めぇでるコラム

さわやかお受験のススメ<保護者編>第5章(1) 雛祭りとお彼岸ですね  弥生

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2017さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第16号-
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第5章(1) 雛祭りとお彼岸ですね  弥 生
 
暦の上での春は、三月からです。
物の本によると、「春」の読み方は、万物が「発(は)る」(発する)からと
いう説が有力ですが、草木の芽が「張る」、天候の「晴る」、田畑を「墾(は)
る」などの説もあるそうです。
弥生(やよい)のいわれは、この頃になると、草木がいよいよ生い茂ることか
ら、「草木がいやおい茂る月」が詰まり、「弥生」になったといわれています。
 
★★五節句のおもしろい特徴★★
三月といえば、何といっても雛祭りです。雛祭りは、言うまでもなく女の子の
節句です。        
節句は一年間に五つあるので五節句と呼ばれ、正しくは「神と一緒にあること
を表す節供」だそうですが、ここでは使い慣れている節句としました。
 
五節句を決めたのは江戸幕府で、古来、宮中で行われてきた年中行事から5つ
選んだものです。
一月七日は人日(じんじつ)、陰暦の正月七日のことで、七草粥を食べる日か
ら別名「七草の節句」。
三月三日は上巳(じょうし)、お雛さまを飾る日から別名「桃の節句」。
五月五日は端午(たんご)、鯉のぼりや兜を飾り立身出世を願う尚武が添加し
て別名「菖蒲の節句」。
七月七日は七夕(しちせき)、夏の風物詩、七夕飾りをする「七夕の節句」、
別名「笹の節句」。
九月九日は重陽(ちょうよう)、陰暦九月九日の節句で、九は陰陽道では陽の
数とされ、これを二つ重ねた日にあたるので「重陽」といい、別名「菊の節句」
ともいわれています。
五節句は奇数日で、人日を除くと同じ数字が重なっていますが、これも何か意
味がありそうです。
 
暦の中で奇数の重ねる日を取り出し、奇数(陽)が重なると陰になるとして、
それを避けるための避邪(ひじゃ)の行事が行われ、季節の旬の食物から生命
力をもらい、邪気を払うという目的から始まりました。
(http://iroha-japan 「日本文化いろは事典」より)
 
七草粥には、ご馳走を食べ過ぎた胃を調整する薬草が入っています。
桃の葉は、薬草です。
菖蒲の根を細かく刻んで造った酒は、邪気を払い万病に効くといわれています。
淡竹(はちく)、真竹(まだけ)は竹葉(ちくよう)という生薬で解熱、利尿作用
があります。
菊は、長生きの薬といわれています。
五節句に登場する植物は、すべて薬用で、当然のことですが、やはり意味あり
でした。      
 
「私達の先祖は、薬品を食品化することで、まず日常の食事療法をやり、さら
に労働スケジュールに合わせて、その時期にいちばん必要な薬物を年中行事化
することで、魔除けや信仰として摂取し、健康体を維持できるように、実に巧
妙といっていい、健康管理を行っていたのである。」
(「梅干と日本刀」 日本人の知恵と独創の歴史
 樋口清之 著 祥伝社 刊 P131)
 
五節句は農業スケジュールに合わせて作られ、その時の飲食物は全て薬品なの
です。昔は病気になってから治療するのは大変でしたから、病気を予防するた
めの知恵でもあったのです。当時の農作業、米作りは人海戦術でした。病気を
すると労働力が減り、お百姓さんにとっては一大事でしたから納得できました。
ところで、「怠け者の節句働き」といい、怠け者をあざける言葉があります。
節句の日には仕事を休み、神さまにお願いをする慣わしがありましたが、普段、
怠けていると、この時も田畑で仕事をしなくてはならないことから生まれた言
葉です。農作業は、一日も手抜きが出来ない厳しい作業環境でもあったわけで
す。
 
★★雛祭り★★
昔のお雛さまは、今のように立派な飾りものではありませんでした。子どもが
病気にかかると、新しい雛人形を川へ流して、病気が体の外へ逃げていくよう
に、悪いことが起きないようにと、お祈りをしました。流し雛です。
 
室町時代、紙で作った人形(ひとがた)で体をなでて穢れを移し、川や海に流
すことで無病息災を祈った「流し雛」という風習と、ひいな遊び(人形遊び)と
が結びつき、貴族の間で人形を飾り、祀(まつ)るようになったと考えられて
います。
(http://iroha-japan 「日本文化いろは事典」より)
 
