めぇでるコラム

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第5章(2) 雛祭りとお彼岸ですね

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第17号-
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第5章 雛祭りですね(2)
      
★★なぜ、桃の花を飾るのですか★★
雛祭りを楽しんでいる雰囲気の伝わってくる、懐かしい唱歌があります。私に
は姉と妹がいましたから、この気持ちはよくわかります。箱の中から紙に包ま
れた人形を取出し、それを雛壇に飾りつける母やお手伝いさん(当時は女中さ
んといっていましたが)の姿が思い出されます。
作詞家のサトウ ハチローは、この詩の誤りを悔い印税をつぎ込み、買い戻し、
破棄したいと思っていたそうです。その誤りとは、二番の「お内裏様とおひな
様」で、お内裏様は天皇、皇后の姿をかたどって作った一対の人形、おひな様
は雛人形のことですからおかしな表現になり、三番の「あかいお顔の右大臣」
ではなく翁(おきな)の「左大臣」の方だからだそうです。誤ったまま伝えられ
るものは数多くあるようですから、これでいいのではないでしょうか。「男雛
様と女雛様」では、詩人の感性として許せないでしょう。
 
 うれしいひなまつり
  作詞 サトウ ハチロー  作曲 河村 光陽
 
    一 あかりをつけましょ ぼんぼりに
      お花をあげましょ  桃の花
      五人ばやしの    笛太鼓(たいこ)
      今日はたのしい  ひなまつり
 
    二 お内裏様と  おひな様
      二人ならんで  すまし顔
      お嫁にいらした 姉さまに 
      よく似た官女の  白い顔 
 
    三 金のびょうぶに  うつる灯(ひ)を
      かすかにゆする  春の風 
      すこし白酒    めされたか
      あかいお顔の   右大臣
 
    四 着物をきかえて  帯しめて
      今日はわたしも  はれ姿
      春のやよいの   このよき日
      なによりうれしい ひなまつり
 
なぜ、桃の花なのでしょうか。
 
「桃は五行の精なり」といい、桃には古来より邪気を払い百鬼を制すという魔
除けの信仰があった。(中略)中国で殷(いん)の時代に狩猟民族が天意を占
うときに、亀の甲や獣骨に占い字(ト辞・ぼくじ)を刻んでそれを火にあぶる
と、甲羅や骨にひび割れができる。
そのひびの入り方によって古代人は神意を判断して吉凶を占った。そのひび割
れをかたどったのが「兆」という象形文字である。「兆候(きざし)」「前兆
(しるし)」「兆占(うらない)」「兆見(まえぶれ)」などのことばからも
わかるように、兆は未来を予知するかたちを表している。「桃」は兆しを持つ
木とされ(中略)、未来を予知し、魔を防ぐという信仰が生まれたのである。
したがって鬼退治物語の主人公は、柿太郎でもなく梨太郎でもなく、桃太郎で
なければならないのである。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P79) 
 
桃の木には、たくさんの実がなり、魔を防ぐと信じられていましたから、桃の
花を供え、子宝に恵まれる女の子の幸せを祈ったのです。
 
さらに訳ありなのは、桃太郎の家来が、猿と雉と犬であることです。「犬猿の
仲」といわれるほど仲の悪い犬と猿が家来となって、うまくいくはずはないの
ですが、間に鳥がいるから大丈夫なのです。十二支にも「申(さる)・酉(と
り)・戌(いぬ)」と間に酉が入って、けんかをしないように配慮されていま
す。「和をもって貴しとなし」ではありませんが、「聖徳太子の教えが、ここ
にも生きているぞ!」と一人で悦に入っています(笑)。
〔注〕 十七条の憲法 
一曰 以和為貴 無忤為宗
「一に曰く 和を以って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗
(むね)とせよ」  
(和を何よりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい)
    (フリー百科事典〔ウィキベディアWikipedia〕より)
 
