めぇでるコラム

2016さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第2章(3) 何といってもクリスマスと大晦日ですね

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第8号-
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第2章(3) 何といってもクリスマスと大晦日ですね
 
 ★★なぜ、大晦日というのですか★★
いよいよ日本のことです。12月31日を、なぜ、大晦日というのでしょうか。
これも訳ありなのです。
 
1年間の最後の日を大晦日(おおみそか)または、大晦(おおつごもり)とも
呼びます。「晦日(みそか)」とは、毎月の末日のことです。一方、「晦(つ
ごもり)」とは、「月の隠れる日」すなわち、「月籠り(つきごもり)」が訛
ったもので、どちらも毎月の末日を指します。“1年の最後の特別な末日”を
表すために、2つの言葉のそれぞれに「大」をつけ、「大晦日」「大晦」とい
います。
〔いろは事典 http://iroha-japan.net/iroha/A01_event/13_omisoka.html〕
 
月の運行状況を思い出してください。太陽と月と地球が一直線になると、月は
地球から見えなくなりますが、この状態から月が始まることから「朔(さく)」
や「新月」といいます。三日ほどすると細い鎌形の月が見え、次第に大きくな
り満月、十五夜となります。そして、次第に小さくなり、やがて見えなくなり
ますが、この状態を「月隠り」といいます。ご存知のように、月が地球を一回
りするには、一ヶ月かかります。ですから、月の始まる新月の状態「朔」を訓
読みして「ついたち」と呼び、また月の始まる「月立ち」が転じて「ついたち」
と呼ぶようになったのです。また、月末は月がこもって晦(くら)いので「晦
日(つごもり)」といいます。
 
太陰太陽暦では、1ヵ月を大の月は30日、小の月は29日と定めていたので、
今のように31日の月はありませんでした。そして、月末を三十日と書いて
「晦日」と呼び、12月31日は、その年最後の月末ということで、「大」を
つけて大晦日となったわけです。そういえば、紙幣の肖像に使われた樋口一葉
の作品に「大つごもり」がありますね。樋口一葉記念館は、台東区竜泉3ー
18ー4にあります。「たけくらべ」の舞台となった竜泉寺町です。興味のあ
る方に、ホームページを紹介しておきましょう。
( http://www.taitocity.net/taito/ichiyo )
ところで、一葉が結婚する相手はどなたであったかご存じでしたか。何と、夏
目漱石なのです。
 
「樋口一葉の父親が夏目漱石の父親と同僚だったために、二人の間で結婚話が
進んでいました。ところが一葉の父親が亡くなり、一葉自身も二十四才で亡く
なったため、この話は立ち消えとなったそうです。(中略)もし、夏目漱石と
樋口一葉が結婚していたら、どんなに文才のある子が生まれていたことでしょ
うか」
 (「つい他人に自慢したくなる無敵の雑学」 
   なるほど倶楽部 編 角川書店 刊 P182)
★★一家総出の大掃除★★
これは、私の記憶にも、しっかりと残っています。大晦日は、新しい年へ続く
大切な日ですから、お正月の神様を、ご先祖様と一緒に迎えるために、まず、
神棚と仏壇をきれいにしました。家の中や外も、掃除したものです、しかも雑
巾掛けです。私の役目は、外の手の届くところでした。冬の寒い時期です、手
なんか真っ赤になって、ズキン、ズキンと痛くなりますし、ズルズルと鼻水の
出る、きつい仕事でした。現代風の建物と違って木造です。障子は紙ですから、
水をかけて洗うわけにはいかないのです。
 
そして、今、考えると大変だったと思うことがあります。 昔は、煮炊きは薪
(まき)でした。煙は煙突から外に出るようになっていますが、燃えたときに
出る煤(すす)が、どこからともなく侵入して、部屋を、かすかに汚すのです。
昔は、電気掃除機などありませんでしたから、はたきと雑巾で、本当にこまめ
に掃除をしているのですが、この煤ばかりは、さすがの母もてこずっていまし
た。それで「煤払い」といって、竹竿の先にわらを縛りつけ、それで、日頃は
手の届かないところまで、煤やほこりを取ったのです。とにかく普段、手をつ
けない所まで徹底的に掃除をし、正月の三日間は何もしません。ほうきで畳を
掃くと、「福を掃く、福が逃げる」といって、嫌ったものです。ですから、大
晦日は掃除納めでもあったのです。今は、元日でも掃除をしています。しかし、
電気掃除機は掃くのではなく吸い集めますから、「福を集める」でいいのかも
しれません。もっとも、こんなことを気にするのは、年寄りだけでしょうね。
 