子どもの頃に見た覚えがあります。米俵の両端にあるわらで編んだ丸いふた
「さんだわら」(東京では「さんだらぼっち」)の上に、紙と土で作った雛人
形を、あられや菱餅、桃の花と一緒にのせて川へ流したもので、今のように部
屋に飾って祝うようになったのは、徳川家康の孫の東福門院が、子どものため
に作った座り雛が、その始まりといわれています。
                                    
東福門院は、名を和子(まさこ)―彼女は徳川二代将軍秀忠の娘として生まれ
た。徳川幕府の婚姻による朝廷懐柔策のため、元和6 年(1619)に、14
歳で後水尾天皇の中宮として入内し、3年後に皇女興子(おきこ)が生まれた。
(中略)寛永6年、幕府と朝廷が反目するなかで起こった紫衣事件および春日
局事件のため、後水尾天皇は、譲位を決意(中略)、6歳の興子内親王(明正
天皇)に譲位され(中略)、平安時代以来絶えてなかった女帝の出現である。
中宮和子は興子が健やかに育ち、美しい花嫁になって嫁ぐ日を夢見ていたのだ
が、天皇になってはもはや結婚できないであろうと、興子の幸せを夢に描いた
押絵の掛軸を作った。モデルは美女の代表・小野小町と美男として名高い在原
業平という夫婦の座り雛である。(中略)それが現在の雛のはじめといわれて
いる。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P72-73)
 
少し解説を加えますと、秀忠の妻、江(ごう)は、織田信長の妹、お市の方の三
女、長女、茶々は秀頼の母淀君、次女の初は京極高次の妻。
入内とは、中宮、皇后などが正式に内裏へ参内すること。
紫衣(しえ)事件とは、僧侶が勅許により着ることを許される紫衣を幕府が授受
を規制する制度を設け、後水尾天皇が許可した大徳寺の沢庵和尚などの紫衣の
着用を無効にした事件。
春日局事件とは、家光の乳母お福は、天皇や皇后に謁見できない身分にもかか
わらず、中宮和子に会うため強引に参内、中宮から「春日局」という局号を授か
った事件。
押絵とは、羽子板にみられるように、花鳥、人物などを厚紙でかたどり、きれ
いな布でくるみ、中に綿を詰めて高低をつけ、板などに貼り付けたもの、掛軸
の雛は、向かって左に業平、右に小町が描かれています。
  
雛人形の始まりが、美男、美女の代表であるとは、いかにもお雛さまらしいで
すね。雛人形が飾られるようになったのは、文化文政時代を経て天保(1830)
の頃からで、宮中から武家社会、裕福な商家や名主の家庭、そして町人社会へ
広まり、現在のような豪華な雛壇が作られるようになったのです。
 
平成21年のNHK大河ドラマは「天璋院篤姫」の原作者、宮尾登美子さんの
作品に、お雛さまの始まりとなった中宮和子を描いた「東福門院和子の涙」が
ありますが、紫衣事件や春日局事件の経緯、内裏と大奥の習慣の違い、京都と
江戸の文化の違いに苦労された和子の姿が、侍女の目を通して冷静に描かれて
います。
「天璋院篤姫」では、その苦労を皇女和宮が味わうことになり、従来、天璋院
は和宮の姑の立場から意地悪姑と捉えられがちでしたが、女性の眼から見た徳
川幕府の崩壊していく様子を描く優れた歴史小説で、二つの作品を読むと、朝
廷と幕府の関係、やがて迎える明治維新の火種が、徳川幕府初期の頃から、随
所にまかれていることもわかります。この年から、なぜか、大河ドラマを見る
ことになってしまいました(笑)。
 
22年の「龍馬伝」は、「天璋院篤姫」の後半の世界と重なり、「篤姫」と同様、
最後まで見ましたが、関が原の一戦で敗れた島津、毛利の両家の祖先の怨念が、
勝者の徳川家を倒した戦いで、「国を変える」と叫び走り続けた竜馬が、歴史の
波に押し流され舞台から消えた後に明治維新がなり、再び天皇家が政治の表に
登場し、損をしたのは会津藩の松平家であったわけです。坂本竜馬と高杉晋作
は、幕末が生んだ異才児、壮絶な生き方がいいですね。
 
