがあるのか、不
思議ですね。
名物「深谷のねぎ」、これがねぎかと信じがたいほど甘みがあり、生でガリガ
リとかじって食べられるのにはびっくりしました。焼くと甘みが増し、ねぎの
イメージが変わったことを覚えています。親父はこれを肴に、焼酎をストレー
トでグビリと飲んでいましたが、嫌いではない私も、この真似はできません(笑)。
(次回は、「第7章(1) 端午の節句です 皐月」についてお話しましょう)
さわやかお受験のススメ<保護者編>第6章(3)入園、入学を迎えたお母さん方へ
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「めぇでる教育研究所」発行
2018さわやかお受験のススメ<保護者編>
~紀元じぃの子育て春秋~
「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
豊かな心を培う賢い子どもの育て方
-第22号-
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第6章(3)入園、入学を迎えたお母さん方へ
4月は、これを抜きに考えられません。
環境が変わるのは、大変なことです。幼稚園や保育園は、ご両親にとっても、
第三者に教育を委ねる初めての場所です。子ども達は、親のもとを離れて初め
て生活する場所であり、ご両親に十分に保護されていた環境から巣立つわけで
す。
スタートが、肝心ではなかったでしょうか。
子ども達も、新しい環境になじもうと一所懸命に努力します。毎日、楽しいこ
とばかりが続くわけではなく、いやなこともあります。それでも、幼稚園へ行
こうとするのは、新しい環境には、家にはない魅力や新鮮な刺激があるからで
す。先生方も幼稚園は楽しい所だと、精いっぱいの努力をします。見ていると
涙ぐましいほどです。
しかし、変なお母さんがいるようですね。
「お母さん、ぼく、幼稚園へ、行きたくない!」
そのわけも聞かずに、瞬間湯沸器になって、幼稚園へ怒鳴りこむ「過保護・溺
愛・自己中心」の三つを備えたKYJT(空気読めない自己中)ママです。
「悪いのは友達、きちんと指導のできない先生!」
というそうです。多くの場合、お母さんと子どもに原因があるのですが、恥ず
かしげもなく、こういう行動を起こすお母さんですから、お母さんも子どもも、
そのことがわかりません。かわいそうなのは、子どもです。いつまでたっても、
お母さんから逃れられませんから。
幼稚園は、お母さんのもとを離れても楽しいことがたくさんあることを実地体
験する場所です。自立心を培って、小学校の集団生活に適応できる力をつける
所ですから、お母さん方も子ども中心の育児から卒業し、客観的にわが子を見
る機会と考えましょう。
過剰な愛情を注いでもいいのは、3歳までです。
3歳を過ぎると自立が始まりますから、「手を出さない、口をはさまない育児」
に徹すべきです。極端にいえば、3歳を過ぎても子どものやっていることを見
て、手を貸したくなるようでは、もう十分に過保護ですし、口を出したくなる
ようでしたら過干渉です。
一人っ子では、この加減がわからなくなりがちですが、きょうだい二人の下の
子を見るとわかります。上の子にないところを持っていることが、往々にして
あるものです。最初の育児は、何事につけても慎重になりがちですが、二番目
の子は経験済みですから手を抜きます。その分、子ども自身が自力でやらねば
なりませんから、それだけ試行錯誤を積み重ね、苦労しているわけでから、た
くましくなります。「一姫、二太郎」とは、「子を産み育てるには、最初は女
の子、二番目は男の子が育てやすくてよい」ということですが、それ以外にも
こういった意味があるのです。
男の子は、適度な試行錯誤を過ごせる環境でなければ、たくましく成長しませ
ん。進学教室でも、女の子はかなり積極的に自信を持って取り組んでいました
が、男の子は自信がないのか、なかなか手を出さない子がいたものでした。一
般に、女の子は成長が速いので、あまり手がかからないものですが、男の子は
少し遅いですから、男の子を育てているお母さん方、過保護にならないよう注
意しましょう。お母さん方は、とかく男の子に甘いところがあるからです。も
っともお父さん方は、女の子に甘くなりがちですから、お互いに客観的に子育
てを見直すことも大切ではないでしょうか。
ところで、平成4年度から施行された「幼稚園教育要領」によると、保育の方
