めぇでるコラム

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第10章 終戦記念日、このことです 葉月(4)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第39号-
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第10章  終戦記念日、このことです   葉 月(4)
 
間もなく終戦記念日。明治生まれの親父と一緒に、九段にある靖国神社へ出か
けたことが、懐かしく思い出されます。「戦友に会いに来ているんだよ。戦地
で亡くなったら、靖国で会おう」が合言葉だったそうです。60年安保闘争の
時、「アメリカの核の傘に守られていることを少しは考えろ!」と叱られ、二
等兵の経験者だけに、「書生のたわごと、机上の空論が何の役にも立つものか!」
と痛烈でした。境内にある遊就館、「一度しかない人生を、しっかりと生きろ!」
と叱責されるような気がする館(やかた)で、元気を頂いています。
 
【八月に読んであげたい本】
昭和20年3月10日、東京大空襲。たった一晩で、10万人もの尊い命が失
われました。もし、親父の転勤がなければ、この日で私の人生は終わっていた
かも知れません。東京の下町、日暮里に住んでいたからです。戦後、訪ねた親
父の話では、一面焼け野原で、知人は誰もいなかったそうです。
「東京大空襲ものがたり」、年長さんでも理解できるのではないでしょうか。
当時の世相や風習もわかりやすく解説されています。作者は早乙女勝元氏で、
既刊の「東京大空襲」は読みましたが、こういった映画があり、子どもたちに
も読める本があるとは知りませんでした。ダイジェストにするのはおこがまし
いと思い、本文を少し紹介することにしました。
 
今井正監督の「戦争と平和」。
主演は20歳になったばかりの愛らしい工藤夕貴。空襲のシーンは、思わず息
をのむ凄さです。主人公の電柱を巡って、次々に起こる悲しいできごと。私は
作者であることを忘れて涙が止まりませんでした。なお、映画の原作分「戦争
と平和」は講談社から刊行されましたが、私はこの電柱のことを子ども達に伝
えようと、同じ題材で書いたのが、この「東京大空襲ものがたり」となったの
です。
 
「電柱だけが知っている炎の夜のこと。
ゆかりと進一の家の近くに、真っ黒こげの電柱があります。
これは、咲子おばさんにとっては、たった一つだけの、大事な目印なのです。
東京大空襲の炎の夜に、おばさんは、赤ちゃんの螢子ちゃんと、ここではぐれ
てしまったのです。
二人は父さんから、その話を聞かされ……」
 
これが物語の始まりで、真っ黒こげの電柱の叫び声で終わります。
 
亡くなった人は、何も語ることができませんが、どれだけたくさんの、つらく
悲しいできごとがあったことでしょうか。焼け残りの電柱は、今も東京下町の、
あの町角に立っています。北風の吹く寒い日も、夏のカンカン照りの日も、電
柱は亡くなった人たちに変わって、「炎の夜」のできごとを、私に、そしてみ
んなに語り続けているように思われます。
でも、その声は聞こえません。ですから、ゆかりと進一は、電柱にかわって、
こう呼びかけるのです。
 誰もが、平和を守るための努力を、
 そのための、小さな勇気を、
 わすれてはいけない、と。     花房ゆかり 眞一
東京大空襲ものがたり  早乙女勝元 著 有原誠治 絵  金の星社 刊
 
絵は、アニメの好きな方にはすぐわかるおなじみのはずです。辛い体験をされ
た方々は、冥界に旅立たれているのではないでしょうか。こういった現実があ
ったことを、しっかりと子どもに伝えることも、親の仕事ではないかと思いま
す。久しぶりに図書館に出かけ見つけ、「楽をするなよ!」と叱りつけられた
気がしました。昔、娘が涙を流しながら読んでいた「ガラスのうさぎ」にも出
会いました。(反省)
 