23年は、秀頼に嫁いだ千姫、三大将軍家光、次男の忠長、女帝興子の母であ
る和子の母君を主人公にした「江」でした。姉の茶々、淀君は豊臣家に、妹の
江は徳川家に嫁ぎ、姉妹の母親であるお市の方が前田家に殉じたように、淀君
は秀頼と共に世を去りますが、江は三度も結婚し、女帝の祖母にもなる波乱万
丈の生涯を送ります。天下布武を旗印に基礎を作ったのは信長、統一したのは
秀吉、磐石の体制を作り治めたのは家康ですが、織田家の血が脈々と流れてい
るのには驚かされますね。原作、脚本は「天璋院篤姫」を手がけた田淵久美子
さんで、史実と違った解釈が、なぜか新鮮な感じがして、これまた最後まで見
るぞと意気込んでいましたが、江も秀忠も立派過ぎて、途中でリタイアしまし
た。諸田玲子さんの「美女いくさ」(中央公論社 刊)と同様、江のキャラク
ターを変え、信長、秀吉、家康、秀忠の果たした歴史的役割も、簡潔に整理さ
れていましたが、永井路子さんの「乱紋」(文春文庫 刊)、澤田ふじ子さん
の「無明記」(「寂野」に収録 徳間文庫 刊)、テレビでも放映されました
が大胆な発想に度肝を抜かれた隆慶一郎の「影武者徳川家康」(上中下 新潮
文庫 刊)などの作品に感化され、なじめなかったためでした。
 
余談になりますが、江の長女、秀頼の正室である千姫を主人公にした澤田さん
の「千姫絵姿」(新潮文庫 刊)は、女性でなくては書けない傑作で、「吉田
御殿の魔女」などおもしろ、おかしく伝わる話と違い、納得できる人物として
描かれた傑作です。その千姫の墓は、左甚五郎が魔除けのために置いた「忘れ
傘」でも知られる、知恩院にあります。
 
ここまで篤姫から始まった大河ドラマは、何らかの関係があったのですが、24
年は趣向が変わり「平清盛」、久しぶりに骨太の歴史物語を楽しみましたが、
視聴率はあまり芳しくなかったようです。
そのためかどうかわかりませんが、25年は「八重の桜」で、再び篤姫の時代
に戻り、会津藩が登場しました、松平容保です。澤田ふじ子さんの作品に、薩
摩藩と会津藩の怨恨、うらみつらみの凄まじさを書いた「葉菊の露」(上下 
中央文庫 刊)があり、どうしても悲劇的な物語になりがちですがさらりとか
わし、「幕末のジャンヌ・ダルク」の時期はテンポもよく面白かったのですが、
新島襄と出会い同志社大学設立の頃からまどろっこしくなり、美形の八重さん
では無理でしょうが「天下の悪妻」といわれたイメージもなく、「日本のナイ
チンゲール」まで印象付けることはできなかったようです。収穫は、八重さん
が日本で初めてプロテスタントの結婚式を挙げられたことでした(笑)。
 
25年は「軍師官兵衛」、信長、秀吉、家康の時代へ逆戻り。官兵衛がみた3
人の英雄を、それぞれの役者が見事に演じ見応えがありました。「織田がつき
 羽柴がこねた天下餅
座りしままに食うは徳川」といった狂歌がありますが、まさにその通りの展開
でした。寺尾聰の扮した家康、父親の名優、宇野重吉に似てきましたね。イス
ラム国のテロ事件、宗教が争いの元だけに悲惨ですが、日本でこの種の争いが
起きにくいのも、誤解を恐れずにいえば、3人の合作した天下餅によるところ
が多く、政教分離の発端となったのが信長の比叡山の焼き討ち、後を継いだ秀
吉が検地と刀狩で武士と農民を分け米による国家経済の基礎を固め、家康が士
農工商の階級を作り、禁中並公家諸法度などで天皇と公家を政治から切り離し、
武士が天下を支配する徳川幕府が誕生、まさに信長の構想であった「天下布武」
が実現したわけです。
 