ところで、斑鳩の里にある法隆寺といえば、仏教を広めた聖徳太子の業績をた
たえるために建立された寺院であると思っていたのですが、哲学者、梅原猛氏
の「隠された十字架=法隆寺論」(新潮文庫 刊)には、一族を皆殺しにされ
た太子の怨霊を鎮めるために建てられた寺であることが明らかにされています。
夢殿にあった白い布で包まれた秘仏を、フェロノサ(明治時代に来日したアメ
リカの日本美術研究者)などの要請で開扉したところ、光背が頭の後に釘で打
ちつけられ、胴体が空洞でつり下げられている救世(ぐぜ)観音像が出てきた
そうで、ここから氏の怨霊説が生まれたのでした。読んで驚くことばかりです
が、哲学者の妥協を許さない鋭い明察は、歴史学者にはない魅力にあふれてお
り、すっかりはまりこみ、読みあさっています(笑)。
(注 光背 仏像の背後につける光明を表す装飾で、どのような仏像も、足元
の台座から支えを伸ばし、仏像の頭部まで持ち上げられている)
 
★★左近の桜、右近の橘って?★★
なぜ、雛壇に桃だけではなく、桜と橘を飾るのでしょうか。雛壇に向かって右
に桜、左に橘を飾りますが、これは京都御所にある「左近の桜」(御所に向か
って右側)「右近の橘」(向かって左側)を表しているそうです。京都の冬は、
昔から雪こそあまり積もりませんが、底冷えをする寒さは厳しく、禁中に仕え
る者は、古くから左近の桜のつぼみのふくらむ様子を眺めながら、春を待って
いました。
 
京都御所の紫宸殿の東側に桜、西側に橘が植えてあり、左近衛府の官人は桜の
木から、右近衛府の官人は橘の木からそれぞれ南側に整列して宮廷の警護にあ
たった。桜と橘はいわば、宮廷の門と同じ役割を果たしているのである。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P85)
 
官人とは天皇を守る近衛兵のことですが、お雛さまを飾るモデルは、京都御所
なんですね。
五段目には、おかしな顔をした傘と笠と沓を持った三仕丁を飾りますが、その
左右には、宮廷の門と同じように桜と橘を飾ります。その上の四段目には、向
かって右に左大臣(老人)、左に右大臣(若者)を飾りますが、唐の文化の影
響が、そのまま身分の上下となって表れているわけです。  
 
橘は、みかんの古称で、日本では万葉の時代から和歌に多くうたわれている馴
染み深い木の一つで、黄色い実が魔除けになるともいわれています。大昔より
日本に自生している常緑樹で、冬でも緑を失わないその姿と、見栄えのある美
しい果実、そしてかぐわしい香が、古くから尊ばれてきたのでした。また、神
の化身とされる蝶の幼虫が育つことで、神代と世俗を結ぶ神の依代(よりしろ・
心霊が招き寄せられて乗り移るもの)と考えられていました。
(http://www.e87.com/selection/sp_hina/colum_04.htmlより)
 
橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の樹
         万葉集 6(1009)
(注 枝“え” 常葉“とこは”)
 
「橘の木は、実も花も、その葉も、そして、その枝までも、霜が降ってもびく
ともしない。いつまでも葉の落ちない木だこと」と、万葉集にも歌われていま
すが、常葉の樹(常緑樹)の中でも、生命力の豊かな木であることがわかりま
す。何事も訳ありですね。
 
ところで、中宮和子が帝と初めて花見をしたのは、この左近の桜です。その折、
帝に献上したのが、在原業平をモデルとした押絵でした。見事なできに感激し
た帝が色紙に書いた和歌は、在原業平の世の中に
 たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
でしたが、その後、様々な事件が起き、帝も退位し、女帝興子の誕生となりま
す。帝の心中を推し量れば、「世の中にたえて徳川のなかりせば……」ではな
かったでしょうか。
 