長崎のピカ
昭和20年の8月6日に、広島に原子爆弾が落とされたの。
一発で広島中が燃え、何10万の人が死んだの。
3日後の8月9日、今度は長崎に落ちて、私の家族8人は一人ずつ順々に死ん
でいったの。
最初に死んだのは、おばあちゃん。
外出中に被爆し、真っ黒になり、はらわたを出して死んだの。
次の日に、父さんと母さん、兄ちゃんと死んでいったけれど、上の妹、ゆみ子
は、ずうっと見ていたの。
次の日の明け方、きれいな船に、父さんと母さんと、おばあちゃんと兄ちゃん
が笑って、おいで、おいでしていると、かぼそい声で言うの。
「船に乗ったらだめ!」
と叫んだけれど、「みんなで迎えに来たよ」と言って亡くなったの。
顔はボールのようにはれあがり、歯ぐきはまっ黒にただれ、紫色の斑点が身体
中に出て、口も動かないの。
でも、そう言って死んだの。
気がついたら、弟も死んでいたの。
下の末っ子の妹、すず子は、防空壕で体を寄せ合っていたら、冷たくなってい
くので、マッチをつけてみたら、もう死んでいたの。
その身体を、一晩中だいて寝ていたの。
冷たくて、皮がべろべろとはげるの。
次の日、お隣のおじさんがきて、一人ずつ焼いたの。
 私は、12歳でした。
夏休みのはなし
「海ぼうず」 松谷みよ子/吉沢 和夫 監修 日本民話の会・編
  国土社 刊 
 
12歳の無残な夏、平和な時代に生かされていることに、ただ感謝するだけで
す。
私は広島に原子爆弾が落とされた時、岡山の県境にある忠臣蔵で名高い播州赤
穂、兵庫県赤穂町に住んでいました。
真っ青に晴れ渡った暑い朝でした。突然、空が濃霧のようなものに覆われ、真
夏の太陽が肉眼で見えるほどになったのです。これが、あの悪名高きキノコ雲
が流れてきたのだとは知りませんでした。「新型爆弾が落とされたらしい!」
と、大人達が声をひそめて、ささやきあっていたことを覚えています。
5歳の夏でした。 
 
8月6日は広島原爆忌。
慰霊碑に「過ちは繰り返しませぬから」と刻みながら、原発を受け入れ、想定
外の事故とはいえ、過ちを繰り返してしまいました。しかし、もう草木も生え
ないだろうといわれた廃墟の中から、広島も、長崎も、復興しました。快適な
文化生活を望み、その結果として原発は作られたことも、自分達の住む町にな
いことに胸をなでおろし、後ろめたい気持ちで、私達は承知していたのではな
いでしょうか。ですから、日本列島に50基もの原発が設置されたわけです。
東電や福島県民の皆さん方だけが苦労するだけではなく、国民全員が、不便な
生活へ戻ることを覚悟し、真摯な気持ちで「電力について」考えるべきではな
いでしょうか。とは言え、この猛暑、クーラーなしの生活は考えられません。
「のど元過ぎれば熱さを忘れる」、情けない話ですが、人間、本当に弱いです
ね。
 
◆ホタルになった兵隊さん◆   堀田 貴美 著
前の戦争のとき、九州南端の知覧に陸軍の飛行場があり、戦争末期、そこは特
攻基地でした。
特攻機は人間爆弾で、搭乗員は、二十歳前後の若者達だったのです。
基地の近くに、おばさんと二人の娘が手伝う富屋食堂があり、隊員達に親しま
れていました。
その中に、出撃後に飛行機が故障して、帰ってきた宮川三郎軍曹がいました。
再び、出撃しましたが、二度とも機械が故障し、引き返したのです。
整備隊長に、いい飛行機をくださいと訴えました。
仲間が戦死し生き残るのは辛かったのでしょう。
同じ頃、やはり、一人生き残った滝本軍曹が配属され、宮川さんと知り合い、
富屋に一緒に顔を見せるようになりました。
昭和20年6月5日の夕方、二人は、明日出撃するため、富屋へ別れにきたの
です。
娘たちは、出撃の鉢巻きを贈り、話もつきません。
帰りがけに宮川さんが娘達に、
  「明日の晩9時に、ホタルが2匹入ってくるから、中に入れてやってね」
と言いました。
翌日は天気が悪く、富屋の人達は、案じていましたが、夜8時頃、滝本さんが
現われ宮川さんは行ったという。
2機並んで飛び立ったが、雨雲にさえぎられ、帰ろうと合図しました。
宮川さんは、「お前は引き返せ」と、別れの合図をし、雨雲の中へ飛び去った
のです。
娘達は、宮川さんの気持ちが、痛いように伝わってきました。
その時、一匹のホタルが天上にとまり、時計を見ると、9時でした。
宮川さんが言った時刻と何秒も違いません。
店にいた隊員もよってきて、滝本さん達は、ホタルを見ながら、宮川さんの思
い出を話しました。
ホタルは、話を聞いているようでした。
「宮川さん、やっぱり帰ってきたんじゃねえ。」
おばさんは、ぽつんと言いました。
日本むかしばなし 23
ジェット機とゆうれい 日本民話の会 金沢 祐光 絵  ポプラ社 刊 
 