★★なぜ、大晦日にそばを食べるのですか★★
大晦日に食べるから、「年越しそば」です。私はそば好きですから、年中、食
べていますが、大晦日のそばは、特別な趣があります。「細く、長く、来年も
幸せを、そばからかき入れる」といわれています。昔は引っ越ししたときに、
ご近所に「末長く、よろしく頼みます」と気持ちをこめて、そばを配ったもの
でした。また、そばは切れやすいことから、「一年分の苦労や災いを切り捨て
る願い」もこめられていました。「細く、長く、切り捨てる」と縁起をかつい
でのことと思っていましたら、これも訳ありでした。昔、金を使い細かいもの
を作っていた職人さんを金箔師といいますが、仕事場を掃除する時に、そばの
だんごで、畳のへりや透き間を叩いて、飛び散った金箔を集めたそうです。そ
こから、「そばは、金を集めて縁起がよい、そばで金を集める」という縁起と
なって、来年もお金がもうかることを願い、そばを食べるようになり、江戸中
期から始まった習わしといわれています。
そばの味を引立てる薬味に欠かせないのが葱(ねぎ)ですが、これにも面白い
いわれがあります。
 
葱(ねぎ)は、心を和らげる意味の「労(ね)ぐ」に通じて、それが祓い浄め
る神職「禰宜(ねぎ)」ともなって、今年の汚れを払いぬぐって心安らかに新
しい年を迎えようという、語呂合わせでもある。また、年越しそばを食べ残す
と、来年の小遣い銭にこと欠くともいわれている。    
 〔年中行事を「科学」する P251 永田 久 著 日本経済新聞社 刊〕
 
年越しそばを食べ残す話は、お雛さまを長く飾っておくと、お嫁に行きそびれ
るのと同じ縁起かつぎです。しかし、現代っ子は、年越しそばを食べています
かね。ラーメンやスパゲッティの方が好まれているのではないでしょうか。大
晦日にラーメン、何となくそぐわないし、寂しい気持ちになりますね。行列が
できるようになると困りますから紹介しませんが、私の教室のある本八幡には、
とてもおいしい、小さな蕎麦屋さんがあります(笑)。 年越しそばを食べる
と、いつもは寝る時間ですが、この日だけは、起きていても怒られません。こ
れは、長く起きていれば起きているほど長生きできるということで、眠りたが
る子どもまで、無理に起こしたものです。
 
当時の遊びは、カルタ、すごろく、トランプでしたね。「ババ抜き」や「7並
べ」、「神経衰弱」などをやっていたと思います。相手がいる遊びですから、
負けてはなるものかと真剣に戦っていました。
現代っ子は、一人でゲームをする機会が多すぎませんか。ゲームの結果に一喜
一憂する相手がいるからゲームが成り立ち、自分が負けていても止めるわけに
はいきません。ましてや、リセットボタンを押して、再戦などもできません。
「勝っても負けてもみんなで楽しむ」、これも大切ではないでしょうか。負け
が続いて悔しがると、適当に手を抜いて勝たせてくれた母を思い出します。
(感謝)
 
また、これは、よく覚えていますが、大晦日の11時50分ごろから風呂に入
り、除夜の鐘が鳴り終わると、12時を過ぎたことになりますから、「2年間、
風呂に入っていた!」などと喜んでいたものです。何といっても子どもですか
ら、普段は、12時過ぎまで起きていることはありません。起きていられたこ
とが、子ども同士の自慢の種になるのです。若い衆、ほとんどお百姓さんでし
たが、「夜明し」といって、お酒や肴を持ち寄り、一晩中、語り合うのを楽し
みにしていたようです。残念ながら、私がその年齢になった時は、そういう習
慣は無くなっていました。
 
★★除夜の鐘の意味★★
除夜とは、「古い年が押し退けられる夜」の意味で、大晦日の晩です。行く年、
来る年も、除夜の鐘が鳴らなくては決まりがつきませんが、これにもいろいろ
とわけありです。
 