針は、従来の「一斉保育から自由保育」となり、「一人ひとりの個性を伸ばし
ていく保育」に変わっています。これを誤解するお母さん方がいるようですね。
自由保育といっても、勝手気まま、何でもありの自由奔放な保育ではありませ
ん。みんなで一斉に、同じことを強制的にやるのは止めて、自発的に活動でき
るように導く保育という意味です。
例えば、知識や理解力を培うにも、自分自身で考え、工夫する機会や経験を、
たくさん持たせ、自分勝手な考え方ではなく、客観的なものの見方や考え方を、
身につけるように指導することです。もっと大胆にいえば、「他律」ではなく
「自律」の保育です。 ですから、過保護や過干渉な育児をやっ
ていては、自律できない、わがままで、甘えん坊の弱虫な子になりがちです。
幼稚園へ行かせるのは、親の子離れ、子どもの親離れの実地訓練期間と考える
べきだと思います。子離れできない育児は、運転免許取得でいうと、まだ仮免
前の段階です。幼児期の過保護、過干渉の育児が、中学生の頃になると、幼児
期に体験していなかったことから生じるギャップに対応できず、家に引きこも
ったり、非行に走ったりするのではないかと思えてなりません。育児しながら
「育自」するお母さんになってください。
しばらくの間、慣れるまで、子ども達もくたくたに疲れて帰って来るでしょう。
しっかりと、やさしく抱きしめて、勇気を与えてあげましょう。また、送迎を
義務付けられている幼稚園の場合は、お母さん方も体調を崩さないように気を
つけてください。
小学校も同じです。
新学期が始まると、もう勉強を気にするお母さんが増えているようで、子ども
達が新しい環境に慣れるのに、どのくらい神経を使っているか、わからないお
母さん方がいると聞きます。特に、国立附属や私立の小学校へ通う子ども達は、
電車やバスを使い、1時間前後の時間をかけて通学するはずですから、慣れる
まで大変です。朝のラッシュ時に、ランドセルを背負い電車に乗り込む子ども
達を見ると、「頑張れ!」と声をかけたくなります。
何といっても、狭き門をくぐり抜けてきた幼き戦士ですから。新しい環境に慣
れるまで、勉強のことは忘れましょう。
今年受験予定の皆さん方は、東日本大震災以降、通学経路、所要時間も、学校
選択の大切なポイントにもなっていることもお忘れなく。
極端な話ですが、学校から帰ってくるなり、
「宿題はないの!」
「テストは、どうだったの?」
「予習しなくて、いいの!」
「4時から塾です。遊びに行ってはいけません!」
こんなことばかりいわれて、勉強好きな子になれるでしょうか。これでは、命
令、統制、禁止、管理の育児で、勉強もこの姿勢でされてはたまりませんね。
まだ、危険なことをしますから、監視の目は必要ですが、自分で考え、行動し、
やったことには責任を持たせる「自立させる育児」に切り替えるべきです。
勉強も同じです。
勉強は、本人がその気にならなければ、辛いものです。皆さん方も経験ありま
せんか、あったとすればなおさらのことでしょう。難しい話ではありますが、
「勉強は自分のためにすること」を、一学年でも早く自覚できる環境を作って
あげるべきではないでしょうか。
学校生活の様子を知る一つの目安として、先生からの連絡事項を、きちんと報
告できているかどうかがあります。できていれば、先生の話を聞いている証拠
ですから、とりあえず心配ありません。学習に取り組む姿勢も確実に身につい
ていきます。
そして、背を伸ばし、左手でノートを押さえ、きちんと筆記用具を持ち、筆順
に従った字を書いているか注意しましょう。知識を詰め込むより、姿勢を正し
て、きれいな字を書ける方が大切です。「形は心を作り、心は形を整える」は、
明治生まれの親父の口癖でしたが、一理あると思います。
しかし、小学校生活も、楽しいことばかりではないでしょう。いじめもありま
すし、けんかもするでしょう。先生に怒られることもありますし、勉強もわか
らなくなることもあるかもしれません。
「何で、ぼくだけ、こうなんだろ!」
と落ち込む時もあります。
しかし、翌日、子ども達が元気に学校へ行くのは、家に帰ればやさしいお母さ
ん方がいるからではありませんか。家庭でリフレッシュできるからこそ、明日
に希望をもてるのです。
低学年時代は、お母さん方が頼りですから、温かい雰囲気のある家庭を作って
あげましょう。大人はストレスを解消できるすべを心得ていますが、子ども達
にはないからです。