最後の、おばさんのつぶやきが、悲しく、むなしい。多くの人達の犠牲でつか
んだ平和を、私達は、浪費していないでしょうか。特攻については「11月に
読んであげたい本」でお話しします。
 
盛夏、真夏に怪談話を一席。 
むかし話にも怪談はありますが、現代っ子は、昆虫を殺しても、「電池、取り
替えてよ、お母さん!」というそうですから、こんな話、恐がらないでしょう。    
 
◆あめかいゆうれい◆   中本 勝則 著
ある夏の暑い晩のこと。
あめ屋のじいさんのところへ、青ざめた顔をした一人の女が、あめを買いにき
たのです。
それからというもの、決まったように、夜遅く、あめを買いに来ます。
七日目の晩のことでした。
「あめをください」と差し出した手に、銭はありません。
いつもより、青ざめた顔は、悲しそうに見えるのです。
じいさんは、何もいわずに、あめをあげました。
「どこの人だろう」と後をつけると、不思議なことに、山寺の山門まで来ると
姿を消したのです。
すると、寺の中から、赤子の泣き声が聞こえるのでした。
驚いたじいさんは、和尚さんに訳を話すと、まだ新しい墓にじいさんを連れて
いったのです。
先日、赤子を身ごもったまま女の人が亡くなり、それがこの墓だというのです。
掘り出してみると、棺桶の中で、玉のような男の子が、母の胸にしがみつき、
見れば男の子は、あめをにぎっているではありませんか。
じいさんが売ったあめでした。
昔、死んだ人には、一文銭を六枚、手に握らせ墓に埋めたそうです。
死んだら渡る「三途の川」の渡し賃でした。
しかし、母親の手の中には、六文銭はなかったのです。
和尚さんは、泣いている男の子を抱き上げて、「母さまは、わしが供えた銭で、 
毎晩、お前のために、あめを買いに行ったのだ」と言って、静かに念仏を唱え
たのでした。
 海ぼうず  松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
 日本民話の会・編  国土社 刊 
 
妖怪やお化けの話は、たくさんあります。幼児用に、怖くない話が多いですか
ら、お子さんが興味を持ったときは読んであげましょう。無理なく、勧善懲悪
を教えるように構成されているからです。
 
ここで、大人の皆様方に、背筋がぞっとする話を紹介しましょう。
柳田国男の「遠野物語」から「おしらさま」です。
学生時代に読み、泉鏡花の世界以上に、「こんなに簡潔で、背筋の寒くなるよ
うな名作があるとは」と感動したのですが、今夢中になって読んでいる梅原猛
氏の本に、当時、感じていたことと、同じ感想が述べられていたことに驚きま
した。
 
昔ある所に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。又一匹の馬を養う。娘
此馬を愛して夜になれば厩舎(うまや)に行きて寝(い)ね、終(つい)に馬
と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘には知らせず、馬を連
れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父に尋ね此
事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋(すが)りて
泣きゐたりしを、父は之を悪(にく)みて斧を以て後より馬の首を切り落せし
に、忽(たちま)ちむすめは其首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマ
と云ふは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作
る。
 
これは柳田のつくったみごとな短文であると私は思う。柳田はしばしば日本の
昔話や伝説の中に、現代の小説よりはるかに面白くて、はるかに深い話がある
と語っているが、当時、自然主義文学の平板さを嘲笑しようとしていたように
すら、私には思われる。(中略)桑の木に垂れ下がった、すでに死んだ馬の首
にすがって泣いている娘、それを見て激怒して、斧で首を切る父、そしてその
切られた首とともに昇天する娘、その二行に匹敵する緊張感を持った日本語の
文章を探すことは、難しいと私は思う。
(日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る P99~100 集英社文庫 刊)
 