「除夜の鐘は煩悩を解脱し、罪業の消滅を祈って百八回つくとされ、中国では
宋の時代から始まった。日本では鎌倉時代に禅寺で朝夕行われていたが、室町
時代からは大晦日だけつくようになった」
 (年中行事を「科学」する P251 )
 
私の子どもの頃は、夕方の鐘が、門限時間でした。なぜか、お寺の鐘というと、
「烏の鳴き声」「山に沈むお日様」「夕焼け」の3つが浮かんできます。童謡
「夕焼け小焼け」の世界です。
   
夕焼け小焼け
作詞 中村雨紅  作曲 草川 信
一 夕焼け小焼けで日が暮れて    山のお寺の鐘がなる
  お手てつないでみなかえろ    烏といっしょにかえりましょう
 
二 子供がかえったあとからは      まるい大きなお月さま
  小鳥が夢を見るころは        空にはきらきら金の星
 
私の住んでいる川越では、冬の間、午後4時になると、このメロディが流れて
きます。天気がよければ、真っ赤に染まった西の空に雪をいただいた富士山が
見え、やがて薄墨を流したような夕闇が空を覆い、宵の明星が輝きを増してき
ます。いつ見ても飽きない日本の素晴らしい夕暮れです。
 
話を戻しまして、百八つの鐘のつき方ですが、きちんとした決まりがあるので
す。
 
「五十四声は弱く、五十四声は強く打つ百八回の鐘は、百八つの煩悩を洗い清
めるためである。百七つ目は最後の宣命といい、ゆく年の最後に鳴らして煩悩
が去ったことを宣言し、百八つ目は、最初の警策といい、来る年の最初につい
て、新たなる年を迎えるにあたって煩悩に惑わされぬよう、眠りを覚ますとい
われる」       (年中行事を「科学」する P251)
 
宣命とは、宣命体で書かれた天皇の命令のことであり、警策とは、禅寺で座禅
の時に、ピシッと肩を打ち据える、あの棒状の板のことですから、決意の程が
わかります。
 
ところで、鐘の音の数え方、「声」なんですね、知りませんでした。平家一門の
栄華と滅亡を描いた名作「平家物語」、日本人なら学生時代に一度は目にする有
名な序、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者
必衰の理をあらわす」と「鐘の声」になっています。沙羅双樹の花は、別名ナ
ツツバキといい、夜明けに咲き夕方に散ることから、世の無常の象徴として記
されている白い花で、めったにお目にかかれませんが、この花で知られている
のが、京都市左京区にある妙心寺の塔頭(たっちゅう)山内にある小寺院東林
寺です。私が見たのは樹齢三百年といわれていた古木でしたが、今花を咲かせ
ているのは、二世の若木だそうです。緑の苔の上に散り落ちた白い花とのコン
トラストが鮮やかで、釈迦の教えである「今日すべきことを明日に伸ばさず、
確かにしていくことがよき一日を生きる道である」を、身をもって示している
雰囲気があり、一見の価値はあります。ホームページでも沙羅双樹を見ること
ができますが、毎年6月の中旬から7月の初旬まで「沙羅双樹の花を愛でる会」
として公開されています。妙心寺は大きなお寺で、一度は訪ねておきたい京都
の名刹です。
 
★★百八つの煩悩(ぼんのう)って何ですか★★
人間には、百八つの悩みや欲張りの心があり、これを煩悩と言うのですが、私
たち凡人は悩み多き日々を送るのも当然なのです。
 
「煩悩」とはなんだろう。サンスクリットではクレシャーと言って「心を怪我
しそこなうもの」を意味し、心をわずらわし、身を悩ます心の働きであり、悟
り党最高の目的の実現を妨げるすべての心の働きである。
  (年中行事を「科学」する P251)
 
「お盆の始まり」(7月)で紹介しますが、「子煩悩」という言葉があります。
わが子を並はずれにかわいがることですが、子どもは迷いのもと、苦しみのも
とであって、「子は煩悩のもと」という意味から転化したものだそうです。子
煩悩にはまったお母さん方は、子どもの自立を妨げていることを忘れてはなり
ません。自立心が育まれなければ、自ら取り組む意欲、自発性が育たないから
です。「やるぞ!」といった気力がありませんから、「やった!」という達成
感もありませんし、「次に何をやろうかな?」という関心もありません。無気
力、無感動、無関心、全部「無」です。子どもの成長を支える原動力は意慾で
あり、達成感であり、好奇心です。自立を妨げる育児は、過保護であり過干渉
であることを肝に銘じておきたいものです。
 