昨年は、再度「篤姫」の時代に戻り、徳川体制が崩れ大政奉還後の文明開化に
至る過程を描く「花燃ゆ」、吉田松陰は絵になりにくく、かったるい気持ちで
見ていましたが、「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心
なりけり」と詠んだ高杉晋作に何とか、といっても姿を消した後はやはり面白
くなかったですね。真央ちゃんは頑張っていましたが、笑顔が素敵なだけに、
もう少し生かした演出ができなかったかなと、責任のない一視聴者のグチです
が(笑)。
今年は「真田丸」、池波正太郎の「真田太平記 12巻」(新潮文庫 刊)では、
真田一家、父昌幸(凄い!)と信幸、信繁(幸村)兄弟が結束した戦いを通し
て、家康がいかにして天下を取るかが描かれており、「官兵衛」と同様、家康
の役は難しくどう演じるか、今年も期待しながら見てしまいそうです。
 
ところで、徳川家の家紋は、水戸黄門の印籠でおなじみの葵ですが、三代将軍
家光の乳母、春日局の生涯を描いた澤田さんの小説「江戸の鼓」の中で、その由
来が明かされています。
 
 葵紋は京都、賀茂神社の神紋。同社は遷都以来、天皇に敬われ、伊勢大社を
もしのぐ大社になり、その神文は尊く、天皇家すらはばかりを持つようになっ
た。徳川家康がこの葵紋を家紋に決めるについては、かなりの政治性がうかが
われる。単に徳川家の遠祖松平氏が、賀茂神社の氏子で、賀茂信仰によるもの
だとはとても考えられない。天皇家をもはばからせる政治的権威の必要からだ
ろう。
(江戸の鼓 春日局の生涯 澤田ふじ子 著 徳間書店 刊 P102)
 
「天皇家をもはばからせる(遠慮させる)」のが、家康の野望であることがわかり
ます。歴史に「イフ」はありませんが、もし、中宮和子に授かった高仁親王が
順調に育っていれば、公武合体は成立し、畏れ多くも天皇家に織田家と徳川家
の血が流れ、明治維新は違った形で回天したのではなかったでしょうか。
そして驚いたのは、現在の雙葉学園の前身である「雙葉会話女学校」は、学校が
創設された赤坂葵町の葵にヒントを得て校名とし、一本の茎の先に二枚のハー
ト型の葉をつける「ふたば葵」の図案を校紋としたことでした。キリシタンを
禁止し迫害した徳川家と同じ紋、そして学園は江戸城外堀に面した四谷門の跡
に、何とも不思議な気がしますね。
 
またしても余談になりますが、宮尾さんと澤田さんの著作には、いつも頭の下
がる思いで読んでいますが、十二代市川團十郎が亡くなった時、父である十一
代團十郎をえがいた「きのね」を再読しましたが、奥方の壮絶な生きざまを、
ここまで赤裸々に描いた宮尾さんの作家魂には、寒気を覚えるほどでした。作
家、檀一雄の娘である檀ふみさんの解説もすばらしく、一読をお勧めしたい一
冊です。なお、十二代市川團十郎が亡くなったのは、平成25年2月3日でし
た。
 
話を本題に戻して、雛壇には、お内裏さま、三人官女、五人囃子、左大臣、右
大臣、おかしな顔をしている三人仕丁(じちょう―雑役係)、菱餅、あられ、白
酒、桃と橘の花に、いろいろな生活用品が飾られています。女の子が、やさし
いよい子に育って、幸せになるようにとお願いする日ですから、飾りものも女
性ムードいっぱいで、夢があります。人形が主役ですが、下の方に飾ってある、
あのゴタゴタとした所帯道具も、いいではありませんか。タンス、鏡台、長持
ちから牛車、駕籠(かご)までそろえているのもあります。新婚さんの望まし
い嫁入り道具一式で、昔の女の子が描く幸せな青写真を、雛壇で表しているよ
うな気がして、ほほえましくなります。
左大臣、右大臣は、永田先生の説に従えば、左近衛大将、右近衛大将ですが、
童謡「たのしいひなまつり」に親しみがあるので、歌詞の表記に従いました。
 