小学校低学年時代は、勉強はできても利己主義より、勉強はほどほどであって
も、友達と仲良くできる子の方がいいと考えるのは、私が昭和15年(1940)
生まれだからでしょうか。
もちろん、勉強も大切ですが、お子さんが、この時期に体験しなければならな
いことが、たくさんがあるはずです。桜の花ではありませんが、魅力がなけれ
ば、友も寄って来ません。今、大切に育てたいのは、相手を思いやる心、共に
生きる共生の心である徳育であり、いろいろなことを体験していくために必要
な体育であり、豊かな情操を養うための知育、そして挑戦する意欲だと思いま
す。「知育・徳育・体育」ではなく、今は、「徳育・体育・知育」と順番を入
れ替えるべきではないかと考えます。知育だけが優先される子育ては不自然で、
いつか壊れる不安が伴うのではないでしょうか。
幼児期は、三つの能力をバランスよく育てることが大切です。
かつて、聖心女子学院初等科の学校説明会で、本校の求める子ども像は、「心
身ともに強くて、心のやさしい子」、最近は暁星小学校が、たくましい子ども
とは「気はやさしくて力持ち」とおっしゃっていますが、そのためには、「心
身ともに強く、心のやさしい親」であるべきだということではないでしょうか。
「親の背を見て子は育つ」、これこそ育児の鉄則ですね。
そして、忘れてならないのは、お父さん、お母さんは、お子さんが何人いても、
お子さんにとっては、たった一人のお父さんであり、お母さんであることです。
私事でなんですが、嫁ぐ娘から、「お父さんは、生まれたときから私のただ一
人のお父さんでした」といわれ、少なからず狼狽したことを覚えています。子
どもは、間違いなく「お父さん、お母さん」として評価しています。
これからの毎日は、お子さんの記憶の中にきちんと刻み込まれていきます。
「三つ子の魂百まで」といいますが、私は小学校の低学年時代に、生きる姿勢
の基本的な枠組み、形が出来上がるのではないかと考えています。そのお手本
が、ご両親であることを肝に銘じておきましょう。2014(平成26)年度
中の全国、小学生、中学生の不登校児童生徒は、12万2650人(前年11
万9617人)【2015年12月25日、文部科学省「学校基本調査」より】。
無責任な言い方で恐縮ですが、その原因は、ご両親の育児の姿勢にもあると思
います。
仕事柄、「育児で、もっとも大切にしたことは何ですか」と尋ねられることも
ありますが、「両親からやってもらったことで、うれしかったことはどんどん
実行し、いやだったことはやらないようにしました」と答えています。自分が
いやだったことは、子どもだっていやなはずです。
種を明かせば、論語の「己の欲せざるところは、人に施すことなかれ」の受け売
りです(笑)。反対句は、「己の欲するところを人に施せ」(新約聖書・マタ
イによる福音)ですね。孔子の仁(思いやり)、キリストの愛、どちらでもい
いのですが、こういったことへの配慮でいいのではないでしょうか。
最近、ひょんなことから、理想的な親子関係を表しているではないかと思える
歌を見つけました。といっても、例によって「わたし流」の解釈ですが。
映るとも 月も思わず 映すとも 水も思わぬ 広沢の池
この歌から教えられるのは、育児は結局のところ、「親はよい手本をみせ、子
は意識することなく見習う」にあるのではないでしょうか。剣豪、塚原ト伝、
柳生新陰流の開祖、石舟斎の作ともいわれているそうですが、およそ「剣の道」
とは縁のない私ですから、とんでもない思い込みで、その道の方々から嘲笑さ
れるかもしれません(笑)。なお、広沢の池で検索すると、四季折々の景色を
見ることができます
ところで、ぴかぴかの一年生と聞けば、頭に浮かぶのはランドセルでしょう。
このランドセルを日本で最初に使った人は伊藤博文で、大正天皇が学習院に入
学されたときに献上したのです。その後、学習院御用達となり、それが全国に
普及しました。ランドセルは、オランダ語の「ランセル」がなまったもので、
ランセルとは、兵隊さんが背負っている「背嚢(はいのう)」のことです。つ
まり、軍国主義の時代に、軍人を尊敬してあこがれていた子ども達の心に合わ
せて、通学用かばんとして考案されたものなのです。
(頭にやさしい雑学読本 3 竹内 均 編 三笠書房 刊 P290)
(次回は、「4月に読んであげたい本」についてお話しましょう)
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