煩悩の根源は一般に貪(とん)、瞋(しん)、痴(ち)とされ、これを三毒、
三惑などという。「貪」とは「むさぼり」であり貪欲である。「瞋」とは「目
をむいて怒ること、瞋恚」であり、また嫌悪、悪意でもある。「痴」とは「お
ろか、真実をわきまえない痴愚」である。「痴」はサンスクリットではモーハ
mohaというが、モーハという音が「ばか」となって慕何、莫詞、莫迦などと音
訳され、後には「馬鹿」と当て字で書かれるようになった。
 (年中行事を「科学」する  P252)
 
「貪」は貪欲、「痴」は音痴などでわかりますが、「瞋恚」は難しいですね。
仏教で言う十悪の一つで、自分の心に逆らうものを憎しみ怒ることです。この
三つから解脱できると悟りの境地に至るのでしょうが、やはり凡人には無理な
話です。この「解脱」の「解(げ)」ですが、解熱剤を「かいねつざい」と読
み笑われたことがありましから、解脱などとても出来ない相談ですね(笑)。
参考までに仏教の十悪を紹介しておきましょう。
 ・身の三悪(正行・しょうぎょう 悟りを得るための正しい行い)
殺生(せっしょう)無意味に他人や衆生(生きとしいける一切のもの)の命を
奪うこと。
偸盗(ちゅうとう)盗みのこと。
邪淫(じゃいん)淫らな異性交流のこと。
 ・口の四悪(正語 悟りを得るための言葉の災いの戒め)
     妄語(もうご 嘘をつくこと)
     綺語(きご 奇麗事をいって誤魔化すこと)
     両舌(りょうぜつ 二枚舌を使うこと)
     悪口(あっく 他人の悪口をいうこと)
 ・意の三悪(正思 悟りを得るために邪淫になる欲望)
     貪欲(とんよく 欲深いこと)
     瞋恚(しんい すぐ怒ること)
     愚痴(ぐち 恨んだり妬んだりすること)
(「通信用語等の基礎知識」より)
口の四悪、意の三悪の(  )内の文言は、わたし流の勝手な解釈です、読み流
してください。
では、百八つの悩み、煩悩の正体は何をいうのでしょうか。
 
人間には六根という六つの感覚器官-目・耳・鼻・舌・身・意-を持っていて、
それぞれ六境という六つの対象-色・声・香・味・触・法を理解する。そのと
き三不同-好・平・悪の受け取り方があり、その程度は染・淨の二つに分かれ
る。そのすべてが、過去・現在・未来の三世にわたって、人を煩わし、悩ます
のである。
  6  × 3  × 2 ×  3 =108
(六根) (三不同) (染淨) (三世)  合わせて百八つの煩悩という。
(年中行事を「科学」する P252)
六つの対象の最後の「法」とは、仏教の説いた真理のこと。何だか難しくなっ
てきましたが、わたし流に解釈すると、こういうことではないでしょうか。
「好・平・悪の受け取り方」は、感度良好、普通、感度不良、「染淨」の「染
は物を色水に浸して色を付ける」意味ですから影響を受ける、「淨は水が静か
におさまって濁りがない」ですから影響を受けないことでしょう。まだ、あり
ます。
 
人間の六根には、三不同という好・平・悪の受け取り方の他に、三受という楽・
捨・苦の感じ方があり、そのすべてが過去・現在・未来の三世にわたるので、
 6  × (3 + 3) ×  3 =108
(六根) (三不同) (三受) (三世)  という解釈もある。
(年中行事を「科学」する P253)
またしても、わたし流ですが、三受という楽・捨・苦の感じ方は、楽しむ、感
知せず、苦しむということでしょう。まだ、あります。
 
その他に、1年は12カ月で、1年には二十四節気、七十二候(時節、時期)
があるので、 12+24+72=108として、その時々に人を悩まし迷わ
せるものが合せて百八つの煩悩があるという説がある。
 (年中行事を「科学」する P253)
 
これが分かりやすいですね。二十四節気とは、季節の変わり目を示す春分、夏
至、秋分、冬至などの節分を基準に1年を24等分して15日ごとに分けた季
節で、七十二候は、二十四節気を約5日ずつ3つに分け暑さ、寒さから見た時
節のことです。私たち凡人は、いついかなる時にも煩悩に悩まされる愚かな人
間ということでしょうか。二十四節気については、6月に詳しくお話しします。
 