★★男雛と女雛、右ですか、左ですか?★★   
女の子がいない家庭では見られませんが、デパートに行くと、豪勢なものが飾
ってありますから見てほしいのです。地方によって、男雛と女雛の位置が違い
ます。東京など関東地方では、男雛が右側(向かって左)に、女雛は左(向か
って右側)に飾りますが、京都や奈良の関西地方では、男雛が左で女雛は右と、
逆に飾ってあります。
関東方式は、昔中国では、「右がすぐれている」という考えがあったからです。
右には「貴い」、「尊敬すべき」、「大切な」など、左には「卑しい」、「低
い」、「正しくない」などの意味があり、「右腕」や「右に出る」、「左遷」
や「左前」は今でも使っています。ところが、唐の時代に左右が逆転し、左上
位になったのです。
 
日本の文化は唐の影響を受け、平安時代に確立した日本の制度は左優先となっ
た。左大臣は右大臣より上席であり、左近衛大将は右近衛大将より上級である。
(中略)左上位は唐から宋へ受け継がれたが、元の時代に逆転し、明清の時代
に再々逆転し、左上位の順位が引き継がれている。
(年中行事を「科学」する  日本経済新聞社 刊 P75)
 
もっとわかりやすいものがあります、結婚式の披露宴を思い出してください。
新郎は向かって左側に、新婦は向かって右側に座っていますが、これにも確か
な意味があります。日本の結婚式は、昔から男子が家を守っていく、男子優先
で行われてきたからです。関西方式は、天皇家と関係があります。
 
 天皇は、『天子南面』という言葉が示すように、紫宸殿の玉座に北を背にし、
常に南の方をむいて座られた。すると、天皇の左手が東、右手が西にあたる。
昔は日の出る東が月の沈む西より上と考えられていたから、内裏様を左に飾っ
た。したがって、大臣も左大臣が上席となっている。
(日本の年中行事百科 2 春 民具で見る日本人の暮らしQ/A P25
        監修 石井 宏實 河出書房新社 刊)
 
面白い話があります。太平洋戦争終了後、日本を占領した国際連合軍の中で、
いちばん偉かったダグラス・マッカーサー元帥が、「男雛は向かって右、女雛
は向かって左にしなさい!」と命令したそうです。アメリカやヨーロッパでは、
レディー・ファーストの考えがあるからだと思っていたのですが、ことの起こ
りはヨーロッパで、騎士が戦うときには右手に剣を持ち、左手で婦人を抱える
ことから、左優先になったそうです。
 
ところで、今はどうかわかりませんが、歴史の教科書に、昭和天皇がマッカー
サー元帥を訪問したときに撮った写真がありました。その位置ですが、元帥は
向かって左にいて、「わしの方が偉いのだ」という印象を与えています。この
写真を見て、明治生まれの父は、怒りをあらわにしたものですが、昭和15年
生まれの私は、かなわないなと思いました。
日本のことをよく研究していたからで、奈良や京都の日本の誇る文化遺産を、
戦火から守ったのは、マッカーサー元帥の配慮があったそうです。アメリカは
建国して、わずか二百年有余です。元帥自身が認めたように、極東国際軍事裁
判(東京裁判)は、大きな汚点となりましたが、私達は、敵国の武将が高く評
価した日本の文化、脈々と続いてきた日本の歴史を知り、子ども達に誇りをも
って伝えるべきではないでしょうか。「建国記念の日」でも紹介しましたが、
西暦2016年は、皇紀では二千六百七十六年になります。
 
 
童謡「たのしいひなまつり」、皆に親しまれている歌で、お母さん方も思い出
に残る歌の一つではないでしょうか。ところが、作詞者のサトウハチロウは、
二つの誤りに気づき、破棄したいと考えていたそうです。その誤りの一つは、
2番の「お内裏様とおひな様」で、「内裏雛」は天皇、皇后の姿をかたどった
「殿と姫の両方」を表し、「おひな様」は男雛と女雛で一対を表すので、同じ
ことを繰り返すことになるからです。二つ目は、3番の「赤いお顔の右大臣」
は左大臣の誤りで、さらに大臣ではなく、正しくは随身、近衛兵(宮中警備の
兵士)の長官のこと。大臣であれば「笏(しゃく)」を持っているはずが、弓
矢、太刀で武装しているからだそうです。
(hinaningyou.biz/matigattaohinasama.htmより抄訳)
 
永田先生の説に従えば、「左近衛大将」になりますが、「さこんえのだいしょ
う」では字余りで、歌いづらいですね(笑)。歌詞は次号で紹介します。
   (次回は「ひな祭りの2と桃源郷」についてお話しましょう)
 

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