現代文に訳すと、ナンセンスでポルノ風な話になり、民話の素朴な世界は失わ
れてしまいます。短歌のように、余分なものを切り捨て、あとは読む者に解釈
を任せる民話が好きで、氏の解説から、学生時代にタイムスリップさせてもら
えました、読書の醍醐味ですね。
 
この本には、土着の縄文文化が稲作を持った弥生文化に攻め込まれ、大和朝廷
ができ、全国制覇のために蝦夷征伐が行われた経緯を、わかりやすく解説して
いますが、「アイヌと倭人(日本人)は同じ民族である」と指摘するところは
圧巻で、既成事実を論破していくゆるぎない論調にのめりこんでしまい、暑さ
を忘れさせてもらっています。
 
応援に駆けつけた郡上藩士から見た、破壊されていく会津藩をえがいた「残菊
の露 上・下」(澤田ふじ子 著 中央文庫 刊)でも、黙々と戦い、戦後、
斗南での過酷な生活に耐える姿が克明に描かれていますが、「なぜ、松平容保
は、かくも徳川家に忠誠をつくしたか」を氏は、以下のように絵解きしていま
す。
 
徳川幕府は、三代家光の時に盤石の態勢を整えたが、その基礎を作ったのは二
代将軍秀忠が下女に産ませた子で、正室の江を恐れ、ひそかに養われた経緯を
もつ保科正之。「将軍家に忠実をつくす」を天下の法に定め、会津藩にいち早
く日新館を建て、正直を尊ぶ縄文文化の道徳が強く残ることも相まって、純真
な武士道が確立され、民衆にまで深く浸透し、その教えをかたくなまでに守り、
実行したのが容保で、耐えたのが会津藩の人々。
幕末、徳川家に加担し、王城の地を守った会津藩と新撰組は、徹底的に薩長の
報復を受けたことはよく知られていますが、江戸無血開城を実現した裏には、
徳川慶喜と勝海舟が保身を図るために、官軍の憎しみの目を会津に向けさせた
のではないかとの推察は、さっさと大阪城を後にした慶喜のその後の行動を見
ても、真偽はともかくとして、肯きたくなる気迫にあふれていました。
 
「天璋院篤姫」以来、なぜか、大河ドラマの主人公に関係のある本を読むこと
になり、「八重の桜」からは、縄文文化を知ることになった「日本の深層」に
出会うなど、何やら因縁があるのではと思っています。もっとも、この文庫本
は、1994年に発売されていますから、今頃になって大騒ぎするバカ者が言
うのもなんですが、「おしん」に代表される東北人の忍耐強さの一端を理解で
きました。
 
目下、放映中の「花燃ゆ」は、せっかちな私にはまどろっこしいテンポにイラ
イラし、高杉晋作を扱った本を読み直してみました。その中の一冊、幕末、官
軍につくか幕府に従うか、迷う長岡藩家老、河井継之助を描いた「峠 (上下)」
(司馬遼太郎 著 新潮社 刊)には、晋作は“ただ者”ではなかったことが
書かれたおり、イライラの源は、この本であったと思い出し納得しました。下
巻の50~100頁には、福沢諭吉の西洋の自由と権利に基づく「独立自尊」
の精神が発酵する過程も描かれています。
 
余談ですが、諭吉が酒好きであるとは知りませんでした。
母親が幼童の福沢の月代(さかやき)を剃るとき、痛さに我慢できなくなり泣
くと、母親は、「あとで酒をたべさせるから」となだめて剃ったとか。こうい
った話に出会うと、うれしくなりますね。「酒をたべさせる」は誤植ではあり
ません。酒粕ではないでしょうか。私も幼少のみぎり、少し食べて頬を染め、
ボーッとなった記憶があるからです。この幼児体験が酒好きになったとは、単
なる言い訳です(笑)。
(次回は、「お月見です」についてお話しましょう」
 

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