若い皆さん方には馴染みのない作家かもしれませんが、文芸評論家、小林秀雄
の弟子で、60歳過ぎてから小説を書いた偉才、隆慶一郎の絶筆となった未完
の作品に「花と火の帝 上・下」(日経文芸文庫 刊)があり、25年の暮れ
再版され読むことができ感慨無量でした。家康、秀忠の横暴に毅然と立ち向か
った後水尾天皇とそれを支えた和子の様子が、猿飛佐助、霧隠才蔵などで組織
された「天皇の隠密」という奇想天外な応援を得て、徹底抗戦する展開になっ
ていましたが、完結することなく世を去ってしまいました。奇想天外というと
荒唐無稽と誤解されそうですが、昨年の正月に放映された「影武者徳川家康」
と同様、史実に基づいた着想からなり、一気呵成に読まされてしまう傑作で、
最後がどうなるかまるで想像もつかないだけに残念でなりません。宮尾登美子
さんと違った帝と中宮を知り、梅原猛氏と同様、歴史の謎を究明する鋭い洞察
力に脱帽するばかりで、1989年没、享年66歳、隆慶一郎のあまりにも早
い旅立ちに、無念の思いを禁じえませんでした。
 
血圧が上がるといけないので心を静めるとして、桃も桜も橘も、日本の春を静
かに語っているように思え、心は落ち着き、いつまで見ていてもあきませんね。
桜については、4月に詳しくお話しする予定です。
 
★★なぜ、菱餅は、赤、白、緑なのですか★★
菱餅を見ていると、積もっていた雪も少しずつとけはじめ、雪の下で寒さに耐
えながら、春を待っていた木の葉や草の緑色が、ほんのわずかながら姿を見せ、
早春の息吹を感じることのできる、そんな情景が浮かんできます。咲き始めた
桃の花に、春の淡雪がうっすらと積もる初春の雪景色、その白と緑と赤の鮮や
かなコントラストに、「日本って、いいなぁ!」と日本人であることにしみじ
みと感謝したくなります。菱餅は、初春を待つ人々の心を見事に表していると
思いませんか。本当のところはどうなのでしょうか。
 
菱餅の赤、白、緑の三色は、赤は桃や紅花で色づけしたもので魔除けを、白は
清浄を、緑は独特の香りのある蓬(よもぎ)で、体に悪いものを外に出す働き
があり、薬として使われていたので健康を表しているのだそうです。雛壇の敷
物が赤いのも、意味ありなんですね。
アカデミー賞の華、レッドカーペットは、関係ないでしょうね(笑)。
また、どうして形が「菱形」かですが、餅に入っている菱の実の葉が、菱形を
しているからではないかと思うのですが、これは私の独断ですから間違ってい
るかもしれません。
菱餅を飾る理由は、インドの仏典の説話に、竜に菱の実を捧げたところ娘の命
を救った話
があり、そこから「菱の実は子どもを守る」という言い伝えが生まれたからだ
そうです。
この菱を、茹でて食べたことがあります。戦後の食糧事情は最悪で、食べ物が
なく、さつま芋のつるまで食べました。レストランなどで豪快に残しているの
を見ると腹立たしくなるのは、幼児期に飢餓の経験があるからです。今でもア
フリカなどでは、飢えで死んでいく子ども達がたくさんいて、写真で見た子ど
もたちの目を忘れることはできません。食べ物がないのは、空腹感を満たすた
めに心が卑しくなり、辛くて、悲しいものです。「衣食足りて礼節を知る」は、
昔々の話になったようです。
 
★★ひな祭りのごちそう★★
女のお子さんがいる家庭では、必ず頂く蛤(はまぐり)のお吸い物とお寿司で
す。蛤の貝殻は、他の貝とは合わないことから女性の貞節を教え、夫婦の相性
が良いことを願ったものです。女の子のお祝いらしく、彩(いろどり)が華や
かなちらしや五目寿司などに、菜の花やぜんまいのおひたし、たらの芽のてん
ぷらなど、春の旬の食材が花を添えます。先に紹介した菱餅の他に、干した米
を煎った雛あられ、元は桃の花を酒に浸した桃花酒でしたが江戸時代頃から飲
まれるようになった甘い白酒、塩漬けの桜の葉で巻いた上品な香りが何ともい
えない桜餅などが、雛祭りのごちそうの定番でしょう。この桜餅ですが、甘い
物が苦手な私でも長命寺餅は頂きます、絶品ですね。ちなみに関西では道明寺
餅が有名です。
 