ところで驚いたことに、「牛に引かれて善光寺参り」でおなじみの善光寺、一
宗一派に拘らずに、全ての人に極楽浄土へ導く教えを説く、日本人的な心の持
ち主であらせられる御本尊、一光三尊阿弥陀如来様を祀る本堂の柱は、何と
108本だそうです。ところで、なぜ、「牛に引かれて善光寺参り」というの
でしょうか。
 
昔、善光寺の近くに住みながら、信仰心など持ち合わせていなかったおばあさ
んが、ある日さらしておいた布を、隣の家の牛が角に引っ掛けて走り出したの
を見て、それを追っていくうちに、いつの間にか善光寺に駆け込み、それが縁
で深く信仰することになったという説話から、「自分の意思からではなく他人
の誘いで、思いがけない結果を得たり、よい方面へ導かれることのたとえ」と
して使われます。       (学習研究社 四字熟語辞典より)
 
さらに驚いたことに、念仏を唱える時に使う数珠ですが、一つ一つは百八つの
煩悩を表し、正式には108個の珠から成り立っているそうです。しかし、皆
さんのお持ちの数珠は、108の半分か四分の一ではないでしょうか。材料は、
モクゲンジの実、サンゴ、水晶ですが、モクゲンジの実から出来ている数珠で、
念仏を20万遍唱えると天界に生まれ、百万遍唱えると極楽に往生するそうで
す。1日1回唱えても1年で365回、これは大変なことですね。
 
先程お話ししました「六根」ですが、六根から起こる欲望を断ち切り清浄にな
ることを「六根清浄(しょうじょう)」と言いますが私にも体験があります。
と言っても禅寺で修行をし、煩悩から解脱したのではありません。昔、親父と
富士山へ登った時、「六根清浄、六根清浄!」と唱えながら頂上を目指したも
のでした。欲望を断ち切り、清らかな気持ちになって登ることでしょう。何し
ろ日本のシンボルでもある「霊峰富士」ですから。しかし、のどは乾き、お腹
はすき、足は棒のようになり、くたびれ果てて苦しかったのですが、頂上へ着
いた時の爽快さ、あれが六根清浄の心境でしょうか。
 
今はNHKの紅白歌合戦の後に、「行く年、くる年」といった番組があり、茶
の間で全国の名鐘の声を聞けるのも有難いことです。本来除夜の鐘は、鐘の声
を聞きながら、今年1年に犯した様々な罪を悔い改め、煩悩を取り除き、清ら
かな心で新年を迎えるためのものでした。外に出ると、月は青白く輝き、あた
りはひっそりと静まり、もの凄く寒かったものでした。大気が汚染されていま
せんから、冷気を妨げるものがなかったのでしょう。そして、音を遮る高層ビ
ルなどありませんでしたから、除夜の鐘の声が遠くからでもはっきりと聞こえ、
子ども心にも何やら心に迫るものがあったと記憶しています。今はどうでしょ
うか。車の音の絶えることもありませんから、静かに、厳かにとはいかないで
しょう。
 
ところで、日本人は不思議な民族なんですね。12月から1月にかけての行事
をみても、クリスマスを祝い、除夜の鐘で煩悩を除き、正月には神社へ初詣を
します。キリスト教、仏教、神道の行事、イヴェントが生活に入り込んでいる
国です。矛盾だらけの日本でも、私はこの国に生まれたことを感謝しています。
この感謝の気持を子ども達に何とか伝えたいのです。力不足でさばききれない
かもしれませんが、こういった形式で進めたいと思います。お父さんもお母さ
んも童心に帰り、行事を昔話を、お子さんと一緒に楽しんでください。そして、
受け継がれてきた日本の文化を伝えてあげましょう。そこから家庭の文化は生
まれます。大切な、大切な心の教育は、ご家庭で作り上げた文化に礎があり、
そこから生まれてくるものだと私は確信しています。第三者にゆだねて身につ
くものではありません。
 (次回は「12月に読んだあげたい本」についてお話ししましょう)
 
今回が今年最後の配信になります。来年もよろしくお願いします。
よいお年をお迎えください。
めぇでる教育研究所
所長  藤本 紀元

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