★★桃源郷は、どこにあるのでしょうか★★
桃といえば、この話を忘れることはできないでしょう、桃源郷です。陶淵明の
書いた「桃花源記」にある理想郷は、桃の花が咲き乱れる桃源郷として描かれ
ています。魔除けの力を秘めた霊木であり、不老長寿の仙薬(飲むと仙人にな
るという薬から転じて効き目が著しい霊薬のこと)と信じられていた桃の花ゆ
えに、納得できますね。「桃花源記」の原文は手に負えませんが、こういった
古典文学には、小学生の高学年用に書かれたものがあり、時々、図書館の子ど
も部屋におじゃまして、「変なおじさん!」といった目を気にしながら読んで
います(笑)。
 
【桃花源記(作:陶淵明)の話の概略】(抄訳)
 中国太元の時代、武陵に一人の漁師がいました。
 ある日、小舟をあやつり漁に出たのですが、見覚えのない所に来てしまい、
あたり一面に桃の花しか咲いていない林を見つけたのです。甘美な香りを漂わ
せ、美しい花びらが舞っているではありませんか。見とれていた漁師は、林の
先を突き止めたくなり奥まで船を進めました。林は水源のあたりで山につきあ
たったのです。そこに小さな穴があり、中へ入っていくと、突然、景色が開け、
土地は四方に広がり、立派な建物や滋味豊かな田畑が見渡せました。鶏や犬の
鳴き声が聞こえ、そこにいる人々は、異国人のような装いをし、
みんな楽しそうでした。
 ぼんやりと立っている漁師に気づいた人々は驚き、どこから来たのか尋ね、
ありのままに答えると、一軒の家に案内され、お酒やご馳走でもてなされたの
です。人々が言うには、
「私どもの祖先が、妻子ともども一村の者たちと秦の世の戦乱を逃れ、この絶
境に来てから、一度も外に出たことがないので、よその人とまったく関わりを
持たなくなってしまったのです。ところで、今は一体、どういう時世なのです
か」
と、漢はもちろん、魏、晋のこともわからないのです。漁師が詳しく説明する
と、みな感に堪えないように聞き、家から家へ連れていかれ、どこでも歓待さ
れるので、4、5日滞在したのでした。
 やっと村を去る日が来たとき、「私どものことは言うほどのこともありませ
んから、よそ様にはお話にならないでください」と懇願するのです。しかし、
途中に目印を残しながら帰ってきた漁師は、家に着くと、さっそく郡の太子の
もとへ行き、この話をしました。興味を覚えた太子は、案内をさせましたが、
目印はおろか、前に行った道さえ見つかりません。この伝えを聞いたある君子
が、その仙境へ行こうとしましたが、その志を果たさぬ内に病で世を去り、こ
の後、再び訪ねようとする者はいなかったということです。
この話から「武陵桃源」「桃源郷」は仙境の意に使われ、転じて理想郷の意となっ
たのでした。
   生きる心の糧 中国故事物語 Ⅳ  駒田 信二・寺尾 善雄 編
                           河出書房新社 刊
 
人はだれしも秘密を持つと黙っていられなくなるようです。浦島太郎も乙姫さ
まとの約束を守れず、おじいさんになってしまいました。これも人間の性(さ
が)でしょう。
 
山の奥深くに、海の底に、理想郷を夢見るのは子どもではなく、いい年をした
大人、しかも男性に多いともいわれていますが、かくいう私もその一人です
(笑)。分別のある女性はばからしくて興味がないようですが、それだけ現実
的なのでしょうね。桃源郷は、誰しもが心の隅に描きたくなる「かくありたい、
ささやかな願い」ではないでしょうか。残念ながら実生活でも、ささやかな願
いは、かない難くなっているようです。
(次回は、「お彼岸」などについてお話しましょう)
 

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